第一百十八話 異変
その頃——
空に浮かぶもう一つの海、天の海域。
アイゼルの背に乗り、巨大な空の海の中を漂う陸虚は、静かに空間の法則の流れを感じ取っていた。陽の光が水面を通してゆらめき、海中を泳ぐ幻想的な魚たちの影が、まるで空に描かれた夢のように流れていく。
——だが、突如として。
「……妙だ。」
陸虚は目を細め、遥か下方、つまり“本来の海”の方向を見つめた。
「アイゼル、下の海、感じてみろ……何か、おかしい。」
「え?」
アイゼルもすぐさま真剣な表情となり、龍の感覚を研ぎ澄ませた。
しばらくして——
「……なんだ、これ……?説明できないけど……“何か”が来てる、しかも、とんでもなく大きな……!」
二人の視線が、揃って海面へと注がれる。
だが、“それ”が現れる直前——
異変は、すでに海の底で始まっていた。
「……ッ!?」
最初に異変に気づいたのは、陸虚だった。
下層の海域……逆さ海の反転水面の内側で、異様な魔力の波が急激に活性化したかと思えば——
ドゴオオオオッ!
海底が炸裂し、無数の巨大な影が一斉に海中を這い出してくる。
「……リヴィエタン!? しかも、群れで……っ!」
陸虚の目が鋭く見開かれる。
目の前の海には、まるで黒い竜巻のように、リヴィエタンの群れが渦を巻いて暴れ始めていた。体長数十メートルにも及ぶその怪物たちのうち、最上級体は5級の魔力を有していた。
「——ッ、まずい! あそこには……!」
遥か後方、観光船団の周囲に集まっていた魔法師や観光客たちが、その異変に気づかずに滞在していた。
陸虚は叫んだ。
「全員避難しろ!! 海の魔物が来るぞ!!」
その叫びに、周囲の魔法師たちがざわつき始める。が、もう時間は残されていない。
「アイゼル!!」
「了解ッ!」
アイゼルは即座に龍の姿へと変身し、胸を大きく膨らませた。
「——フロスト・ブレス!」
次の瞬間、空が凍てついた。
アイゼルの吐き出した極寒の吐息が、海面を覆い尽くし、暴れ狂うリヴィエタンの進路を完全に凍結封鎖した。だが、それでも止まりきらない数の個体が、氷の壁を破って突進してくる。
観光客の避難を終えた陸虚は、空を見上げて深く息を吸い込んだ。
「——よし、こっからは 僕の番だ。」
次の瞬間、その姿が雷光に包まれる。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
全身が雷霆と陽光のごときオーラに包まれ、陸虚の身体が異形へと変貌する。
「——純陽雷龍・顕現!」
雷鳴とともに現れたその龍は、天を貫くような威容を誇り、燦然と光を放っていた。
観光船から避難を終えた人々が、思わず足を止めてその姿を見上げる。
「な、何あれ……!?」
「……あの人、本当に人間なのか……」
雷龍の眼が一閃した。
「——そこだッ!」
ドゴォン!!
雷撃を纏った爪が振り下ろされ、海面から飛び出してきたリヴィエタンの一体が蒸発するように爆散する。
残った“漏れ”の個体たちも、雷の奔流に飲まれていく。
——数分後。
空と海は、再び静寂を取り戻した。
だが、陸虚の顔には安堵の色はなかった。むしろ、眉間には今まで以上の深い皺が刻まれていた。
「……おかしい。」
巨大な雷龍の姿のまま、陸虚はゆっくりと海面を見下ろす。
「リヴィエタンたちは、あくまで“前座”だ。……本命が、まだ来てない。」
その時、海の底から異様な波動がさらに強く、さらに重く、こちらへと近づいてきた。
ドクン……ドクン……
まるで巨大な心臓の鼓動のような魔力の振動が、雷龍の身体を包み込む。
「……これは、ただのモンスターじゃない。」
陸虚の目が鋭く光る。
「何かが——這い上がってくる。」
しばらくしても、海の底から巨大な魔物が現れる気配はなかった。
「……ふぅ。なんだよ、脅かしやがって。」
アイゼルが肩の力を抜き、あくび混じりにそう呟いた。
「でっかい奴でも出てくるのかと思ったら、……肩透かしかよ。」
しかし、その時だった。