第一百九話 混乱
翌朝――
静かな波音に混ざって、ひそやかな“影の補給”が再び始まった。
リュミエールは誰にも気づかれぬよう、そっと船の左舷に近づくと、手元の布包みを軽く振った。
中から現れたのは、しっとり焼かれたパンに香ばしいハムが挟まれた、見るからに上質なサンド。
「……まったく、ちゃんと食事ぐらいしてもらわないと。」
そう小さく呟いて、彼女は狙いを定めて――
ぽすっ。
見事に格子の中へと落ちた。
「ナイスコントロールだ、リュミエールさん……」
下から小声が返ってくる。
それ以上、会話はない。けれどその“静かなやりとり”は、確かに続いていた。
しかしその時――
「まあ、まあまあまあ……」
くどくどとした声音が、どこからともなく響いてきた。
振り返ると、そこには優雅な衣装を身にまとった海龍人の貴婦人が立っていた。
エメラルド色の鱗が煌き、金のアクセサリーがじゃらじゃらと音を立てている。
一見華やか、しかしその目つきはどこか刺々しい。
「人魚族の姫ともなると……海鳥に投げ与える餌まで、そんなに高級なのね。さすがは“特別待遇”、あらためて税の配分を見直すべきかしら?」
その言葉には、明らかに棘が含まれていた。
リュミエールはにこりと微笑んだまま、貴婦人の皮肉などまるで耳に入っていないかのように、静かに口を開いた。
「……おばさま。こういう日は、船内にお戻りになった方がよろしいかと。潮風が強くて――お化粧、吹き飛ばされてしまいますわよ?」
一瞬、周囲の空気が止まった。
「……お、おば……っ!?」
貴婦人の顔がぴきぴきと引きつる。金のイヤリングが怒りに震えるように揺れていた。
「ワタクシが、“おばさま”……!? この若さと美貌を前にして……っ!」
しかしリュミエールは、優雅な微笑みを一切崩さず、まるで何事もなかったかのように一礼した。
「では、私はこれで。ごきげんよう、おばさま。」
風に揺れる銀髪をなびかせながら、すっと踵を返して歩き去る姿は、まさに完璧な王族の風格。
残された貴婦人は――
「~~~~~~っ!!」
怒りで顔を真っ赤にしながら、言葉にならない悲鳴をあげていた。
「……見ましたね?」
貴婦人は隣に控えていた従者に向き直り、眉一つ動かさずに低く問いかけた。
「わ、私は……っ!」
従者は目を泳がせながら、冷や汗を流しつつ視線を逸らそうとする。
「見たでしょう!? 私の……しわ!」
「ち、違います! 奥様、そ、それどころじゃ――!」
従者の顔が青ざめ、指先が震えている。
「なによ、震えてるの? そんなにショックだったのね!? やっぱり見たのねぇぇぇぇえええ――!」
「違うんです! 奥様、角が……その、角の先が、裂けて……血が……!」
「……は?」
一瞬にして、貴婦人の顔から血の気が引いた。
手を伸ばし、おでこの角をそっと触る――
ぬるりと、生温かい感触。
「きゃあああああああああああああああ!!!!!???」
船全体に響き渡る、絶叫。
その悲鳴と同時に、リュミエールの表情が一変した。
「……まさか……!」
彼女は船縁へ駆け寄り、風を感じ、魔力の流れを読み取ると――
その瞳が鋭く細められた。
「皆さん、ただちに防御魔法陣を展開してください!!」
「っ!?」
「これは――“空間潮汐”です!!」
リュミエールの脳内は、猛烈な速度で思考を巡らせていた。
(おかしい……この航路は、“空間潮汐”の影響を受けるはずがない。
まさか……“逆さ海”の異変が、空間構造そのものに干渉を――!?)
思考を巡らせながらも、彼女の口は止まらなかった。
「――全艦、陣形を変更! “剣魚陣”で突破口を作ります!」
「はっ!」
「私の乗るこの旗艦は先頭に出ます。空間歪曲の中心へ向けて進路を取って!」
「了解!」
「各船、反射障壁を最大展開。翼構造を展開して、周囲の空間を安定化させてください!」
彼女の的確な指示により、船団は即座に動き始めた。
艦首が尖った剣のように整列し、先鋭的な矢の陣形が組まれていく。
そして――
魟魚型の船体が、まるで羽ばたくように両翼を広げた。
キィィィン――!
展開された“銀の翼”が、魔力の粒子をまといながら輝きを放ち、
その波動が歪んだ空間を押し戻すように、周囲の時空を安定させていく。
船団の背後に広がっていた空の裂け目が、一瞬だけ揺らぎ、そして――
「……持ちこたえて!」
リュミエールの声に応えるかのように、光の翼が鼓動するように脈打った。
銀白の光が周囲の空間を包み込み、潮汐の歪みが一時的に収束した。
「……おおっ!」
「助かった……!」
「さすがはメイヴィレーナ融合魔法学院の結界技術……!」
「いやいや、あれはリュミエール姫様の指揮があってこそだろ! まさに冷静沈着!」
乗組員たちや観光客の間には安堵の声が広がり、歓声が上がる。