第一百話 誅邪(下)
「グァアアアアアアアアッ!!」
まさに天の裁き。
雷に貫かれた邪神の黒き塊は、凄まじい悲鳴を上げながら、その体を一気に三分の二も蒸発させられた!
邪なる霧は雷に焼かれ、呻き声を上げながら後退する。
しかし、完全には滅びていない――まだ、この場を逃れようと蠢いている!
「逃がすかよ……!」
既に霊力は限界。
それでも、陸虚は金丹の力を更に深くまで掘り下げ、命を削ってでも――もう一発《誅邪神雷》を放つ覚悟を決めた。
「……時間を稼いでくれ! 奴が逃げたら面倒だ!」
鋭く叫ぶ陸虚。
「包囲してくれ! 僕がとどめを刺す!!」
その言葉に、仲間たちは即座に動いた。
巨竜たちも翼を広げ、邪神の退路を断つべく布陣する。
邪なる霧は人の心を弄ぶことに長けた存在。
その瞳がギラリと光ったかと思うと、突然――グレイシアに向かって突進しながら、不気味に笑い声を上げた。
「ケッケッケ……まずはお前の身体を貰ってやる! 」
「か、母上ぇぇぇぇッ!!」
門を守っていたアイゼルが絶叫し、慌てて飛び出した。
それを見た陸虚は、すぐに意図を察知して叫ぶ。
「騙されるなアイゼルッ! あいつはもう誰にも憑依できない! 今の目的は逃げることだ!!」
その言葉が届くと同時に――
「ケヒャヒャヒャヒャ! 遅い! いいさ! 次に会う時はお前たち全員を化け物にしてやるよォォ!!」
邪霧はくるりと方向を変え、封印の大門へと猛然と駆け出した。
その身を黒煙に変え、滑るように逃走を図る!
陸虚は歯を食いしばりながら術式の構築に集中していた。
だが――今の彼は、すでに霊力を限界まで使い果たし、身体を動かすことすら叶わない。
その様子を見た邪神はますます愉悦に顔を歪め、勝ち誇ったように陸虚に囁いた。
「……絶望の味ってのは、やっぱり格別だなァ……うめぇ、うめぇぞォ!」
その刹那。
邪神の目線がふと横へ逸れた。
そこには、大門の隣で佇む――一匹の三毛猫。
じいっと、邪神を見据えるその瞳に、一瞬だけ違和感を覚えた邪神は鼻で笑った。
「はっ……猫だァ? 一匹のネコ風情が、このオレを止めるってか?」
不気味に笑いながら、口を大きく開けて猫めがけて突進する――その瞬間。
「――にゃっ!」
バゴォン!!!
次の瞬間、邪神は見事に猫の前脚でぶっ飛ばされ、地面にめり込んだ。
「………?」
邪神は地面に叩きつけられたまま、しばらく目を回していた。
「ぐ……ぐぬぬ……な、なんだ今の……?」
星がちらつく視界の中で、目の前に佇む三毛猫――小花を見つめた。
その眼には信じられないという色が浮かんでいた。
「……ね、猫だろ……? なんで……おれが……?」
そんな哀れな邪神をよそに、陸虚はすっと立ち上がり、微笑みながら言った。
「よくやった、小花。そいつ、もう“中”に入れていいぞ」
「にゃっ!」
小花はひと鳴きすると、ふたたびその身を変化させ――
黄金に煌めく大鼎へと姿を変えた!
「ちょ、ちょっと待――ぐわあああああっ!!!」
邪神の悲鳴もむなしく、黒き霧の本体はごぼっと鼎の中に吸い込まれていった。
すぐさま、鼎の底で《造化の火》が燃え上がる――。
すべてを還元し、浄化し、真なる本質だけを残す天地の焔が、邪神を余さず焼き尽くしていく。
「ギャアアアアアアア―――ッ!!!」
数分後。
炎が鎮まるとともに、小花は口を開き、ぽとぽとと数個の結晶を吐き出した。
それは漆黒に輝く、不気味でありながらどこか神秘的な石。
陸虚はそれを手に取り、じっと見つめてぽつりと呟いた。
「……幽髄か。まさか、こんな形で手に入るとはな」
その後、陸虚たちは氷竜王のもとへと戻ってきた。
闇が祓われた今、氷の王は静かに、深く眠りについていた。
「よし……このまま寝てんじゃないわよ、アイス。起きなさ――」
ヴァルゼリナが腕をまくりながら近づこうとしたその時、グレイシアがそっと手を伸ばして彼女を止めた。
「……この三十年、一度も穏やかに眠れたことがなかったの。今くらい、そっとしてあげて」
その声音は、氷よりも柔らかく、春風よりも優しかった。
ヴァルゼリナは一瞬だけ言葉を失い、ふいとそっぽを向いた。
「……まあ、そう言うなら仕方ないのう。せっかく妾が起こしてやろうと思ったのに……」
陸虚はそんな二人のやり取りを聞きながら、最後の力を振り絞って氷竜王の様子を確認した。
(大丈夫だ……もう、何も心配いらない)
安堵が心を満たした瞬間――
枯渇した霊力と極限の疲労が、陸虚の体を一気に襲う。
「っ……!」
ぐらりとよろめいた彼を、すかさずヴァルゼリナが抱きとめた。
「おい、陸虚!? ……こらっ、寝るな! 妾の前で勝手に気絶するとは何ごとじゃ……!」
しかし、彼の顔にはどこか満ち足りた、安らかな笑みが浮かんでいた。
「……ほんと、無茶ばっかりするんだからのう……」
ヴァルゼリナはふぅとため息をつき、そっとその体を自分の膝に横たえた。
氷原に差し込む光が、白銀の世界にほんの少しだけ、あたたかな色を添えていた。