第九十九話 誅邪(中)
だが——
「ぐああああああッ!!」
氷龍王が頭を抱え、残酷な記憶を思い出し、再び暴れ出した。邪神の力が突如として強まり、引き出されていた瘴気が逆に鎖を巻き込んで、じりじりと体内に戻ろうとする。
「だめだ! このままじゃ——!」
そのとき。
「まったく……仕方ないのう」
ヴァルゼリナがぽんっと懐から、金色の宝石を取り出した。それは年季の入ったが、ピカピカ輝いている。
彼女はそれを、氷龍王の足元にぽとんと投げ落とす。
「アイス。返してやるぞ……お主の、大切だった宝物じゃ」
コロン、と転がった宝石が氷の床に当たる音とともに、氷龍王の動きが止まった。
その瞳の奥が、微かに揺れる。
(あれは……おれの……)
記憶の断片が、痛みとともに氷龍王の中で交錯する。今にも引き裂かれそうな精神の中で、かつての「大切な何か」が静かに息を吹き返していた——。
陸虚はすぐに判断を下した。すぐさま陰陽金丹を演化し、手のひらから造化の息を放つ。その柔らかくも力強い気息が氷龍王を包み込むと、彼の瞳に再び光が戻り始めた。
その視線の先には――
白衣を纏った一人の青年が、柔らかな微笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
「……今だ、もう少し!」
氷龍王の中で暴れる邪神の気配がわずかに弱まり、全員が握る鎖にもそれが反映されたかのように、抵抗が一段階軽くなる。
だが、喜びも束の間——
「……クッ、まだ……残ってやがるか!」
鎖の先端、邪神の“核”と思しき部分が、氷龍王の体内にしぶとく張り付いて離れない。氷龍王の顔が再び歪み、咆哮と共に全身から黒気が逆流する。
それに引かれるように、せっかく引き抜いてきた鎖が、またじりじりと体内へと引き戻されはじめた。
陸虚は歯を食いしばりながらも、なお策を巡らせる——
「ダメだ……このままじゃ……!」
「くそっ……あと少し、ほんの少しなのに……! 一体、何が……!? ――そうだ、ティリオンだ!」
陸虚の目が見開かれる。
「ティリオンの気配……何か、それに関わる物は……!」
一瞬の沈黙のあと、陸虚は拳を強く握りしめた。
「……あった!」
ふと閃いた陸虚はティアリアの枝を作った眼鏡を外し、全力でその魔力を演化させた。やがて、眼鏡はティリオンの種となり――彼はそれを氷竜王へと投げつけた!
ティリオンの種が触れたその瞬間、氷竜王の瞳は完全に澄み渡った。
懐かしい気配が彼を過去の記憶へと導いていく――
雪舞う氷原の上、三人の若者が茶を酌み交わしながら笑い合っていたあの頃。
失われていた最後の欠片が、ようやく彼の心に戻ってきたのだった。
「今だっ! みんな、引けぇぇぇ!!」
陸虚が渾身の力で叫んだ。
――ゴォンッ!!
重く鈍い音とともに、ついに邪悪な気配の源が引き抜かれた!
天外の邪魔――その黒き存在が、ズルズルと現世から引きずり出される。
邪念を失った氷龍王の顔に、ふっと安堵の笑みが浮かぶ。
そして次の瞬間――
「……やっと楽になった……」
そう呟くようにして、彼はその場に崩れ落ちた。
引きずり出された邪神の本体は、黒い瘴気のような塊だった。
その異様な闇が空中で渦を巻き、まるで生きているかのように蠢く。
そして、そこから響いてきたのは――ねちっこく、歪んだ声。
「クク……この役立たず、深淵に身を委ねることすらできぬ愚か者め……」
「いいさ、その代わりに――こいつの家族を、全部“怪物”に変えてやる。なぶって、苦しめて……」
「その時の顔を思い浮かべると、ゾクゾクしてたまらんなぁ……クククッ!」
その声には、まさに“悪意”そのものが凝縮されていた。
そう叫ぶやいなや、邪神の塊は咆哮を上げながら突進してきた!
「来るなら来いっ!」
陸虚は前に一歩踏み出し、右手を高く掲げて叫ぶ。
「――待ってたんだよ、てめぇみたいな奴を!」
「《誅邪神雷》!」
炸裂したのは、太陽の如き純陽の雷霆。
天を裂くほどの轟音と共に、燦然と輝く雷撃が直撃した!