第一百二十五話 因果
時はちょうど、長き夜が静かに終わりを告げる頃。
黎明の光が、ゆるやかに海と空を溶かし合わせ、
清らかな朝霞が薄絹のように漂っていた。
その霞は、ただの水気ではなかった。
淡い金と紅の粒子が脈打つように瞬き、
まるで遠い昔の記憶や、目に見えぬ歌を宿しているかのようだった。
陸虚は微笑を浮かべ、懐から小瓶をそっと取り出す。
指先が瓶の口を朝霞へかざすと——
霞は呼び寄せられるように流れ込み、瓶の中でゆるやかに渦を巻きながら、
生き物のように淡い光を放ちはじめた。
彼は一筋も逃さぬよう慎重に封をし、
その輝きが瓶の中で静かに呼吸を続けるのを確かめると、
満足げに深く頷いた。
同じ頃——
大陸南部の港町。
外套を深く被った一人の女が、
人目を避けるように静かな酒場の隅で、
一冊の古びた日記を興味深げにめくっていた。
その表紙は擦り切れ、角は丸まり、
幾度となく読み返された痕跡が刻まれている。
ページの間から、清らかで流麗な筆跡が覗く。
「虚空を退けられるのは、8級に至った玄武の遺骸のみ。海竜族が無理に7級へ昇ろうとも、空間の力を掌握することは叶わぬ。」
女はその一節に指先を止め、
口元にわずかな笑みを浮かべた。
日記の文章は、なおも続く。
「玄武の力をもってすれば、空間の修復は問題ない。だが——如何にしてその力を現地へと移すか。玄武そのものを操る陣式は、各海族の精鋭が揃って初めて起動できる。現状では、その準備を整える時間は到底足りぬ。」
最後のページには、こう記されていた。
「風を動力とし、水を標準とする——二つの奥義を駆動源とした大陣、ついに完成せり。
だが…その莫大な魔力を賄うこと叶わず。ならば必要となるのは――」
そこまで書かれたところで、文は唐突に途切れていた。
インクのかすれ方からして、まるで筆を握ったまま誰かに呼ばれ、
そのまま戻れなかったかのようだ。
ページの隅には、押し潰された羽根の痕跡と、
水滴の跡がにじんで残っていた。
女はぱたりと日記を閉じ、唇の端を愉快そうに吊り上げた。
「――異郷から来た方士よ。ふふっ……本当に、ますます面白くなってきたのう」
そう呟くや否や、通りすがりの青年の腕をひょいと掴み、
甘く艶やかな声で囁きかける。
「坊や……予言というものに、興味はないかえ?遥か 西方の、灼けるような砂漠の――」
……ピィィィィィーーーッ!
甲高い笛の音が突然響き、港町のざわめきを裂いた。
「詐欺グループを逃がすな! 捕まえろ!」と警吏の怒号が飛ぶ。
女は舌打ちひとつ。
「ちっ……」
と短く吐き捨てると、裾を翻して人混みの中へ駆け出し、
あっという間に雑踏へと姿を消した。
逆さ海の波がようやく静まり、遠くの朝日が水面に金色のヴェールを広げていた。
陸虚は腕を組み、宙に浮かぶ島と、その上にそびえるメイヴィレーナ融合魔法学院を眺め、口元をわずかに引きつらせた。
「……僕は学校に行かなかったんだがな。まさか学校の方から会いに来るとは、そういうことか?」
リュミエールが「ぷっ」と吹き出し、尾びれをひらりと揺らすと、海水に細かな波紋が広がった。
「それってつまり、陸先生と私たちの学院は……運命のご縁ってことですよ~」
メリー校長も前に進み出て、柔らかな笑みを浮かべる。
「今回は本当に助かりました、陸先生。欲しいものがあれば遠慮なくおっしゃってください。南海で手に入る物なら、海底の秘宝であっても差し上げます」
陸虚は手にした瓶を軽く振った。瓶の中では、清らかな朝焼けが液体の黄金のようにきらめいている。
「一番大事な物は、もう手に入れた」
そう言ってから、ふいにメリー校長へと視線を向け、真顔で告げた。
「そうだ、メリー校長。真珠のネックレスが欲しい。あなたの審美眼なら間違いないはずだ、ぜひ何本か選んでくれ。……人に贈るんだ」
リュミエールは思わずまた吹き出し、メリーは一瞬目を瞬かせると、誰に贈るつもりなのかを密かに推し量るように、意味深な笑みを浮かべた。




