第七十三話 幻境
次の瞬間。
「……っは、っは……っはぁ……!」
陸虚は地面に片膝をつきながら、荒く息を吐いた。
辺りを見渡すと――
そこは、さっきまでいた“谷の手前”、結界の外縁だった。
だが、自分の右足が、まだ“結界の中”にかかっていることに気づき、思わず呟いた。
「……なんなんだ、これは……」
背後から、能天気な声。
「ん? どうかしたの、ダーリン?」
アラセリアが手を引っ張りながら、全く動揺のない笑顔で見ている。
「引っ張り出してほしい?」
「……いや、待て」
その時。
――ピカァッ。
結界の内側で、白い光が収束し、足元に二つの物体が現れた。
ひとつは、先ほど投げ捨てた**“白玉”**。
もうひとつは――
紫水晶のように輝く巨大な結晶体。
「っ!」
「きゃあっ、ダーリン見て見てっ!」
アラセリアが目を輝かせて走り寄る。
「素材、勝手に出てきちゃったよ!? これはもう、運命としか♡」
嬉しそうに白玉を拾い、ポイっと陸虚の手に押し込む。
「はいっ、これ、ダーリンに♡」
「…………」
陸虚は、ずるずるとその場に腰を落とした。
全身の力が抜けていく。
(……あれが、“幻境”か)
たった一瞬のことだった。
けれど、確かにあの時、自分は――“呑まれた”。
それを思うと、自然と胸が締めつけられる。
「……ダーリン? 顔色悪いよ? 大丈夫?」
アラセリアが心配そうにしゃがみ込んできた。
彼はふと、彼女の顔を見て――
ぎゅっと、抱きしめた。
「……無事で、よかった……」
「っ……♡」
アラセリアの耳がぴくぴく動く。
そして、次の瞬間――
「……ん?」
――ぺろっ♡
「ちょ、おま――どこ舐めて……っ!! 手っ、そこ違――やめろ!!」
次の瞬間。
「帰る!!」
バシュン!
アラセリアが見事な勢いで背後の岩壁へ吹っ飛ばされた。
「いったぁ~いっ……ダーリンひど~い……でも好きぃ……♡」
変異者の集落に戻ってきた陸虚は、すぐには帰還せず――
静かに筆を取り、符を描き始めた。
(……あの幻境の中で感じた“反応”――)
(外界の“陽”が、変異者を焼く。変異者の“陰”が、周囲を汚す)
(なら、それぞれの“矛盾”を、互いに打ち消し合えば……)
墨と霊符の気を交差させながら、彼は一枚の符を描き上げた。
「……できた」
帰る直前、エルフの少年を呼び止める。
「――これをやる」
「……え?」
「陰の力で、外界の浄化作用を一時的に無効化する」
「そして、陽の力で、お前自身の汚染反応を打ち消す」
「……“一ヶ月”だけなら、エルフ領へ帰れるはずだ」
少年の目が大きく見開かれる。
「……せ、先生……」
「僕はまだ、“呪いの根”を断つ方法は見つけられない」
「だが――お前の親父は、ずっとお前を待ってる」
「……一度くらい、顔を見せてやれ」
涙が溢れ、少年は両手で符を抱きしめながら、深々と頭を下げた。
「……ありがとうございます……!」
そのやりとりを、地面にしゃがみ込んでじっと見ていたアラセリア。
「……っ」
「いいなぁ、ずるいなぁ……」
「アラセリア」
「っ!? は、はいっ!」
「お前の分は、ない」
「はうっ!? なぜ!?」
「やったらどうせ、外でまた何かやらかすだろ」
「うっ……その通りすぎて反論できない……!」
アラセリアはその場で体育座りして、指で地面に“バカ”って書き始めた。
(……だが)
数歩歩いて、陸虚はふと立ち止まる。
「……今年の秋。ライフタリンで“四大魔法学院試合”がある」
アラセリアの耳がピクッと動く。
「その時まで“絶対に問題を起こさない”って約束するなら――」
「招待してやってもいい」
「……!!」
「いっ、いっくぅうううう!!」
アラセリアは全力の猫ポーズで陸虚の足にすり寄ってきた。
「まじで!? 本当に!? やったぁあああ!!」
「……やめろ、くっつくな。暑い」
ため息をつきながら、陸虚は彼女の額に符をペチンと貼り付けた。
「――これは一回きりだ」
「絶対に身につけておけ。汚染が漏れたら、お前が何をしようが僕は知らん」
「はーい♡ 絶対大事にするぅ~~♡♡」
一枚の符と、一枚の希望。
彼は二人に背を向け、オレリスへの帰路についた。




