⑨レイン2
急いで氷山を滑り降りるレイン。その顔には焦りが浮かんでいる。
(まずい、気付くのが遅れた。そうとう時間を食った。ミナが危ないのに、目の前のヴァンパイアに気を取られて……)
だが同時に、レインの頭の片隅には微かな問いが浮かぶ。
(なんでおれは、ヴァンパイアの始祖を守ろうとしている?)
本来は殺すべき対象。憎むべきヴァンパイアの親玉。なのに、どうして守ろうとする?
分からない。レインには、なぜ自分がミナを守ろうとしているのか分からなかった。しかしそれでも、自然と足は魔女のもとへと向かう。
おまえが殺せばいい。
頭の中で声が囁く。
魔女は解毒に集中してる。いまなら不意打ちで殺せる。お前が──お前の──お前の手で──
違う!
レインは大きく被りを振る。
(おれはミナを憎んでいない。殺したいなんて思っていない……!)
なんでだ? あいつはヴァンパイアだ。なんで殺さない?
(なんで……分からない。なんで……)
そうこうしているうちに、広場が見えてきた。同時に、ミナの頭上でゆっくりと鎌首を持ち上げる竜頭の毒液。
それを見た瞬間、レインは迷いを捨てた。ただ無心に広場を駆け抜け、ミナを抱えて地に転がる。少年の肩を毒が掠めた。服が溶け、皮膚が爛れる。しかしそんな痛みに構わず、少年は起き上がって魔女を見た。
「ミナ! 大丈夫か!?」
しかしミナは瞑目したまま答えない。ただ人差し指を口に当てる。
集中してるから、静かに。
そんな声が聞こえた気がした。
少年は叫びたい気分だった。そんなのいいから、逃げようと。しかし魔女が村人たちを見捨てないことを、彼は知っている。だから立ち上がり、武器を構える。鋭い眼光が、ヴァンパイアを睨みつけた。
苦しむ村人のなか。少年の前には1人の男が立っていた。黒い服に身を包んだ、寡黙そうな中年男性だ。白い頬はこけ、長い黒髪はうねってワカメのよう。なんだかくたびれた印象の男だ。
「おまえが、村の人たちに毒を盛ったのか」
レインは男に問いただす。男は静かに答えた。
「そうだ」
感情の感じられない、冷たい声。少年は唇を強く噛みしめる。
「なぜだ! なぜこんなこと……」
「魔女を殺し、その心の臓を手に入れるため。とある筋から、魔女が人間を見捨てられないという情報を得た。だから村人に毒を盛れば、彼女は救命のために大きな隙を晒す。そう思った」
レインは強く奥歯を噛みしめる。こいつは、ただミナの心臓を手に入れるために、村の人たちを巻き込んだ。殺そうとした……!
「おれからも質問だ。おまえはヴァンパイアハンターだろう? なぜヴァンパイアの始祖である、魔女を守る?」
男の声が遠くに聞こえる。怒りが、憎悪が、身体の奥から込み上げる。許さない。絶対に。
少年の心の奥で、青い炎が轟々と燃え上がる。
同時に、彼の中でなにかがストンと落ちた。
あぁ、そうか……
「今ようやくわかったよ」
男の質問には答えず、レインは小さく笑った。男は眉を顰める。
「いったい何の話──」
「おれがヴァンパイアを狩るのは、ヴァンパイアがヴァンパイアだからじゃない。おれが本当に許せないのは、何もしていない善良な人々の幸せを理不尽に、私利私欲のために奪うやつだ。お前みたいな──」
レインの目が、男を見据える。
「ミナは違う。他者のために怒り、他者のために自分の身を削れる……! 人のことをよく見ていて、困っているときは優しく寄り添ってくれる! 自分のできる最善を尽くして、人を守ることができる……!」
「しょせんおれと同じ、ヴァンパイアだ」
「違う! 少なくとも、おまえとは違う。自分の目的のために、無関係な人を巻き込むようなお前とは……!」
男は小さく被りを振る。
「そうか……残念だ」
レインをヒタと見据える毒ヴァンパイア。その身体をみるみる紫の鱗が多い、爪は鋭く、目は爬虫類のように変形。まるで蛇人間とも称すべき姿に変貌する。
チロチロと赤い舌を覗かせる蛇男。
「分かり合えぬならせめて、苦しまぬよう魔女ともどもあの世へ送ってやる」