第七十二話 到着
幾度かの魔獣との戦闘を経て、二人はついに目的地へと辿り着いた。
目の前に広がるのは――不気味な紫色の霧に包まれた谷。
「……ここか?」
「うん、そう♡ ここが“例の場所”よ」
アラセリアは頷きながら、谷を見つめる。
谷の中からは、見えない何かが渦巻くような異様な魔力の波動が漂っていた。
陸虚は一歩前に出て、静かに目を閉じる。
(……やはり、“法則そのもの”が不安定だ)
(空間が、揺らいでる。時間軸も歪んでいる……)
「ここが“材料”の発生源か……」
彼は霧のすぐ手前、境界線のような場所で立ち止まった。
そして、後ろを振り返る。
「……アラセリア」
「はいはーいっ♡ 何かしらダーリン!」
「手を出せ」
「キャッ♡ いよいよそういう関係に!? 嬉しいっ、全身で抱きし――」
「違ぇよ。“手”だけでいいって言ってんだろ。僕が先に入る。中で異常があったら、すぐ引っ張り戻せ」
「……ちぇっ」
渋々差し出されたアラセリアの手を取ると、その指が何やら“もぞもぞ”と動いている。
「……」
陸虚は大きく息を吸い込んだ。
そして――
「……いくぞ」
谷の中へと、その足を踏み入れた。
……だが、陸虚が予想していたような“異変”は起きなかった。
「……光?」
彼の視界いっぱいに、やわらかく差し込む淡金色の光が広がっていた。
重苦しい瘴気もなければ、空間の歪みも感じられない。
「……なんだこれは……」
空気が、暖かい。
まるで陽だまりの中にいるような、穏やかな光。
(まるで“光の聖域”みたいだな……)
――そのとき。
「――きゃぁっ!!」
背後から、悲鳴が響いた。
振り返ると――
アラセリアの漆黒の肌が、じゅうっと音を立てて白煙を上げていた。
「っ……!」
陸虚はすぐさま駆け寄り、アラセリアの身体を外へ押し戻そうとした――
だが。
「……っ、しまった」
――出口が、消えていた。
谷の入り口だったはずの場所が、金色の光で完全に閉ざされている。
(閉じ込められた……!)
一瞬、動揺が走ったが――
「落ち着け……考えろ!」
陸虚はすぐに意識を丹田へ集中させ、金丹を“陰陽双転”に変化させた。
「――“陰・陽・双界展開”」
バシュッ!
彼の身体から二層の霊力が展開される。
半陰の気が、アラセリアを包み込み、熱光を遮断する防壁となる。
そしてその外側を、純陽の力が包み込み、外界の規則に“調和”する形で固定された。
「……はぁ、はぁ……よし……」
「……ダーリン……!」
アラセリアが、涙目で彼に飛びついてきた。
「ダーリンすごいっ! 好きっ! ほんとに好きっっ♡♡♡」
「……うるさい」
本来ならすぐに突き放すところだが――
陸虚は、彼女をそのまま抱かせておいた。
理由はひとつ。
(この距離なら、霊力の消耗が最小限に抑えられる……)
谷の奥――石陰に、それはあった。
「……見つけた」
白く輝く、波打つような魔力を放つ一塊の玉石。
ただ存在しているだけで、空間そのものの規則が揺らいでいるのが分かる。
「これが……“規則干渉型の素材”か」
陸虚はそっとそれを拾い上げ、懐にしまった。
「……よし。戻るぞ」
アラセリアの手を握ったまま、来た道を引き返す。
玉石の原因で出口の結界が見えてきた――その時。
「……っ!?」
――轟音。
空間が、音を立てて崩れ始めた。
結界の一部が弾け飛び、出口に巨大な亀裂が走った。
「アラセリアっ、離れるな――!」
バァン――!
突如発生した**強烈な“反発の風”**が、彼女の身体を吹き飛ばす。
「きゃっ……!!」
陸虚はとっさに手を伸ばし、ギリギリのところで彼女の腕を掴んだ。
「……ダーリン……!」
アラセリアの目に、諦めと悲しみが滲んでいた。
「……放して。これは……私たち“感染者”の運命よ」
「もう、いいの。これで終わりに――」
「……黙れ」
陸虚は、静かに呟いた。
「……バカが。誰がそんな話、信じるかよ」
その瞬間、彼の手から“玉石”が投げられる。
――ゴォォン!!
白い光が空間に吸い込まれる。
だが――
「な、なんで……!?」
結界は安定するどころか、さらに激しく揺れ始めた。
光の波動が、空間全体を暴走させていく。
「っ、逃げ――!」
アラセリアが涙を浮かべながら叫ぶ。
「ダーリン、お願い! 私のことはいいから……!」
「行って! あなただけでも――!!」
だが。
陸虚は――
その手を、決して離さなかった。
「逃げるくらいなら、最初から助けねぇよ」
「最後まで、一緒にいる」
「だ、ダーリン……っ」
「だから――」
彼は微笑みながら、彼女の身体を抱きしめた。
「――もうちょっと、くっついてろ」
「霊力、節約したいんだ」
――視界が、光に包まれた。




