1 彼女の視点、彼の過去
カレー作りには自信があった。
いや、カレー作りだけには、と言った方が正確なのかも知れない。
初めて付き合った恋人に、唯一褒められた料理がカレーライスだった。
それから彼女はカレー作りにのめり込み、さんざん作っては改良し、改良しては人に食べさせるということを繰り返してきた。そして彼女の作ったカレーは友人知人そしてその時々の恋人たちに、それなりに評価されてきた。
滞納していた家賃の催促に来たアパートの大家に、たまたま作っていたカレーを食べさせてみたら、非常に喜んでもらい家賃の支払いを延ばしてもらったことがあった。作りすぎたカレーをタッパーに冷凍して会社に持って行き同僚に渡したところ、レシピの詳細を教えて欲しいと真剣な申し出を後日受けたこともあった。キッチンカーをリース契約してカレーの販売を始めればどうか、と持ちかけてくる友人すらいた。つまり、彼女のカレーは客観的に見てもそれなりに味が良いのに違いなかった。
とはいえ彼女の作るカレーは、スパイスを自分で調合したりブイヨンから作ったりなどはしない、いわゆる普通のお家カレーだった。
その作り方は――、
1.薄切りにした玉ねぎを600Wのレンジで10分間加熱する。※この際切った玉ねぎ4分の1個を加熱せず取り分けておく。
2.カットした国産豚ばらブロック肉を、脂身を下にしてフライパンで焼き、十分に脂が出たら他の面も焼く。全面が焼けたら塩こしょうを振り赤ワインでフランベする。
3.レンジで加熱した〈1〉の玉ねぎをフライパンに加え、炒める。
4.人参、角切りにしたトマト、水、玉ねぎペースト、〈3〉を鍋に入れ、3時間煮込む。
5.じゃがいも、〈1〉で取り分けておいた玉ねぎの残りを鍋に加え、更に10分間煮込む。
6.ジャワカレー(辛口)と熟カレー(辛口)のルウを2対1の割合で鍋に入れ、溶かし、5分間煮込む。
7.できあがったカレーを炊き立ての白米とともにカレー皿に盛り付ける。カレーそのものを味わってもらうため福神漬け、らっきょうは添えない。――フィニッシュ。
というものだった。玉ねぎに時間差をつけて火を通すのは、とろとろに溶けた玉ねぎと食感の残った玉ねぎ、両方が味わえるようにするためだ。それとトマト、赤ワインを加えるのが彼女のささやかな工夫で、もう彼女は飴色玉ねぎを手作りすることをやめてしまっていた。一度市販の玉ねぎペーストを買って使ってみたら、手作りしたものと味に大差が無いことが分かったからだ。そこに力を入れるより、とにかく肉と野菜をじっくり煮ることに彼女は重点を置いた。
これが上京してカレー作りを始めてから十年近く経ち、彼女が行きついたレシピだった。
彼女はこのいささか手の込み過ぎている感のあるお家カレーをアパートのキッチンで休日にしょっちゅう作り、友人知人同僚恋人、果てはご近所さんにまで配るようにして食べさせた。カレーは大鍋に大量に作られ、二日続けて彼女が食べた後は小分けに冷凍され、後にカレーうどん、カレードリアとして姿を変えて食卓に登場するのだった。
だから彼女が二十八歳の秋、年下の大学生と付き合いだした時にも、もちろん彼女は彼を三鷹の安アパートに呼んで何よりもまず先にカレーを作り、食べさせた。
彼とは当時流行っていたモバゲーを通じて知り合った。何度かのデートをし、やがて彼の(彼女のそれより更にボロボロの)アパートで一夜を共にした。その次のデートで彼女は彼を部屋に招いた。彼女がカレーを彼に初めて食べさせたのがこの時であった。
彼は狭い部屋の二人掛けのローソファに大人しく座って、その端正な顔に無表情を装って、黙ってカレーを食べた。
(かわいい)
ソファの隣に座った彼女は、右隣の彼をちらちら見ながら思った。大学でキックボクシング部に所属しているという彼は、寡黙で朴訥で、一見チャラついたところが無く、そして引き締まった筋肉質の体を持っていた。彼女は当時まだ一般的でなかったインターネットを介しての出会いというところから、正直会う前彼には期待していなかったのだが、一度会った時から(主にその見た目に)やられてしまっていた。一流大学に在籍しているという点も彼女の気を惹いた。
(どうにかこの人と将来的にも……そのためにはなんとしてもここで胃袋をつかんでおかなければ)
そう彼女は意気込んでいた。
しかし――この時彼はカレーを黙って半分ほど食べると、スプーンを静かに置いてしまったのである。おやと思い彼女が彼の顔を見ると、なんとも哀しげな、沈痛な表情に変わっていた。
「あれ? もういいの?」
彼女が尋ねると、
「うん、なんていうか……いや、ごめん。なんでもない。ごちそうさま」
という答えが返ってきた。
彼女は少なからずショックを受けた。人にカレーを残されたのは、初めてだった。