第九十五話 懐かしい気配
グレイシアは氷の回廊を静かに進んでいた。
何もかもが冷たいはずのこの城で——
その胸の奥に、ぽつんと湧き上がる微かな温もりに、彼女は思わず足を止めた。
(……この気配……)
懐かしい。
優しくて、静かで、けれどどこまでも揺るがぬ意志を持った、あの人の気配。
(まさか……いや、そんなはずは——)
しかし距離が縮まるたび、その気配はますますはっきりと、確かに“それ”であることを示してくる。
そして——
広間の扉が開かれ、そこに立っていたのは、一人の若い人間の青年。
その傍らにはヴァルゼリナが、そして膝元には三毛の猫がいる。
けれどグレイシアの視線はただ、彼ひとりに釘付けになっていた。
脈打つ魔力、そしてその奥にかすかに宿る“あの人”の残響。
「……白也……?」
その名を口にした瞬間、こらえていた何かが、音を立てて崩れた。
グレイシアの頬に、透明な雫が次々とこぼれ落ちていく。
それが自分の涙だと気付いたとき、彼女は小さく震えながら、何度もその名を繰り返した。
「白也……白也……!」
百年の氷が、ほんのひとときだけ、音もなく溶けていく。
「グ、グレイシアっ!? ちょ、ちょっと、なに泣いておるのじゃ……!?」
突然泣き崩れたグレイシアに、ヴァルゼリナはさすがに肝を冷やした様子で、慌ててその肩を抱き支えた。
「久しぶりに会ったと思ったら、いきなり涙とは……いや、それよりも一体どうしたのじゃ!?そ、それに“白也”って、誰のことじゃ!? 妾の知ってる奴に、そんな名の者はおらぬぞ!?」
そう言いつつも、グレイシアの様子が尋常ではないことに気づき、表情に焦りを浮かべるヴァルゼリナ。
その横で、陸虚は少しばかり困ったように、けれど穏やかな目でふたりを見つめながら口を開いた。
「……僕の名前は陸虚です。“白也”は……僕の師匠の名前です」
「……!」
グレイシアの瞳が大きく見開かれた。
「やっぱり……あなたの中に、白也の気配が残っていた……!」
声を震わせながら、彼女は陸虚の両手をぎゅっと握りしめた。
「お願い……お願い陸虚様……! 我が王を、あの方を、どうか助けてください……!」
「……三十年。三十年もの間、ずっと……彼からの返答はないのです……!薬を送り続けても、彼の声を聞けたことは一度も……!」
言葉の端々に、百年の思いと絶望が滲む。
それを真正面から受け止めながら、陸虚は静かに頷いた。
「できますよ。ちょうど“小花”も一緒にいますし――まずは氷龍王さまがどんな傷を負っているのか、診せてもらわないと。 それから、丹薬を錬成します」
静かに、しかし力強くそう告げる陸虚に、グレイシアの瞳が一層潤む。
「……ただ、一つお願いがあります。こんな時に申し訳ないのですが……“極寒のもの”を、ひとつ譲っていただけませんか。こちらにも、命の危機に瀕している者がいまして……」
グレイシアはまるで救いの光を見たかのように、勢いよく頷いた。
「いいのよ、いいのよ! あなたが必要なら、なんでも持っていって! 極寒の氷だって、他にだって、好きなだけ!」
泣き腫らした顔で、彼女は陸虚の腕をとり、急くように言った。
「行きましょう、今すぐ……! 彼のところへ……!」
道中、陸虚は歩きながらグレイシアに問いかけた。
「氷龍王さまのご様子……どんな状態だったんですか?」
グレイシアは険しい表情で答えた。
「最初の頃は……どこか沈んだ様子だったの。でも、それが次第に荒れ狂うようになって……そして、最終的には自らを氷の封印の中に閉じ込めてしまったのです」
「オグドンに相談しようとも思ったのよ。だけど、私が氷河域を離れようとするたびに、王の気がさらに荒れて……とてもじゃないけど、置いて出られなかった」
グレイシアの声には、長年の苦悩と無力感が滲んでいた。
陸虚は少し考えたあと、ぽつりと呟く。
「……精神的な損傷、かもしれませんね。そうだとしたら、“凝神丹”が効くかもしれない」
グレイシアの目がぱっと見開かれた。
「ほんとうに!? それで、大王を助けられるのね?」
しかし、陸虚は首を横に振る。
「まだ断言はできません。実際に状態を見てみないと――」
王城の奥深くへと進む一行が、ふと立ち止まった。




