第一百十九話 虚空
ギギ……ギギギ……ッ
海底から、何かが砕けるような音が響いた。
「……!」
二人が下を覗き込むと、海の底に**碗ほどの大きさの“黒い穴”**がぽっかりと開いていた。
「……え?」
遠目には、まるで誰かがこちらを見つめているような——そう、**黒い“眼”**のように見えた。
そして次の瞬間——
ズズズズズ……ッ!!!
猛烈な吸引が発生し、周囲の海水が渦を巻くように穴へと流れ込んでいく!
「っ、これは……!?」
アイゼルの翼が煽られ、陸虚の結界がぎりぎりで体勢を保つ。
「重力じゃない……空間そのものが“吸われてる”んだ。」
黒い穴は、じりじりと、確実に拡大していた。
——その中心からは、光すらも逃げ出せないような暗黒が広がっている。
「アイゼル、警戒を解くな。……これ、ただの穴じゃない。」
陸虚が低く、静かに言った。
「予言……虚空……」
「このままじゃ、南海そのものが……!」
アイゼルが咆哮し、口から凍てつく息吹を吐き出す。
轟音とともに、巨大な冷気の奔流が黒い“眼”に叩きつけられた。
——しかし。
氷は空間に届く前に、まるで“存在そのもの”を拒絶されたかのように溶けて消えた。
「……っ!?効かねぇ!?おい、マジかよっ!」
「……無駄だ。」
陸虚が目を細め、苦々しく呟いた。
「あれは空間そのものが崩れている。属性の力じゃ届かない。僕たちの今の力じゃ……まだ足りない。」
アイゼルが焦りに声を震わせる。
「じゃあどうすんだよ!?このままじゃ全部飲み込まれちまうぞ!?」
その時——
陸虚の脳裏に、ある存在の姿が閃いた。
「……法則……」
彼はすぐに懐から、冰龍王アイスが託した銀白の鱗を取り出した。
陰陽金丹が回転を加速し、術式が浮かび上がる。
「頼む……今だけでいい。力を貸してくれ!」
掌に込めた全霊力を込め、鱗を“黒い穴”の中心に向かって打ち出した。
——ヒュッ……ズゥン!!
その瞬間、空間が鳴った。
次の瞬間、狂ったように流れ込んでいた海水がピタリと止まり、巨大な渦が凍りついたかのように静止する。
「……成功、したのか?」
静まり返った海面を見て、アイゼルがぽつりと呟いた。
しかし次の瞬間、彼の金色の瞳がわずかに見開かれる。
「……違う。これ……父さんの時間法則……?」
彼の表情が真剣になる。
「陸先生、今のって……空洞の“時間”を止めたんですか?」
その問いに、陸虚はしばらく黙ったまま、下に広がる闇のような空洞を見つめていた。
その“目”のような漆黒は、依然としてゆっくりと、しかし確実に拡がっていた。
「……ああ。封じたわけじゃない。ただ時間の流れを止めて、“拡大”の進行を一時的に凍結させただけだ。」
「なるほど……だから空間自体は崩れたままなんですね……」
アイゼルが苦々しく呟いた。
陸虚は深く息を吐き、口元を引き締めて言った。
「このままじゃ長くはもたない。これほど大規模な空間と時間の交錯……メリー校長……」
場面は再び——
メイヴィレーナ融合魔法学院へと戻る。
突然の報せに、一時は学院内もざわついていたが、
その中心にいたリュミエールは、ほんの数秒の沈黙の後、
すっと瞳を細め、冷静な口調で口を開いた。
「……大丈夫、まだ慌てる時間じゃないわ」
隣にいたガルドが、驚いたように彼女を見つめる。
さっきまで「どうしようどうしよう」とバタついていたはずのリュミエールは、
今や完全に“指揮官”の表情になっていた。
「ガルド、先に生徒たちを集めて。海龍族の族長があんな真似をしたとなれば、中には“故郷が心配”って戻ろうとする子もいるはず……でも、あの暴走状態に戻ったら、ただの死にに行くだけ。」
言葉には強さが宿っていた。
「説得が必要になるわ。私がいなくても、あなたならできる。」
ガルドが息を呑み、力強く頷いた。
「……わかった。すぐに動く!」
「お願いね。私は……校長を探しに行く。」
くるりと踵を返し、リュミエールは風のように学院の奥へと駆けていった。
——その瞳に、迷いはなかった。
リュミエールは学院内を駆けながら、
急いで通信用の貝殻を取り出した。
海風の魔力を注ぎ込むと、微かな揺らぎと共に通信が繋がる。
「陸先生、お願いがあるんです、ちょっと——」
しかし、「お願い」の「お」も最後まで言えなかった。
通信の向こう側から、焦りを帯びた陸虚の声が飛び込んでくる。
「——リュミエール、今はそれどころじゃない!」
一瞬、彼女の足が止まる。
「逆さ海の下に……“虚空の裂け目”が開いた。今僕は時間の法則を借りで止まったけど、長く続かない、このままじゃ南海全体が——メリー校長に、すぐに……」
ブツッ——!
次の瞬間、通信は途切れた。