第一百十三話 到着
そして――
陸虚とアイゼルは、ついにその場所へと辿り着いた。
「……ここが、“逆さ海”……!」
アイゼルがぽつりと呟く。
目の前に広がっていたのは、地平線ではなく――空に浮かぶもう一つの海だった。
海面は鏡のように輝き、その上を、巨大なクジラや無数のクラゲが悠々と泳いでいる。
潮の匂いは、下からではなく頭上から届き、波音も空から降り注ぐように響いていた。
「うわぁ……すげぇ……」
アイゼルが子供のような声を漏らす。
「こりゃ、絵にも残したいくらいだぞ……!」
その横で、陸虚はじっと空を見上げていた。
「……本当に、不思議だな。」
ゆっくりと語るその声は、好奇心に満ちていた。
「海が空にあるのも……その中に生き物がいるのも……なのに、あれほど大質量の“海”が、どうして落ちてこないんだ……法則か?」
「これは……空間法則の影響だな。」
アイゼルが急に真面目な顔をして、空を見上げながら口を開いた。
「――俺の親父が言ってたんだ。大陸の北には“時間の法則”が宿ってる場所があるって。彼が7級に上がったのも、“時間”を部分的に理解したからなんだよ。」
陸虚は少し驚いたように目を細める。
「時間の法則……確かに、あの方ならやりかねんな。」
「で、南にはそれに対応する“空間の法則”が眠ってるってわけ。つまり、この“顛倒海”に妙な空間構造が現れるのも……何も不思議じゃないってことだ!」
アイゼルは自信ありげに胸を張る。
「逆さの海も、浮かぶ海洋生物も、それどころか“上にあるものが、下にあるよりも重い”って現象すら――全部、“空間の理”が乱れてる証拠ってわけだ!」
「なるほどな……」
陸虚は静かに懐へ手を伸ばし、一枚の銀白色の鱗を取り出した。
それは、氷龍王アイスからもらった鱗だった。
彼はそれを手のひらに乗せ、目を閉じた。
「……これは、“時間”の気配だ。」
鱗の奥深くには、悠久の時を生きた古き龍の“記憶”と、“時間の流れ”そのものが刻まれていた。
手に取るだけで、思考が緩やかに引き伸ばされるような、静かな流動感が全身を包む。
だが――
今、自分が立っているこの“逆さ海”の大気は、まるで別の力を帯びていた。
「……対照的、だな。」
頭上の海、宙に浮かぶ生き物、ねじれる空間、歪む距離感。
ここには空間法則が強く現れており、時間の流れすらどこか不安定に感じられる。
(もし……この“時間”と“空間”の境界に、意識を深く沈めることができたなら――僕も、“何か”を掴めるかもしれない……)
陸虚はそう呟きながら、龍鱗を握りしめ、しばし無言のまま、静かに法則の交差点に身を浸した。
しばらくの間、陸虚は静かに目を閉じ、龍鱗と法則の波動に意識を研ぎ澄ませていた。
だが――やがて眉をひそめ、ぽつりと呟いた。
「……ダメだ。遠すぎる。このままじゃ、“触れる”ことはできない。」
そして隣のアイゼルに目を向ける。
「アイゼル、上の海まで僕を連れて行ってくれ。もっと近くで、“空間の核”を感じてみたい。」
アイゼルは一瞬たりとも迷わなかった。
「任せろ、そう言うと思ってたぜ!」
次の瞬間、アイゼルの体が銀光をまとって変化を始めた。豪快に羽ばたく白翼の竜へと変化し、その背に陸虚を乗せて、空へと駆け上がっていく。
――蒼穹を裂き、“天の海”へと。
その広大な逆さの海域に差しかかると、アイゼルは口から魔力の霧を吐き出し、
陸虚の周囲に隔水の結界を張り巡らせた。
その結界の内側に座り込み、陸虚はそっと息を吐いた。
陰と陽が絡み合うように、彼の腹部に宿る金丹が、静かに――だが確かに、回転を始める。
仕事関係で週二回更新を変更しますので、ご理解頂ければ幸いです。