第一百六話 逆さ海
一週間後――ついに出航の日がやってきた。
港には多くの人々が集まり、観光客や旅人たちでごった返している。
乗船手続きを済ませるため列に並ぶ陸虚は、周囲のざわめきと異様な高揚感に気づいた。
「……なんか、やけにみんなテンション高くないか?」
不思議に思って前の客に声をかけると、その人物は目を輝かせながら振り返った。
「えっ、知らないの!? めっちゃラッキーだよ、今回は!百年に一度の大チャンス!“絶景”が見られるって話で、今みんなそれ目当てなんだから!」
「……絶景?」
陸虚が首をかしげると、相手はますます興奮した様子で語り出した。
「南海には“逆さ海”って場所があるの。海の上空に、もう一つの“海”が広がってるっていう信じられないスポットさ。
でね、最近の観測によると、今月はそこに超大型のスコールが来るらしくて……その直後、虹の橋が現れるって言われてるんだ!」
「……虹の橋?」
「うん! その時だけ、“逆さ海”が星界の海を映し出すっていう伝説があるの!昔はただの民間伝承だったけど、今回は本当に見られるかもしれないって、学者たちも騒いでるくらい!」
そう語るその目は、まさに夢を追う旅人のそれだった。
ようやく自分の順番が回ってきた。
「はい、次の方~。乗船券を拝見します。」
無表情な検票員の声に促され、陸虚は肩掛けバッグをゴソゴソと探り始めた。
「えーっと、メリー校長からもらったはずの……あれ?……ん?」
地図の巻物、携帯用の魔法道具、手帳、干し肉、小花のごはん……
いろいろと出てくるものの、肝心の“あの封筒”がどうしても見つからない。
「……まさか、置いてきた……?」
嫌な予感が背筋を走る。
「すみません……その……たぶん家に忘れてきました。えっと、代わりに買えたりとか――」
「申し訳ありません、お客様。船票をお持ちでない方はご乗船いただけません。
それに、本便はすでに満席でして……当日券の販売もしておりません。後ろのお客様のご迷惑になりますので、お下がりいただけますか?」
バッサリと切り捨てられた。
「……ですよねぇ。」
陸虚は肩を落とし、とぼとぼと列から離れた。
(……まさか、ここまで来て乗れないとは……)
潮風がどこか冷たく感じたのは、きっと気のせいではなかった。
「……くそ、こうなったら……飛んで行くか?」
陸虚は小声で自問し、すぐに首を振った。
「……ダメだ。距離がありすぎる。6級魔導師でも魔力がもたねぇ。それに、空には飛行魔獣、海には深海の魔物……下手したら空中で餌食だ。」
再び長蛇の列を横目に、深くため息をつく。
「次の便だと、“逆さ海”の絶景には間に合わねぇし……どうすりゃいいんだ、まったく……」
焦る気持ちであたりを見回していたその時――
「……ん?」
ふと、目に入ったのは、今回乗る予定だった大型船の構造だった。
南方特有の“エイ(魟魚)”を模した幻想的なフォルム。
その両舷には広がるような翼の装飾があり、その下部には――ちょうど人ひとりが腰を下ろせる程度の小さな窪みが。
(あれ……入れるんじゃね?)
陸虚の目が鋭く光った。
「……陰陽金丹の気配遮断があれば、魔力探知には引っかからない……かも?」
すでに乗船準備が進んでいるデッキを見ながら、陸虚はごくりと唾を飲み込む。
「……よし。やるしかねぇな。」
かすかに笑みを浮かべ、彼は音もなく動き出した。
「……よし、今だ。」
深夜、港の灯りが徐々に落ち着きを見せ始めたころ。
陸虚は黒い外套を羽織り、音もなく港の陰へと姿を滑り込ませた。
警備員たちの巡回ルートを読み切り、影から影へと素早く移動する。
そして――狙っていた商船の左舷側、あの小さな格子の下にたどり着いた。
「……ふぅ、上出来だな。」
周囲の気配を探知しながら、小花を抱えたまま格子の中に身を滑り込ませる。
中は思ったよりも狭かったが、伏せれば十分身体が収まる空間だ。
陸虚は懐から数枚の符を取り出し、格子の内壁に手際よく貼り付けていく。
「これで、航行中に気を張らずにすむ……。小花も安心して寝ててくれよ。」
ぺた、ぺた――符が淡く光を帯びながら、周囲との結界を張っていく。
揺れや加速にも影響されず、外部の探知も遮断する。まさに完璧な潜伏術。
そして――
数日後。ついに出航の日がやってきた。
鳴り響く汽笛、次々と帆を張る商船たち。
観光客たちの歓声が遠くに聞こえる中、陸虚の潜む船もゆっくりと港を離れていく。
(……やった、バレずに乗れたな。)
小花がぴくりと耳を動かしながら、陸虚の腕の中で静かに丸まっている。
(さあ、“逆さ海”よ……どんな絶景を見せてくれる?)
新たな旅路が、静かに、しかし確かに始まった――。