第一百一話 氷魂の核
どれほどの時が経ったのだろうか——
陸虚の耳に、ぐつぐつと何かが煮える音が届いた。
鼻をくすぐるのは、腹を鳴らさずにはいられないほどの、香ばしい香り。
(……うまそうな匂い……)
空腹で目を覚ました陸虚がゆっくりと目を開けると、そこには——
鍋を挟んで盛大に食べているヴァルゼリナの姿があった。対面には、止めたいのか止められないのか複雑な表情のアイゼル。
「お、叔母上! お願いですから、それ以上は……っ!」
アイゼルが慌てて止めに入る。
「これは陸様のために特別に用意した料理なんです! もうご自分の分は食べたでしょう!? 彼が起きたら、何を食べさせればいいんですかっ」
だが、ヴァルゼリナは箸を止めず、むしろ不満そうに眉をひそめる。
「起きたら、また作ればよかろうが。まったく、竜族の王子ともあろう者が、なんとケチくさいのじゃ……」
「け、ケチって……っ!」
アイゼルの肩が小刻みに震える中、ようやく陸虚が喉を軽く鳴らした。
「……あー……その、僕の分……」
その声にヴァルゼリナがようやく気付き、ちらりとこちらを見た。
「おぉ、目を覚ましたか! ……残念じゃが、妾が責任を持ってすでにいただいておったぞ?」
「それ、全然責任取れてないんだけど……」
陸虚の小さなため息に、アイゼルは思わず天を仰いだ。
空腹で限界寸前だった陸虚は、体に鞭を打ってがばっと起き上がると、躊躇なくヴァルゼリナの横に飛び込んだ。
「おいヴァルゼリナ、それ僕の分だろ!? せめて三割は残せ!」
「ふふん、先に起きた者が得をするのは、古今東西変わらぬ理じゃ。妾を恨むでないぞ、陸虚」
「理はいいけど、せめて配慮はしてくれよ……!」
半ば奪うようにしてようやく腹を落ち着かせた陸虚は、湯気を上げる鍋の名残を見つめながら、小さく息を吐いた。
「……なんとか半分は食えたな。さて……」
彼は真剣な面持ちでアイゼルの方を向いた。
「アイゼル、すまんが、すぐにお父上に会わせてくれ。こっちにも、救わなきゃならない人がいるんだ」
アイゼルはこくりと頷き、真剣な顔に切り替わった。
「……わかりました。父は今、王宮にてお休みになっています。すぐにご案内します」
「よし、頼む」
そうして陸虚は立ち上がり、湯気の立ち込める宴の間を後にした。
王宮の中心、氷の玉座に腰掛けた氷龍王アイスは、すでに邪神を追い出したとはいえ、肉体はまだ完全には癒えていなかった。だが、その目には確かな光が戻っており、精神だけは誰よりも健全であることが一目で分かった。
「おおっ、来たか、来たか!」
アイスは嬉しそうに目を細め、立ち上がると、まだふらつく体でありながら、堂々たる足取りで陸虚に近づいた。
「白也の弟子、陸虚だな? いや、評判以上じゃ!」
そう言って、分厚い手で陸虚の肩をばしんと叩いた。
「実力も見事だが、それ以上に――若かりし日の白也より、はるかに落ち着いておる! まさに青は藍より出でて藍より青し、とはこのことよ!」
「……恐縮です。無事で何よりです、アイス殿」
陸虚はやや照れたように微笑んだが、姿勢は崩さなかった。
アイスはその態度にもますます感心したようで、豪快に笑いながらうなずいた。
アイスはしばし陸虚の顔を見つめ、ふと懐かしげに目を細めた。
「……本当に、時が流れたな。白也、ティリオン、そしてこの俺。三人で肩を並べて戦った日々が、まるで昨日のことのようだ」
低く絞り出すような声には、長い歳月を背負った者だけが持つ寂寥がにじんでいた。
「……ティリオン……」
静かに沈黙が落ちた。
その空気を破ったのは、陸虚の穏やかな声だった。
「ティリオン様を――目覚めさせる方法、あります。今、オグドン校長と共に、必要な材料を集めている最中です」
その瞬間、アイスの目に強い光が灯った。
「なんだと……!」
彼は一歩、いや、半歩だけ前へと踏み出し、震える声で陸虚を見つめた。
「やはりな。おぬしが来たと知ったときから、心のどこかで確信しておった……必ず、何かを成し遂げてくれると!」
その声は、もはや希望そのものだった。
「なあ、陸虚。俺にできることは何でも言ってくれ。材料でも、情報でも、力でも、何でもだ! ティリオンを……あいつを、目覚めさせてくれ!」
陸虚は少し躊躇いながらも、しっかりと口を開いた。
「……実は、ひとつお願いがあります。ティリオン様を目覚めさせるには、いくつかの貴重な材料が必要です。その中でも、先日リザード族が献上した“千年雪蓮”――あれが不可欠なんです」
アイスは思わず目を細めた。
「なるほど、やはりあれはそうだったか……まあ、あいつらの供物だが、お前の手に渡った時点でもう運命みたいなもんだ。使うがいい」
陸虚は頭を下げて感謝の意を示した。
「ありがとうございます。ただ、ティリオン様の件は焦っても仕方ありません。材料集めは時間がかかります。実は、今、もっと差し迫った問題が――」
言い終わらぬうちに、アイスが手を叩いた。
「分かっておる。極寒属性のアイテムが要るんだろう? ふふん、さすがにそれくらいは想定済みだ!」
彼は懐から、まるで氷そのものが結晶化したような、青白く光る氷塊を取り出した。まわりの空気が一気に冷え込む。
「これは“氷魂の核”。我が竜族の聖域、永氷洞の奥でしか採れぬものだ。千年に一度しか生成されん、我が一族でも限られた者しか触れられぬ貴重品だぞ」
そう言って、アイスは迷いなく陸虚の手にその氷塊を手渡した。
「お前に託す。この命よりも重い氷を、どうか誰かの命を救うために使ってくれ」
陸虚はその冷たい光を見つめながら、力強く頷いた。
「必ず……役立ててみせます」