第二十八話 闇のエルフ
感染区域の入口を越えた瞬間、空気がどこか重く、じっとりとまとわりつくような感覚に変わった。
周囲の木々は黒く変色し、地面にはところどころ紫色の瘴気のようなものが立ち込めている。
そんな中で、陸虚は懐から一枚の巻物――“スクロール”を取り出し、空中で展開した。
「“浄界符”、展開」
パァン――という音と共に、巻物が光の波紋を放ち、周囲の空気が少しずつ澄んでいく。
まるで毒を押し返すかのように、半径数メートルの範囲が一時的に“安全地帯”へと変わった。
「……これ、あなたの世界の技術でしょ?」
シオンが静かに問いかけた。
陸虚は肩をすくめて笑う。
「正解。これは“浄界符”っていうやつ。一定範囲の環境に対して、“一時的に”浄化効果を与える技術だよ」
「……“隔絶”じゃなくて、“浄化”?」
シオンの目が鋭くなった。
陸虚は苦笑しながら頷く。
「……そう。君の言いたいことは分かってる。ただね、この浄界符は――“純陽神雷”を一週間分凝縮して作った、超面倒な代物なんだ」
「そんなの……!」
「使えば分かるけど、“ちょびっと”しか浄化できない。森全体なんて論外だし、これで大地の呪いをどうこうするのは無理。もし本気でやるなら――“大量の純陽系素材”と“ちゃんとした法陣”が必要になる」
シオンは黙って考え込むように口元に手を当てた。
「……なるほど。つまり、理屈としては可能ってことね。ただし、素材と構成次第……」
陸虚は軽くうなずく。
「それと、念のため言っとくけど――この符は“環境”だけに効く。感染した生物には、何の効果もない」
「……!」
その一言に、シオンの表情が一層引き締まった。
「……了解。無駄な期待はしない。今は進もう。せめて、父さんたちを見つけ出さないと」
「……待って、何か聞こえた」
シオンの言葉に、陸虚も足を止めた。
わずかな枝の揺れる音、腐葉土を踏む軽い足音――
二人はすぐに身を低くし、近くの木陰に身を隠した。
やがて、その姿が現れる。
――それは、暗い色の肌を持った、小さなエルフの子どもだった。
「……っ、エルフ……? でも……肌の色……」
シオンが思わず呟く。
「……感染……してる?」
確かに、体表には感染者特有の黒斑や毒素の染みが浮かんでいる。
だが、その目には――確かに“理性”の光が残っていた。
(……まだ完全に堕ちてない?)
次の瞬間、その子どもはこちらに気づいた。
だが――攻撃してくることはなかった。
くるりと身を翻し、逃げ出した。
「待ちなさ――!」
シオンが追いかけようとした瞬間、陸虚が肩を掴んで止めた。
「ダメだ、今は追うべきじゃない」
「でも……!」
「見ただろ? あれは“ただの感染者”じゃない。様子を見るべきだ」
シオンは歯を食いしばりながらも頷き、再び身を低くする。
逃げたはずの暗色のエルフの子どもは、少しだけ距離を取った場所で立ち止まった。
何かに迷うように、こっちを振り返り――その目は、まっすぐに陸虚を見ていた。
(……あれは……)
陸虚が懐に手を入れると、光が漏れた。
先日、感染魔物を倒した際に落とした――紫色の魔晶石。
その光に、子どもの目が釘付けになった。
渇望のように、けれど恐れを含んだ目で、こちらに一歩、また一歩と踏み出す。
「……欲しがってる?」
陸虚は低く呟いた。
「……あの魔晶石と、何か関係が……?」
シオンの声には、かすかな震えと、期待が入り混じっていた。
陸虚は静かに前に出て、光を放つ魔晶石を軽く掲げた。
「……欲しいのか?」
暗い森の向こう、小さな影がわずかに頷いた。
「……ほしい」
その声は、小さいながらも確かに届いた。
陸虚は柔らかく言葉を続けた。
「いいよ、あげても。ただし――いくつか、質問に答えてくれるならね」
その言葉に、小さなエルフは戸惑いを見せ、身を引いた。
「……だめ。大王さまが言ってた。“外の者と話すな”って……」
「ふうん。そうか。じゃあ、しかたないね。僕たちはもう行くよ」
そう言って、陸虚がくるりと背を向けようとしたその瞬間――
「ま、待って……!」
小さな声が引き止めた。
「……それ、大王さまにとっても大事なの……」
「じゃあ、ひとつだけだ。質問は、ひとつだけ」
小さなエルフは、ぎゅっと拳を握って、しばらく悩んだ。
そして、やがて絞り出すように答えた。
「……いいよ」
陸虚は小さく頷いた。
「――グラディルって人、知ってるか?」
その名前を聞いた瞬間、子どもの表情が変わった。
苦しそうに、目を伏せて、唇を噛んでいた。
「……大王さまが言った。生き残りたかったら、“過去のことは全部忘れろ”って……家族も、名前も、なにもかも……」
その声に、シオンが思わず息を呑んだ。
陸虚は静かに語りかけるように言った。
「……でもね、君のお父さん、君を探しにこの森に入ってきたんだ。君に会いたくて、必死になって。僕は、それだけ伝えたい」
「君に何かをしてほしいわけじゃない。ただ――君が“生きてる”ってことが、伝わればいいんだ」
その言葉に、小さなエルフはしばらく黙り込んだ後、
ポケットの中から、小さな木彫りの鹿を取り出した。
それは、手のひらほどのサイズで、
誰かが丁寧に、時間をかけて作ったことがわかる――そんな“記憶”の詰まったものだった。
「これ……父さんが、作ってくれたやつ……」
陸虚は優しく微笑み、光る魔晶石を手渡した。
小さなエルフは、それを受け取り、何度も名残惜しそうにこちらを見た。
けれど――やがて、震える手で木彫りを陸虚に差し出すと、森の奥へと走り去っていった。




