第一百七話 美食
船団は波を切って順調に航行を続けていた。
魟魚型の商船は風を受け、魔力の帆を輝かせながら南へと向かっている。
その一隅――左舷の格子の中、狭いながらも結界で整えられた“秘密基地”にて、陸虚は地図を広げていた。
「……ここから群島の港まで、だいたい半月ってところか。」
小花は丸まってすやすや眠っている。
その横で、陸虚は荷物を再確認しながら、少し眉をひそめた。
「……食料、案外ギリギリかもな。いや、計画的に食べれば……いやいや、せっかくだから――」
そこで彼の目がきらりと光った。
「……そうだ、海鮮を味わうチャンスじゃないか。」
言うが早いか、彼は結界を調整して片手を海面側に向ける。
指先から薄く光がにじみ、静かに海へと“術”が降りていく。
「――霊流導引・釣魂の式。」
海中に広がる霊力の波紋。魔力を込めた糸のようなものが、大海の“気配”を探り始める。
普通の釣りでは決して釣れないような、深海に潜む不思議な魚たちが、ゆっくりと惹き寄せられていく――
「さて、どんなやつがかかるかな……。海の恵みよ、僕の胃袋を満たしてくれ。」
――そして、その“海鮮生活”も、三日目に突入した。
「ニャー~」
小花が器用に仕上げた巨大ロブスターの丸焼きを差し出してくる。
皮は香ばしく、身はぷりっぷり。
見た目も匂いも申し分ない、……はずなのだが。
「……無理。」
陸虚はぷいっと顔を背け、手で胃のあたりを押さえた。
「最初は感動したよ? うわー海の幸うめぇって。だけどさ……毎日、朝昼晩、ロブスター、魚、イカ……!しかも、調味料ゼロって拷問かよ……!」
塩すらない。レモンも胡椒も、ましてやバターなんてあるわけがない。
「……失策だったな。これ、調味料さえあれば、世界が変わる味になるはずなんだ。」
陸虚は仰向けになり、結界の天井をぼんやりと見つめる。
「……よし。こうなったら、夜中にちょっとだけ上に上がって、厨房から調味料を拝借してくるか。
別に悪いことしてるわけじゃない、命に関わる非常事態だ。これは正義……うん、正義だ。」
小花がじっと見つめてくる。
「……何、その目。いや、これは“サバイバル”ってやつなんだよ、小花?」
「よし……行くか。」
陸虚は結界をそっと解除し、夜の船内へと這い出した。
月明かりと魔光灯の隙間を縫うように、影から影へと静かに移動する。
船員の見回りを巧みにかわしながら、彼は目指す“補給所”――つまり、厨房併設の食堂へとたどり着いた。
「……ふぅ、ここまで来れば一安心。」
扉を静かに開け、忍び込んだ先には、香ばしい匂いと共に並べられた食材と調味料の数々が――!
「……あった。塩、胡椒、ハーブ、なんかよくわかんねぇ粉……最高じゃねぇか!」
手際よく必要なものを小瓶に詰めると、彼は懐から一枚の銀貨を取り出し、カウンターの上に置いた。
「……盗みじゃない、ちゃんと払ってる。ただの……深夜補給、だ。」
満足げにうなずきながら帰ろうとした、その時だった。
――視界の端に、黄金に輝く何かが映った。
「……あれは。」
そこに鎮座していたのは、香ばしい香りをまとった、皮パリパリの金色ローストチキン。
照明の下で輝くその姿は、まさに夜食界の宝石と呼ぶにふさわしい。
「……ぐっ……あれは反則だろ……!」
陸虚は拳を握り、しばし葛藤する。
だが――次の瞬間、諦めたようにもう一枚銀貨を取り出し、テーブルにそっと置いた。
「……これでチャラだ。むしろ安いくらいだ。」
そう呟きつつ、彼はチキンを手際よく包み、調味料と共に抱えてそっと厨房を後にした。
「ふぅ……ミッション完了。あとは静かに戻るだけだ……」
調味料の詰まった小瓶と、まだ湯気の立つローストチキンを抱えながら、陸虚は音を立てぬよう慎重に扉を開け、通路へと足を踏み出した。
その瞬間――
ゴンッ!!
「……痛っ!」
「――ん? 大丈夫ですか?」
背後から穏やかな声がかけられた。振り返ると、そこにはちょうど見回り中と思しき船の守衛が立っていた。
笑顔で、まったく疑っていない様子だ。
「夜は足元が暗いですからね。お気をつけて――」
(……あっぶねぇ! ギリギリセーフ……)
陸虚は顔を伏せたまま、小さく会釈をしてやりすごそうとした。が。
「……ん? 待ってください。」
守衛の表情が変わった。
「そちら、何か……隠してませんか?」
――終わった。