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カレーを食べ終わり、彼女が食器を洗って戻ると、彼は落ち着いてきたらしく、涙は乾いていた。気の抜けた、ぼうっとしたような顔をして、ビールの残りを飲んでいた。
彼女はその彼の左隣にまた座ると、優しく尋ねた。
「さっき、なんで泣いたの?」
彼女は贅肉のついた六十点前後のその顔に、愛おしそうな微笑みを浮かべた。
彼は答えた。
「うん……。実はこのカレー、母親が最後に作ってくれたカレーにそっくりなんだ。前に話したと思うけど、俺の母親、俺が小学生だった時にある日学校から帰ってきたらいなくなってて。その時食卓のテーブルに『いつもより手間ひまをかけたカレーを作りました。食べてください』っていうだけの書置きがあって、台所に行ったらカレーが作り置きしてあった。夕食時になっても母親は帰って来なかったから、俺は一人でそれを温め直して、『お母さんどこ行ったんだろう』そう思いながら皿にご飯と一緒によそって食べた。その時はまさか思わなかったよ、あのまま母親が帰って来ないなんて。
――その時のカレーとそっくりだったんだ、初めて君に作ってもらったカレーが。一口食べた瞬間、母親のこと一気に思い出しちゃって。胸がなんていうかこう……いっぱいになって、とてもじゃないけど泣いちゃいそうで途中で食べるのを止めたんだ。
それから君は少しずつ味を変えてカレーを作り続けてくれたけど、それらはあの母親のカレーとは味が違ったから、別にまずかったわけじゃないんだけど、俺はなんか違うな、なんか違うなと思いながら食べて、心の底からおいしいと言ってあげられなかった。初めに作ってくれたカレーを、また作ってくれないかなと、心のどこかで期待し続けていたんだ。
それで今日は最後だから、母親の作ったのとそっくりなカレーをまた食べさせてもらおうと思って……やっぱり泣いちゃったよ」
そこまで一気にしゃべって、彼はすっきりした表情で軽く笑ってみせた。彼女は彼への愛情が、この時になってまたふつふつ胸中に湧いてくるのを抑えきれなかった。
「そう、そうだったんだ。まずいわけじゃなかったのかな、私のカレーは」
「もちろん。また同じカレーを食べたいと、ずっと思っていたよ。女の人の前で泣くところなんて見せたくないから、同じカレーを作って欲しいとはなかなか言えなかったけど」
「おいしかった?」
「うん。すごく。それに途中味を変えて作ってくれていたカレーもまずいわけじゃなかったよ。ただ、母親のとは味が違ったから、微妙なリアクションしかできなかっただけで」
その時雲間から太陽が出て、部屋の、二人の背中側にある掃き出し窓から、晩春の柔らかな陽射しが射し込んだ。その陽射しを背に受けながら、彼女は自分のぱっとしない人生が、この時少しばかり報われた気がした。
その充実感を覚えながら、彼女にはもう一歩欲が出てきた。意を決して彼の方に向き直ると、口を開いた。
「私、このカレーでよければこれからもあなたの好きなだけ作ってあげられる。いつでも、いくらでも作ってあげる。でも、それでも……やっぱり私と別れることに変わりはない?」
彼はぐっと黙り込んだ。彼女にはその顔が、迷い始めているように見てとれた。
「本当のことを言うと……」
ようやく彼が呟いた。
「本当のこと?」
彼女は問い直した。期待と、一抹の不安を感じながら。