第六十六話 準備
陸虚は手元の便箋に最後の一筆を書き終え、封を丁寧に閉じた。
手紙は、今もエルフ領に留まっている――シオン宛だ。
「……さて、これでよし」
封筒には、数十枚の符が同封されている。
それらはすべて、陸虚が5級に到達して以降、新たに編み出した“純陽の力”を封じ込めたものだ。
「しばらくは、これで浄化用が十分だな……」
彼は便箋の内容を思い出す。
「例の“感染者の高位存在”からの連絡には応じるな。……相手の言葉に乗せられるのは危険すぎる」
「……君一人でも、余裕で情報を追えるはずだ。変に協力する必要はない」
書き方こそ素っ気ないが――それは、彼なりの心配の証だった。
純陽を極めた今の陸虚には、一つの特異な能力が備わっていた。
――体内の全霊力を“純陰”へと一時的に転換すること。
それにより、「汚染耐性」を得ることができ、さらに外見上は「感染者」とほぼ見分けがつかなくなる。
これを利用し、陸虚は単独で“呪われた地”の奥深くへと潜入する計画を立てていた。
「……やるなら、一人でやる。今はそれが最善だ」
出発の準備を進めている陸虚に、オグドン校長が声をかけた。
「……今回の旅は危険だが、なるべく秋までには戻ってきてくれ」
「――というと?」
「五年に一度の“四大魔法学院試合”が今回オレリスでは開催されるんだ」
「君の知っているアカデミア・カラン魔法学院の他に――」
「アウロラ錬金魔法学院、メイヴレーナ融合魔法学院。この三つの学院が、すべてオレリスに集う」
「四人の“魔導師”校長が揃うタイミングは、この試合の期間しかない」
「――“鼎”の最終工程を仕上げるなら、この機を逃すな」
「……了解です。なるべく、それまでには戻ってきます」
出発の前、陸虚は学院の図書館にこもり、“感染地帯”に関する記録を片っ端から読み漁っていた。
分厚い資料を読み進めるうちに、ある仮説が浮かび上がってくる。
「……やっぱりな。全部が“壊滅”してるわけじゃない」
数年前から報告されている“感染者”の件。
通常、感染者は身体を蝕まれ、意識を失い、やがて怪物のように変貌する――というのが常識だった。
だが、あの日会った闇エルフの少年。
彼は感染の痕跡を残しつつも、明確な知性と言語能力を保っていた。
「つまり、“感染”の結果……適応に成功した個体が存在するってことだ」
そして、そうした“変異適応型”が集まった場所が、“呪われた地の奥深く”に存在している可能性――
「……なるほど、なら“集落”があってもおかしくはないな」
もちろん、そこに何があるのか、実際のところは誰にも分からない。
その深部を調査した者は、一人として戻ってきていないのだから。
「“大王”がいる……って話も、眉唾っちゃ眉唾だが……」
彼はふと思い出す。
――先日、ドワーフの女族長・スミルナに雷竜で挑んだ直後、鉄槌一発で壁に叩き込まれたときのこと。
「……僕もまだまだだな」
力が上がれば上がるほど、“無謀な自信”は死に直結する。
「今回は……慎重にいく」
陸虚は静かに本を閉じ、図書館の灯りの中、立ち上がった。
図書館を出た後、陸虚は一人、学院の裏庭にある静かな練習場へと足を運んだ。
「……さて、問題は“使う魔法”だ」
今回の目的地――“呪われた地”。
そこでは、属性魔法の“性質そのもの”が環境に干渉し、予測不能の現象を引き起こす可能性がある。
特に、自身が修めた純陽雷法は、もっとも相性が悪い。
「……使えばすぐにバレる。何より、空間そのものが乱れる可能性がある」
呪われた地は“闇と穢れ”に満ちた土地。
そこに陽極属性の力を叩き込めば、何が起きるか分かったもんじゃない。
「かといって、純陰属性の雷法は……」
それもまた問題だった。
純陰は、“完全に染まりきった感染者”の魔力反応と似ている。
「……下手をすれば、僕を“敵”と見なして襲ってくるかもしれないな」
感染を受け入れ、変異して生き延びた者たち――
“半ば理性を保った存在”たちにとって、完全な“異質”は脅威でしかない。
「そうなると、選択肢は――これだな」
陸虚は懐から一枚の符を取り出し、指先で軽く撫でた。
「癸水陰雷」
彼の得意とする雷術のうち、“陰雷の側に最も地味で、最も控えめな性質を持つ”もの。
「威力は低いが、目立たず、変異者にも干渉しすぎない。……今の僕には、ちょうどいい」
制御・隠匿・浸透。
必要なのは力の誇示ではなく、空気に溶け込む技。
陸虚はふっと目を閉じて、小さくうなずいた。
「よし。準備は整った」




