人は愛と哀で成長する
ワイシャツ一枚が丁度良い気温になり始めた五月初旬。そうは言っても、こうもずっと太陽の光に照らされていると少しばかり額に汗が滲む。こういう瞬間は毎回嫌になる。己の体力低下を一番実感するからだ。
「……おっせえな、アイツ」
霧葉 翔真は自身のスマホに表示された時間に目をやる。翔真はいつものようにある人物を待っていた。その人物は時間にルーズで待ち合わせ時間前、または待ち合わせ時間丁度に来た事がこれまで一度もない。それ故に昔より忍耐力がついたような気がしなくもない。
それから待つこと五分後、ようやく見覚えのある人影が見えた。やっとか……そう言わんばかりに翔真はため息をついた。
「お待たせー。待った?」
「お待たされだ。蒼依、もう少し早く家を出ろ」
翔真の待っていた人物は同じ高校に通う幼馴染の西野蒼依だった。翔真の母親と蒼依の母親が古い付き合いという事でよく会っていた。それに二人は連れられていた為、二人は幼い頃から面識があった。歳を重ねても二人の距離が離れることは無かった。互いに信頼し合っているからだろう。
二人は同じ歩調で歩き始めた。翔真達の通う啓静附属学園は東京都内有数の進学校だった。翔真は特にこれといった強い思いでこの啓学(啓静附属学園の略)を選んだ訳では無い。単純に学力が丁度良かったからだ。翔真は勉強が並以上に出来ていた。
「ねぇ翔(翔真の愛称。蒼依だけそう呼ぶ)。私どこか変わったと思わない?」
「出たよ、女子特有の面倒な質問」
煩わしさを感じながらも一応、蒼依の容姿に目をやった。服は制服で何か変わった様子は無い、そうなると単純に髪をいじったとかだろう。
「……髪を切ったか?」
「ぶぶー、不正解。正解は特にどこも変わってないでしたー」
なんだコイツ……その言葉を口に出すことは無く翔真の心の中で留めた。その代わりにため息をもらし、呆れた仕草を蒼依にわざとらしく見せた。
長い時間を共有したことは事実だが、翔真と蒼依の性格はほぼ真反対。昔から蒼依はこんな調子で数年経った今も翔真は蒼依の調子に合わせるのに手を焼いている。いつか慣れる日が来るのだろうか。
他愛もない話を挟みながら二人は十分程度で啓学に到着した。
校舎に入り二階まで階段を上ると2ーAと書かれた教室の前で二人は別れた。2ーAは翔真のクラス。蒼依は2ーDだった。
翔真は教室に入り自分の席に荷物を置く。窓側の後ろから三番目、夏場は照らす太陽で暑く、冬場は換気の為に開けている窓から入る風が寒い。何一つとして良いことの無い席だ。
「おはよう五宮さん」
翔真の隣の席、黒の長髪で物静かな女子生徒、五宮 遥は真剣な眼差しでスマホの画面を見つめていた。翔真の声に反応し、スマホから目を離して顔を上げた。
「おはよう霧葉さん。今日はいつもより遅いね」
「え?ああ、蒼依が来るの遅かったからかな」
「中学からだけど、本当に二人って仲良いね」
翔真、蒼依、遥は同じ中学出身で翔真と遥は三年間同じクラスだった。
最初の二人の仲はただのクラスメイトに過ぎなかった。しかし、会話を重ねるにつれてそれは次第に友人へと変わっていった。あくまで翔真が感じているだけで遥がどう感じているかは分からない。
担任の教師が教室に入って来て朝のHRが始まった。
長いようで短い六限の授業を終え、今日も今日とて何の変哲もない学校が終わった。帰路を途中まで蒼依と一緒に辿る。分かれ道で二人はそれぞれ別の道を歩む。
「……そう言えば」
『お母さんもお父さんも仕事で遅くなりそうだから二人でご飯済ませてね』
昼休み、母からメールで送られてきた文を思い出した。分かった、そう返信してスマホの電源を切った。
両親が仕事で遅くなることなんて珍しくとも何ともない。この文から察するに今日は姉が早く帰ってくるのだろう。珍しいのは逆にそっちの方だ。
家に着くと既に姉の車が止まっていた。手に持っていた家の鍵を翔真はバックの中にしまった。久しぶりに誰かがいる家に帰った気がする……そう感じながら玄関の扉を開けた。
「ただいま」
二階に上がって自室に荷物を置いた。階段を下りてリビングに続く引き戸を引いたその刹那、翔真の体に何かが飛び込み、体勢を崩した翔真は後ろに倒れた。
「……何してんの?」
翔真に飛び込んだ何かは翔真の胸に埋めていた顔を上げた。
「おかえりのハグをしようとしたら勢いつけすぎちゃった」
昔浮かべていた作り笑顔とは裏腹に自然な笑顔を浮かべていた。翔真に飛び込んで来た者こそ翔真の実の姉、霧葉 凪紗だった。肩くらいまでのブルーブラックカラーの髪が特徴的な凪紗は俗に言うブラザーコンプレックスだった。一般的な姉弟だった二人だが、ある出来事を境に凪紗は突然としてこのような性格になってしまった。
いつの日か翔真は凪紗の鬱陶しいスキンシップに苦言を呈したことがあったが、凪紗自身、翔真に過度なスキンシップをしているという自覚は全く無いそうで聞く耳を持ってくれなかった。その日以来、翔真は諦めた。凪紗のスキンシップを受け続けたせいか、昔に比べて気にすることが少なくなってきた。
翔真は仰向けの状態で両手で地面を押して体を起こす。その時ようやく凪紗が退いてくれた。
「次から飛び込んで来んの止めろ。姉さんも怪我するか……ら」
翔真の言っていることは一般的に見ても何一つとして間違いない、正しいことを言っている。しかし、それは凪紗への失言だと気づいた。何事も無かったかのようにその場を立ち去ろうとしたが、遅かった。
「私のことを心配してくれてたのね!」
そう言って凪紗は後ろから翔真を抱き締めた。凪紗への優しい言葉は大抵、今のような結果に至る。それが煩わしく、言葉選びは慎重に行っているのだが、最近気が緩んでそれが疎かになりつつある。そもそも、一般的な家庭で家族と話す為に言葉を選ぶ者なんて存在するのだろうか。そう思うと何だか自分がアホらしく思えてきた。
凪紗のハグから解放され翔真は台所へ行き、冷蔵庫の中の食材を確認した。両親が不在ということも確かだが、元より今日は翔真が夕飯当番になっている。当番と言っても父、凪紗を除いた母、翔真の二人で回している。仕事から帰ってすぐに夕飯の支度をする母の姿を見兼ねて当番制を提案したのは翔真自身だった。部活動に所属している訳でも無かった為、都合が良かった。
「私も手伝うよ」
そう言って凪紗が翔真の隣に立った。
「料理出来るの?姉さんが料理してるとこ見たことないんだけど」
「大丈夫よ。料理が得意な職場の人から色んな話聞いてるんだから」
話を聞くだけと実践は話が違う。変な料理が出来上がるのを避けたかったが、準備万端と言わんばかりの表情を浮かべている凪紗を見るとそんな野暮なことは出来なかった。最悪、食べるのは二人だから被害は少ない。
そういう訳で何気に人生初の姉弟料理が始まった。
手馴れた手つきで進める翔真、ふと凪紗に目をやると、困った表情を一切浮かべずに淡々と手を動かしていた。包丁の扱い方も食材の切り方も言うことは無かった。流石に姉を舐め過ぎていたのかもしれないと、翔真は密かに思った。
共同作業だった為、普段より効率的に早く仕上がった。見映えも良く味も大丈夫だと思う。いざ一口食べて見ると、何故か普段より味に深みを感じた。調理法などはいつも通りだったはず。
「姉さん、これに何か入れた?」
そう言うと、凪紗は少し驚いた表情を浮かべていた。
「凄い、気づいたんだ。先輩に教えて貰った隠し味をちょっとね。美味しくなかった?」
「いや、いつもより美味しく感じるよ」
「本当?良かった……あ!そうだ。翔真にお土産あるんだ~」
そう言って凪紗は席を立ってリビングを出て行った。階段を上る音がした。そのお土産とやらは自室に置いてあるのだと分かった。一階が静寂に包まれている為、二階の音がよく聞こえる。少し経ってから凪紗は階段を下りてリビングに戻って来た。
「……何それ……もしかして、全部お土産?」
「もっちろん!こっちのはお母さん達にだけど、こっちは全部翔真のだよ!」
凪紗は数え切れない程の紙袋を手にリビングへ戻って来た。
「旅行かよ」
「一応、ちゃんと仕事で大阪に行ったんだからね?」
食後、二人はお茶を飲みながら雑談をした。
「それにしても、翔真とこうやって話すの何だか久しぶりだな」
「言われてみれば」
翔真が起きる頃、凪紗はとっくに仕事に出かけている。翔真が寝ようとした頃、凪紗は帰ってくる。そんな多忙な日を送り続けても尚、弱音を吐かずして真剣に仕事に打ち込んでいる姿は、二重人格を錯覚させる程に翔真の目には別人に映っていた。
お茶を啜っていると、凪紗は欠伸をした。
「……眠くなってきちゃった」
「片付け俺やっとくから姉さんはもう寝てていいよ」
「……いや、私もやるよ」
何故か凪紗は頑なに休もうとしなかった。それどころか今度は「翔真は休んでていいよ」になった。両者ともに引かず、結局二人で後片付けをすることになった。
後片付けが終わって風呂に入り終わった後、リビングに向かうと、椅子に座って机に伏せて眠っている凪紗の姿があった。凪紗が眠気を堪えてまで後片付けをした理由が何なのか分からなかった。単なる自分もやったから最後までという責任感だろうか。
「姉さん、姉さん。こんな所で寝てたら風邪引くよ」
翔真は凪紗の体を優しく揺すったが、起きる気配が全くなかった。凪紗が風邪を引いてしまうとそれなりの迷惑がかかるかもしれない、そう思った翔真は凪紗の自室まで凪紗を運ぶことにした。
翔真は凪紗を軽々と持ち上げると、頭を壁などにぶつけないよう慎重に運んだ。慎重に進みすぎたか多少の時間はかかったが無事運ぶことに成功した。
優しく布団をかけ電気を消して翔真は部屋を出て行った。




