第一百三十九話 光陰長河(こういんちょうが)
アモロンの声には確信があった。
彼の科学者特有の狂気と、どこか哲学的な冷静さが同居していた。
アモロンは計器のスイッチを軽く叩き、
光を帯びた観測室の中央――時間加速装置を見やりながら言った。
「……どうです? 試してみますか?」
静寂が数秒流れた。
陸虚は目を閉じ、息を整えたのち、小さく頷いた。
「……他に道がない。やるしかないでしょう。」
その声には、覚悟の響きがあった。
アモロンはうれしそうに笑い、手を打った。
「それでこそ、時を超える探求者だ!」
だがすぐに、何か思い出したように首を傾げた。
「……そうだ、エマさんには伝えておかなくていいのですか?あなたがこの実験に入れば、しばらくは戻れませんよ。」
なぜだか、アモロン校長の声には少しばかりの気まずさが混じっていた。
陸虚は少しだけ視線を落とし、
それからゆっくりと首を振った。
「いいえ。もう、あの世界の僕が“干渉”するべきじゃない。」
静かに、しかし確固たる声音だった。
「僕がいなくなった後、きっと“本来の時間線の僕”がエマのもとに戻るはずです。この僕は――その因果から離れなくちゃいけない。」
アモロンはその言葉に一瞬だけ沈黙し、
やがて満足そうに微笑んだ。
「……なるほど……」
室内の照明が落ち、装置の周囲に青白い光が渦を巻く。
陸虚の顔に、決意の影が落ちた。
陸虚は深く息を吸い込み、静かに言った。
「――始めよう。」
アモロンは満足そうに頷き、手元のスイッチを押した。
瞬間、観測室全体が青白い光に包まれ、
陸虚の体を中心に、無数の時計の針のような光が回転を始めた。
「時間加速、最大倍率――起動。」
轟音が鳴り響き、世界が一瞬で伸び縮みしたように見えた。
陸虚は目を閉じ、自身の体の内側で何かが変化していくのを感じる。
――霊力が、圧縮されていく。
――金丹が、極限まで凝縮し、円満の形を成す。
その境地に至った瞬間、通常なら“雷劫”が降り注ぐはずだった。
だが――何も来ない。
代わりに、空気がゆらぎ、彼の周囲に幻のような光景が広がった。
砂の上に、花のように現れる女たち。
薄衣をまとい、艶やかな笑みを浮かべ、
「ねぇ、休んでいかない?」と甘い声を響かせる。
陸虚は眉をひそめた。
「……幻境の試練か。」
彼女たちがゆっくりと近づいてきた瞬間――
時間加速の波が再び走る。
ズレた時の流れが、幻を一瞬で置き去りにした。
「えっ、えええっ!?」
驚愕した美女たちの姿が、スローモーションのように空中で吹き飛び、
そのまま時の残滓となって消え去っていく。
陸虚は片手で額を押さえ、ため息をついた。
「……」
――時間の流れが、止まった。
いや、止まったのではない。
すべての時間が、彼の内へと吸い込まれていた。
加速装置の中心で、陸虚の金丹が極限まで圧縮され、
内側から光の奔流があふれ出した。
霊力が、精神が、存在そのものが――“8級”の扉を叩く。
アモロンの計器が一斉に悲鳴を上げた。
「出力が……! 時空振幅、限界突破!? いける……! いけるぞッ!」
陸虚の瞳が静かに開いた。
そこには、現実を越えた光景が広がっていた。
果てのない金色の河――
流れるのは光でも水でもない、“時”そのもの。
「これが……光陰長河……!」
胸の奥で、何かが確かに呼応した。
無数の自分が、過去と未来を超えて重なり合う。
陸虚は、迷いなく呟いた。
「――今だ。」
彼の体から閃光が走り、時間加速装置の中枢と河が直結する。
次の瞬間、轟音と共に陸虚の身体が加速器から弾き出された。
精神体は逆流するように飛翔し、
周囲の景色が後方へ――否、過去へと流れ去っていく。
「時流に……乗った! 」
アモロンは目を見開き、モニターにかじりついた。
「成功だッ! 私の理論は正しかったッ!!」
アモロン校長の口調には、どこか肩の力が抜けたような安堵が滲んでいた。




