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荻野目奏美は美しい

荻野目(おぎのめ)さんがまたコクられたってさ」

 坂目浩正(さかめひろまさ)はA定食を机に置きながら、そう呟いた。ここは神津(こうづ)大学の工学部塔の学食だ。俺と坂目はその1年で、あいうえお順で席次が決められた語学のクラスで隣席になって以降、よくつるむようになった。

「へぇ」

「反応薄。つまんないの」

「そんな事言われても、俺は荻野目さん知らないし」

 荻野目奏美(かなみ)は坂目とフラ語か何かの二外が同じで、ほわほわした感じの美人さんらしい。坂目は疑わしそうにハンバーグから目を上げる。

「本当に見たことないの? よくカフェテラスで人だかりができてるって」

「俺らが行くのって学食じゃん」

 早い、安い、そこそこに美味くて量も十分、それで混んでいて、美人には縁が無い。大学のカフェテラスには一度だけ4月に行ったけど、サンドイッチやらスパゲッティやらなんだか上品で、正直あんまり食った気がしなかった。そういえば女子が多かったような気はする。階段3段分くらいだけ、住む世界が違う気がする。

「まあ超かわいいからさ、見たらわかる」

「しつこいぞ」

 坂目は漸く口を閉じた。


 ここの所、会うたび会うたび荻野目さんの話で、わりと真剣にそろそろ友やめしようか悩んでいる。同じ話ばかりで鬱陶しい。それ以外はいい奴なんだけどなあ。

「そんなに気になるなら、お前がコクればいいじゃん」

 そういった途端、坂目は両手を激しくふる。

「俺みたいなモブが付き合えるわけないだろ」

 はぁ、とため息を付いた。この鬱陶しい状況は他原因によって解消されない限り、しばらく続くということだろう。つまり荻野目さんが早くだれかと付き合えばいいのに。なんとなく黒髪女子が背の高いテニスラケットでも持ってそうなイケメンとくっついているようなシルエットが頭に浮かぶ。我ながら発想が貧困なのは否めない。

 そんなこんなでイライラしていた帰り、ざわつく方向に目をやれば、カフェテラスに人だかりができていた。なんとなく気になりみていると、黒髪のかわいらしい感じの女子がそこそこモサい感じの、なんていうかザ・柔道部という風情の背の高い男に頭を下げていた。どうやらコクられて、断っているところらしい。

 うわぁ、あれがひょっとして荻野目奏美か。確かに可愛い。そして確かにカフェテラスにいて、コクられている。でも、これじゃあ見世物じゃないか。ちょっと可哀想になった。

 でも前もここでコクられてるのを目撃されたんだよな。というか、こんな人目が多いところに来ないほうがいいのでは。いや、よく考えたら人目が多いところの方がコクられる可能性は低いのかもしれない。難儀だなと思っていれば男は何度か頭を下げて立ち去り、荻野目奏美は店員にサンドイッチを包んでもらってカフェテラスを出ていった。そりゃこんなに人目がある中で食べられない、か。なんだか不憫に思えていた。美男美女もいいことばかりじゃないんだな。

 そう思って、結局自分とは全く違う世界のことだなと思いつつ次の英語のクラスでのこと。


「なあ坂目、荻野目さん見たよ。まあ確かに綺麗だった」

「えっ? 見たってどこで?」

「カフェテラスだよ」

「は? なんで?」

 坂目の心底驚いたような表情に困惑する。

「いや、なんでって。入らなくてもカフェテラスの前ぐらい通るさ」

 カフェテラスは大学の中央を貫く大通りの校門近くにある。だから通るだけなら毎日通ってる。

「いや、その、それ本当に荻野目さん? どんな人だった?」

 そこまで言われて、ひょっとして荻野目さんじゃない可能性があることに思い至る。名札をつけてるわけじゃない。腰ほどの長さの黒髪、シンプルな若草色のワンピースを着ていた。あとは背は高くもなく低くもなく、確かに美人だった。美人の特徴って難しいな。遠目からみただけだけど顔貌は整っていたし、美人の雰囲気だった。そして男にコクられたらしく断っていた。そう伝えれば、坂目はますますせわしなく視線を動かす。

「お前の言ってた特徴と同じだと思ったんだけど、ひょっとして違う人?」

「いや……確かに俺の言った通りの見た目だな。でも……」

「俺も絶対それが荻野目さんって確証があるわけじゃないからさ。違う人かも」

「そう……そうだよな、うん」

 坂目はやはり荻野目さんが誰かにコクられるのは嫌なんだろうなと思う。自分では駄目だと思っていても、好きならそういうものだろう。好きな人が誰かにコクられるなんて面白くない。

 けれど、いつもの軽い様子とはずいぶん違う深刻ぶりに少し困惑した。恋路というものは色々あるだろう。そこから坂目とは少しだけ気まずくなって、妙な雰囲気になった。飯に誘おうと思ってもふいといなくなってしまう。仕方がないので他の友だちとつるむことになった。友達は坂目だけじゃない。そうしていると、それら友人からも荻野目さんがよくコクられているという噂を聞くようになった。

 そんなにコクられるって日常生活送れないんじゃないかなと気の毒に思った。

 噂というのは一度俎上にあがるとターゲットからなかなか外れられないらしく、次第に今日は学園通りを荻野目さんが歩いていたとか、商店街でスマホの新機種を眺めていたとか、これはプライバシーの侵害じゃないかと思えるほどのレベルになり、そのどうでもいい意味のない情報の群れは、寧ろ荻野目さんの日常を語ること自体が目的になっているのではないかと思えるほどだ。俺にとってそれらの噂はなんだか怪談じみて聞こえていた。


 そんなある日の英語の授業の終わり、ガラリと扉を開けて入ってきたのは坂目だった。

 その姿にギョッとした。何故なら同一人物と思えないほどやせ細り、目が落ちくぼんでいた。そして坂目をここ一月ほど見かけていなかったことに気がついた。

「お前、大丈夫かよ。一体どうしたんだ。病気でもしてた?」

「いや……それよりちょっと話したいことがあるんだ」

 その声はさらに鈍重で、断れる雰囲気ではなかった。とても心配でもあった。向かったのはやっぱり、学食の隅っこの席だった。まだ一限目の後だから、人はあまりいなくて丁度いい。

「あの、引かないでほしいんだけどさ。俺、虚言癖があってさ」

 坂目の突然の告白に、俺はなんて返すべきかわからなかった。そしてその表情は、嘘をついているようにも思わなかった。虚言癖?

「ちょっと何を言ってるのかわからない。つまりお前は俺に何か嘘をついてたってこと?」

「そう……なんだけど」

 随分はぎれが悪い。

「そんなにひどい嘘でもついてたっての?」

「いや、荻野目奏美のことで……」

 急に肩の力が抜けた。そんなに深刻そうな顔して、荻野目さんのことかよ。

「実はお前が荻野目さんの彼氏だとか?」

 何気なくそう呟いてみて、それはありうるかもしれないと思いなおす。

 彼氏だからこそ軽々しく荻野目さんが誰かにコクられたこと、そしてフッたことを気軽に話していたのかもしれないし、俺が話したコクられた現場については荻野目さんから聞いていなかったからショックを受けたのかもしれない。俺も彼女がコクられてたと友達から聞いたら多少ショックを受けるかもしれない。彼女いないけど。

 けれども帰ってきたのは強い否定だった。

「まさか、そんな筈がない」

「じゃあ、何」

「荻野目奏美なんて人間は存在しないんだ」

「はぁ?」

 意味がわからない。そう思って坂目の目を覗き込んだけれど、やはり冗談のようには思えなかった。

「お前どうしちゃったんだよ。存在しないって言ってもさ。噂を聞くぞ。特に最近」

「でも、存在しないんだ。荻野目奏美は俺の作った架空の人間だから」

「……意味がわからない」

「だろ。だよな。俺もわからないんだよ。存在しない人間の噂が出回るなんて」

「同姓同名の人間じゃないのか?」

 それが一番最初に思いついた答えだった。荻野目奏美。少しめずらしい名前だが、絶対ないと言い切れる組み合わせでもない。けれど坂目は首を左右にふる。

「いるはずがないんだよ。俺は調べたんだから」

「調べた?」

「ああ。神津大学の学生名簿に荻野目奏美の名前は存在しない」

 そのおもいつめた声にぎょっとした。

「なんでそこまで……」

「前も同じ架空の人間の噂を流したと思ったら同姓同名のやつがいたんだ。それで随分トラブルになっちゃってさ。それ以降、同じ名前のやつが近くにいないことを確認して、悪くない噂を流すことにしてる」

「……ドン引きなんだけど?」

 なんでそこまでするんだ。なんでそこまで嘘をつきたい。俺にはさっぱりわからなかった。重いなにかを込めたような視線には、少し狂気が宿っているように思われた。

「つまり荻野目さんっていうのは実在しないはずなんだ」

「いや、そんなこといわれても。俺も噂聞くんだけど」

「俺も聞いたんだ!」

 その言葉尻に食いつくような反応は、少し怖かった。

「だから……すごく怖い」

 その分、坂目が本気で怖がっているのがわかってしまった。

「いや、さ。なんていっていいかわかんないけど、もう気にしなければいいんじゃん? いいじゃんかどんな噂が流れてもさ。架空なんだろ?」

「お前さ、自分が作った架空の人物が近所を歩き回ってるって、怖くない?」

 自分が想像した……? 頭に荻野目奏美とテニス部の誰かのシルエットが浮かぶ。俺が想像した人間なら? それは確かに、気持ち悪いかもしれない。

「でも噂だろ? そのうち収まるよ」

「本当に噂だけなのか?」

「え?」

「お前、見たんだろ? 荻野目奏美」

 まっすぐに見つめられているのに、漫画で例えるならぐるぐるとでもいった擬音が入りそうなほど小刻みに動く瞳は、確かに何かに怯えていた。それで漸く、一月ほど前にそんな女性をみたことを思い出す。

「いやそれだって、そうかなって思ったくらいで、それが荻野目奏美かなんてわからないじゃないか」

「でも、荻野目奏美の噂が出始めたのはお前が荻野目奏美の、つまりその女を見てからだ」

「はぁ? そんな馬鹿な事があるか」

 けれど、思い返してみれば時系列的には確かにそうだ。でもそれにしたってあのカフェテラスでの告白には野次馬がたくさんいたし、だからあの時以降に噂されはじめてもおかしくはない、よな。あれは誰だろうってなるしさ。

「馬鹿なことだよ! 俺も馬鹿なことだと思いたいよ! だから……その人が荻野目奏美じゃないことを確かめてきて欲しい」

「いや、なんで俺が。だいたい『無いことの証明』って無理難題のたとえだぞ」

「おまえしか……いないんだ」

「俺しか?」

「俺もこの一ヶ月、噂を色々調べてみたんだ。お前が告白されてたって言ったその日に、その告白を見たってやつはいなかった」

 そんな馬鹿な。あの場にはたくさんの人間が居て、荻野目奏美を見ていたはずだ。見ていた、よな? だってざわついていたし。ざわついていたのは、単にカフェテラスだから?

 わけのわからなさに、ぞわりと背筋に気持ちの悪い何かが伝う。

「だからその女、いや、コクった方の男でもいい。それで女の名前を聞いてきて欲しい。荻野目奏美じゃないことを確かめたい。荻野目奏美じゃなければそれでいい。それで安心できる」

 ……確かに荻野目奏美ではなく完全に無関係の女性なら、そもそも全部ただの噂に過ぎないって安心できる、だろうか。

「……まぁ、いいけどさ」

 その日から、行き帰りにカフェテラスを眺めることにした。

 眺めるといっても、特にやることはなかった。カフェテラスの外からあの時の女がいないことを確かめるだけだ。そして昼になればカフェテラスで食事する。とはいっても少し高いので、せいぜい週に1,2回くらいだ。それでもあの時の女には会えなかった。

 よくよく考えれば、衆人環視の中でコクられたのだ。俺なら同じところに通う気にはならないかもしれない。けれどもその頃には俺もあの時見た女が気になっていて、未だ流れる荻野目奏美の噂の中で荻野目奏美が立ち寄ったといわれる先を追いかけた。駅前のカレー屋、スカイタワーの香水店、などなど。けれど、結局あの女には会えなかった。

 そのころには坂目はすっかり大学には来なくなっていて、もういいかなと思い始めたころだ。正直、最後に会った坂目の様子もおかしかったし、最近では報告のメールにも既読がつかない。坂目の言うとおり、荻野目奏美は存在しない。何より、噂を運んでくる友人たちも、友人をたどっても、荻野目奏美の姿を実際に見た人間も存在しなかった。つまり、ただの噂だ。

 それに……最近の荻野目奏美の噂には、荻野目奏美を追いかけるストーカーの噂が加わったからだ。自分の行動を客観的に眺めると、確かにストーカーにしか思えなかった。だからきっぱりと止めることにした。そうすると、なんだか時間をバカバカしいことに使って損をしているように思えた。

 そして夏休みに入り、バイトに明け暮れ、後期が始まった最初の英語の授業で俺は固まった。


 席次はあいうえおで決まっている。前期と後期で必修の英語の受講者は固定だ。

 けれども坂目の席には、長い黒髪の女が座っていた。

「あ、あの」

「あら、関口君おはよう。今期もよろしくね」

 そうして振り返ると、その顔はよく見知った顔で、思わず背中を壁にうちつけた。頭の中で見知った顔。話したことはない顔。まさか。そんな。ありえない。

「あんたは、誰だ?」

 その女はきょとんとした顔で呟いた。

「誰って……荻野目奏美に決まってるじゃない」

「そこは坂目浩正の席だ」

「坂目……? 誰それ」

 そしてチャイムが鳴る。坂目浩正のかわりに荻野目奏美がいることを、誰も気にしなかった。担任に尋ねても、最初から坂目ではなく荻野目奏美の席だったと不思議そうに答えるだけだった。そして俺は坂目のことを話すのを止めた。学生名簿に坂目の名前がなくなっていたからだ。まるで最初からそんな人間はいなかったかのように。


Fin

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