第一百十話 リヴィエタン
しかし――その中心に立つリュミエールだけは、眉間に深く皺を寄せたままだった。
「……喜ぶのは、まだ早いです。」
「え?」
「この現象が通常の潮汐歪曲でないとすれば……本命は、これからよ。」
その瞬間――
ドンッ!!
船体の下から、何かが激しくぶつかる衝撃音が響き渡った。
「な、なんだ!?」
「……今の音……船底からだぞ!?」
再び緊張が走る中、船体の外部に設置された魔導センサーが警報を鳴らす。
──ブオオオンッ!! ブオオオンッ!!
「反応多数! 海面下、広範囲にわたって接近!」
「識別コード“L-Class”……!? まさか――!」
リュミエールの目が一瞬見開かれた。
「……リヴァイアサン群……!」
甲板上にいた者たちの表情が、次々に蒼白に染まっていく。
「う、嘘だろ!? あれは“逆さ海”の深層に封じられてるはずじゃ……!」
「どうしてこんなところに……!? こんな海域、巡航ルートの外れじゃなかったはずだぞ!!」
ざわめき、震え、そして広がる絶望――
海面下で、いくつもの巨大な影がうごめき、銀翼の船を狙っていた。
そしてその中心に――
“目”が、現れた。
青く、深く、冷たく、
すべてを呑み込む意志を宿した、異形の目が。
リュミエールは一歩前に出ると、冷静に、しかし明瞭な声で全艦に命令を下した。
「――全艦、戦闘準備!」
「はっ!」
「艦隊所属の魔導士はそれぞれ配置につき、3級以上の魔法使いは、各船の船体保護を最優先としてください!」
「船が無事でさえあれば、この空間潮汐を突破できます!」
彼女の声は魔法通信によって全船に届き、乗組員たちは一斉に動き出した。
「主砲、装填完了! 魔力結晶、圧縮安定!」
「船体防御魔法、展開中! 領域結界、発動まであと十秒!」
「左舷に敵影接近! 三体確認、迎撃準備!」
魟魚型の艦がその“翼”を開き、銀光を反射させながら高度な魔法兵装を展開していく。
――バゴオオォォン!!!
一斉射撃が始まった。
魔力砲、火球、霜槍――空と海の狭間に、鮮やかな戦火が咲き乱れる。
海面の下から飛び出す漆黒のリヴィエタンたちが、螺旋の軌道を描いて襲いかかる。
「くっ……全然減らねぇ!」
「回復班! 被弾した右舷に支援を回してくれ!!」
空間潮汐がねじれるたびに、海と空の境界が歪み、幻のような光景がちらつく。
こうして激戦の末、船団はついに“空間潮汐”を突破した。
沈没こそ免れたものの、ほとんどの船は満身創痍。
帆は裂け、甲板は焦げ、船体の至る所に亀裂が走っている。
「……生き残れたのはいいけど、これ……修理費いくらになるんだ……」
責任者の男は頭を抱え、甲板にへたり込んで空を仰いだ。
そんな中――
唯一、旗艦だけは。
まるで何事もなかったかのように、艶やかな船体を保ち、静かに波を進んでいた。
その鳐魚を模した双翼の根元には、うっすらと――
雷光が、まだ残っていた。
それを見つめたリュミエールは、小さく目を細めると、ふっと口元を緩めた。
「……陸先生……」
南方諸島の手前に位置する港町《ティル=メリダ》
長い航海と戦いを終えた船団が、ようやくその岸辺にたどり着いた。
その一角――
港の喧騒から少し離れた裏通り。
ひょっこりと船の側面から現れた男が、音もなく地面に着地した。
「ふぅ……やっと地に足がついたって感じだな。」
陸虚は帽子を直しながら、背後から近づく気配に気づいて振り返った。
「よっ、と。」
そこに立っていたのは、銀髪を風に揺らすあの少女――リュミエールだった。
「……やあ、リュミエールさん。いやあ、ほんとに危なかったね。
正直、あのレベルの空間潮汐、僕一人だったらとても逃げ切れなかったよ。」
そう言って笑う陸虚に、リュミエールも微笑みを返す。
「陸先生、それはご謙遜というものですわ。
こちらこそ……ありがとうございました。」
彼女は軽く頭を下げた。
「もし、あの瞬間……あなたが出してくださった“雷”がなければ、旗艦はあそこまで持ちませんでした。」
「……えっ、バレてた?」
「ふふっ。隠しきれると思いました?」
肩をすくめた陸虚は、小さく笑った。
「ま、目立たないって難しいね、ほんと。」
「それにしても……今回は本当にギリギリだったな。」
港の一角で、陸虚は周囲に停泊した船を眺めながらぽつりとつぶやいた。
「見ろよこれ……帆は裂け、船体は穴だらけ、補修費だけで国家予算レベルだな……
いやぁ、大工が喜ぶぞ、これは。」
軽く冗談を飛ばしながら歩いていたが、ふと、視界の端で何かが引っかかった。
「……ん?」
陸虚は目を細めた。
「……あれ? おかしくないか……? あの船、傷ひとつついてないぞ。」