第一百四話 南の島
家に戻った陸虚は、さっそくノアに海の話を伝えた。
するとノアはどこかバツが悪そうな笑みを浮かべ、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい、旦那様……。私も一緒に行きたいのは山々なんですけど、実は……もうシオンちゃんとエルフの領域に遊びに行く約束をしてしまっていて……」
「そうか……」
陸虚は少し残念そうにうなずきつつ、今度はそばにいたヴァルゼリナに視線を向けた。
彼女の性格なら、どうせ一緒に遊びに行きたがるに違いない。ついでに移動手段も節約できて一石二鳥――そう思ったのだが。
「行かぬぞ。」
返ってきたのは、即答の拒否だった。
ヴァルゼリナは腕を組み、ふんっと鼻を鳴らす。
「リブィの酒じゃ。数十年かけて醸した逸品が、ついに仕上がるというのじゃぞ? この時を逃してはならんわ! 海など後回しじゃ、後回し!」
一人取り残された陸虚は、はぁっとため息をついて、小花を抱き上げた。
「……結局、付き合ってくれるのはお前だけか。」
ぽつりとこぼすように呟くと、小花はその気持ちを感じ取ったのか、ぺろりと陸虚の手を優しく舐めてくれた。
「ふふ……ありがとう、小花。」
そんなやり取りを見ていたノアは、申し訳なさそうにうつむいた。
「やっぱり……私、無理言ってるんじゃ……」と、小さな声で呟く。
それを察した陸虚は、すぐに手を振って明るく言った。
「気にするなって、ノア。今回のは遊びだけじゃなくて、ちゃんと仕事もあるんだ。講義とか交流とか、いろいろとね。」
そしてふっと微笑む。
「今度また時間が合えば、シオンやカミラたちも一緒に行こう。海、みんなで見に行こうな。」
ノアはようやくほっとした表情を浮かべると、少しだけ恥ずかしそうに目をそらしながら口を開いた。
「えっと……旦那様、一つお願いしてもいいですか?南の島って……真珠が有名なんですよね。ノル、前にすごく欲しがってて……来年の誕生日に、ネックレスを贈ってあげたいんです。」
その言葉に、陸虚は優しくノアの頭を撫でながら微笑んだ。
「任せておけ。」
そのやりとりを横で聞いていたヴァルゼリナが、にこにこと笑みを浮かべながら自分を指さした。
「もちろん、わらわの分もあるんじゃろうな?」
陸虚は額に手を当て、苦笑いを浮かべた。
「……はいはい、ちゃんと用意するよ。」
「やったぞ!」
ヴァルゼリナは満面の笑みでそう叫ぶと、どこからか取り出したやたらと長い買い物リストを、ズシッと陸虚の手に押しつけた。
「……って、これ多すぎないか?」
重たく垂れ下がる巻物を手に、陸虚は空を仰いで心の中でそっと叫んだ――
(これはもう、なんなんだよ……)
こうして、一人で旅立つことが決まった陸虚は――
ついに、休暇(という名の出張)旅行へと踏み出すことになった。
本来であれば、ヴァルゼリナに乗ってひとっ飛び、南方最果ての港町まで一直線……
そこから船に乗って海を渡る、という完璧なルートを想定していたのだが――
「……まあ、仕方ないか。」
彼女が大切な酒のために動かない以上、贅沢は言ってられない。
というわけで、陸虚は地道に商隊のキャラバンに同行し、ゆっくりゆっくり南下する旅路を選ぶことに。
道中のんびりとした空気に包まれつつも、時折魔物の襲撃を撃退したり、道に迷った村人を助けたりと、小さな事件には事欠かない毎日だった。
――そして約一ヶ月後。
ようやく、彼の目的地である港町の街並みが、海風と共にその姿を現した。
「……長かったな。」
潮の香りを胸いっぱいに吸い込みながら、陸虚は静かに微笑んだ。
南方諸島へ向かう船は、どうやら出航まであと一週間ほどかかるらしい。
せっかくだからと、陸虚は街で「郷に入っては郷に従え」精神を発動。
南国特有のカラフルな衣装に身を包み、胸元の開いた軽装シャツに、裾の広いズボン。
日差しを遮るためのつば広の帽子に、さらに黒いサングラスまで――
まるで“完全オフモード”の冒険者に早変わりである。
「……これ、変じゃないよな? いや、みんなこんな格好だし、多分大丈夫……だよな?」
そんな主の葛藤をよそに、小花はすっぽりと挎包の中に収まり、目だけをちらりとのぞかせていた。
異国の空気と太陽を感じながら、彼らの“なんちゃってバカンス”は、静かに幕を開けたのだった。