第九十四話 氷龍王妃・グレイシア
ヴァルゼリナは胸を張って、どや顔で陸虚に振り向いた。
しかし陸虚は、やや引きつった笑みを浮かべつつアイゼルの表情をじっと観察していた。
「……なあ、ヴァルゼリナ。あれ……どう見ても喜んでる顔じゃなくね?どっちかというと、ビビってたように見えたけど」
確かに、アイゼルの顔色は青ざめ、冷や汗まで浮かべていた。
ヴァルゼリナもそのことに気付いたようで、眉をひそめる。
「……おぬし、まさか妾の顔を見て怯えたのかえ?まったく……昔はあんなに懐いておったくせに、礼儀も何もあったもんじゃないのう」
「い、いえいえいえいえっ! そんな滅相もないっ!」
アイゼルは全力で首を振り、頭を下げながら後ずさった。
「ど、どうかしばらくお待ちください! すぐに母上にご報告を――あと、誰かっ! 至急! ヴァルゼリナ叔母上に美味しいお食事を用意せよっ!」
「うむ、最初からそう素直にしておればよいのじゃ」
満足げに頷いたヴァルゼリナは、ようやく落ち着いた様子で結界の中へと足を踏み入れた。
その一方、アイゼルはほぼ逃げるような勢いで氷の王城の奥へ飛び去っていった。
氷龍王城の最奥—
白銀の氷柱が林立する神聖なる空間、その中心に佇むのは氷龍王妃・グレイシア。
彼女は繊細な指先で薬草を一つひとつ丁寧に仕分け、それらを魔法陣の中心へとそっと置いていく。
やがて、陣に淡い蒼光が灯り、薬草は音もなく転送されていった。
送り先は、王城の地下に封じられた巨大な氷の層——
そこに、ある“存在”が静かに眠っている。
グレイシアは、透明な氷を静かに見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……あなた、もう三十年になるのよ。もし毎回、薬材がきれいに消費されていなければ、私はきっと……本当にあなたに、何かあったのかと疑っていたわ」
声に怒りはなかった。ただ、深い悲しみと――届かぬ想いがあった。
「一言でいいの……たった一言、返事をしてくれれば……」
その言葉は、氷の中に静かに吸い込まれていった。
その時——
扉が勢いよく開かれ、アイゼルが慌てた様子で駆け込んできた。
「母上、大変です! あの、あの紅龍の女王が……!」
薬材を仕分けていたグレイシアの指がぴたりと止まる。
沈んでいたその瞳に、ふっと光が差した。
「……ヴァルゼリナ? 本当に?」
滅多に見せない微笑が、彼女の唇に浮かぶ。
「懐かしいわ……もう何年になるかしら。彼女の来訪、もしかしたら——あなたを目覚めさせる鍵になるかもしれない」
グレイシアは、静かに氷塊の中心を見つめながら呟く。
その目は、希望と哀しみが交差していた。
やがて、彼女はくすりと笑いながら息子の顔を見た。
「そういえば、アイゼル……、幼い頃は彼女と毎日のように遊んでいたじゃない。」
「遊んでたって……あれは遊びじゃありませんよ! 明らかに俺のことを玩具扱いして、好き勝手に振り回してただけじゃないですか!」
アイゼルは涙目で叫んだ。
その姿は、かつての“被害者”としての記憶をよみがえらせているようだった。
「……それと、あのヴァルゼリナおばさま、人間を一人連れて来てます」
その言葉に、グレイシアの目が一瞬だけ細くなった。
冷たい光が瞳の奥に宿る。
「人間……?」
殺意にも似た鋭い気配が、空間を凍てつかせる。
だが、それも束の間。彼女はすぐに息を整え、目を閉じて感情を抑えた。
「ヴァルゼリナの性格を考えれば……もしかしたら、その人間に騙されているのかもしれないわね」
グレイシアは静かに立ち上がると、氷のような凛とした声音で言った。
「行きましょう。真偽は、この目で確かめます」




