緋色の意思 【後編】
(ああ……、早く……皆のところに行かないと……)
フェイの意識は混沌の中に沈みかけていた。瓦礫に打ち付けられた衝撃で全身が悲鳴を上げている。視界は霞み、遠くなる意識の中で――過去の記憶が突如として甦ってきた。
一番古い記憶。それは母の寝顔だった。いつも窓際のベッドに横たわり、陽光に照らされた肌には不吉な青紫色の斑点が浮かんでいた。医者は来ず、薬も買えなかった。貧民街の片隅で借りた粗末な小屋が私たちの世界のすべてだった。
「働けと言ったのに、また倒れやがって!」
声の主はいつも怒号を浴びせてきた男だ。家賃を滞納し続ける私たち親子に部屋を貸し続けてくれる奇特な人物――少なくとも表面上は。その実態は、倒れた母に罵声を浴びせ、幼いフェイにパン一切れを投げつけるような男だった。
「もう少しで……治りますから……」
母はか細い声で弁解するのが精一杯だった。斑点は日に日に増え、寝る時間が増えた。それでも起きれば笑顔で「大丈夫よ」と言う母の顔――嘘をつく時の顔だと幼いフェイにもわかっていた。
あの日もいつものように怒鳴り声が響いた。
「今日も何も稼げなかったのか!お前の娘も売り飛ばすぞ!」
男の声が近づく。母が庇うように布団を被ったその時――、ドアが蹴破られた。
木屑が舞う中、入ってきたのは大柄な男だった。その風貌に覚えはなかった。母は恐怖に震えながら布団から顔を出す。
「な、なんだお前は!」
貸主の男が吠えるより速く――その男は拳を振るった。鈍い音と共に男の体が吹き飛び、壁に激突して崩れ落ちる。驚きで言葉が出ないフェイの前で、男は母の枕元に跪き何かを語りかけた。その内容は幼すぎて理解できなかったが、母の目尻に溜まった涙が月明かりに光っていたことだけは覚えている。
「行くぞ」
突然伸ばされた大きな手。母との別れを悟ったフェイは全力で暴れた。
「嫌だ!行かない!お母さんの傍にいる!」
爪を立てて抵抗するが、その手はびくともせず温もりを伝え続けるばかりだった。
次の瞬間――地獄の光景が広がった。後方の壁が崩れ、燃え盛る炎が夜空を赤く染める。轟音と共に館全体が火柱となって立ち昇っていく。母の寝室があった方角を振り返ると――燃え尽きていく建物だけが見える。
――そして私は師匠に連れ去られた。
燃え盛る館を背に振り返るたび、なぜか師匠の顔が網膜に焼き付いて離れない。鉄のように険しい顔が濡れている。彼の頬を伝う水滴――それが涙だと理解するまで時間がかかった。弟子入りして以来十年近く共に過ごしてきたが、師が泣く姿を見たのは後にも先にもあの瞬間だけだった。
『忘れるな』
ジークの声が頭蓋の奥で谺する。
『お前の母はお前のことを最後まで守り切った戦士だった。だからお前もアイツのように大切な人を守れるような戦士になれ』
「さて、結構楽しんだし、終わらせましょうか」
トルメスが嘲笑うように口元を歪め、右手に握った短刀を振り上げた。研ぎ澄まされた刃が仄暗い廃墟に銀色の弧を描く。風を切る音と共に短刀がフェイの心臓めがけて降り注ぐ。だが——
次の瞬間。
「!?」
短刀が触れる寸前、フェイの全身から爆発的な熱波が迸った。視界を白く染めるほどの閃光と共に、螺旋状に噴き上がる灼熱の炎が天井を焦がす巨大な火柱となり、辺りの瓦礫を溶かし尽くす。
「ぐっ……!?」
トルメスは反射的に後方へ跳躍する。だが回避は間に合わなかった。熱波に煽られ制服の裾が焼け焦げ、頬に火傷の痕が刻まれる。足元のコンクリートが飴のように溶解していく。
(これは……媒体なしで発動した魔力?しかも尋常じゃない出力だ!)
混乱する暇もなく、炎の壁から突き出した巨大な火炎の拳が眼前に迫っていた。
「くっ……!」
咄嗟に鞭を盾のように展開する。拳と鞭が激突し、衝撃波が廃墟全体を揺さぶる。鞭は紙屑のように引き千切れ、トルメス自身も猛烈な勢いで吹き飛ばされた。背中から瓦礫の山に叩きつけられたトルメス、肋骨が軋む音を聞きながら息を呑む。
(一体何が起きたの……?)
炎の柱が徐々に収束していく。その中心に立つ影は——
「……え?」
トルメスは刮目した。そこに立っていたのはもはや瀕死の少女ではなかった。結われていた長い髪はほどけ、緋色の焰が毛先まで燃え広がっている。普段は控えめだった双眸は焔のように輝き、瞳孔が緋色に染まっている。その表情は何かを覚悟したように静謐でありながら——全てを燃やし尽くさんとする激情を孕んでいた。
「【ライフブレイカー】」
フェイの唇が動く。声はかすれていたが、確かな意志が込められていた。
「ああ、知っているわ。その緋色の瞳……。かつて滅んだ戦闘特化の民族が宿していたとされる【緋色の眼】ね」
トルメスは瓦礫から立ち上がりながら舌打ちする。焼け焦げた制服の袖を引きちぎり、拳を構えた。
「確か生命力を消費することで絶大な魔力を得る禁忌の魔法だったわね。まさか生き残りがいたなんて驚きだわ」
フェイは答えず一歩前に踏み出す。靴底から火花が散り、足跡が熔けたガラス質に変わる。
「でも……そのダメージで長くは持たないわよ」
トルメスが嘲笑を浮かべる。実際に、フェイが今立って歩いていること自体が奇跡だった。内臓は損傷し、血管は破裂寸前のはずだった。それでも彼女は真っ直ぐトルメスを見据えていた。
「……関係ない」
フェイの声が廃墟に響く。緋色の瞳が炎を映して妖しく揺れる。
固有魔力とは宿す者の生命力そのものであり、固有魔力が無くなるということは生命の終わりを意味する。故に本来であれば固有魔力は一定の基準を超えないように無意識でセーブをかけるため過剰に使うことはできない。だからこそ、固有魔力で補えない部分をマナで代用するのである。だが【ライフブレイカー】はその基準を解除し、固有魔力を無理やり呼び起こす魔法であり、それによって引き出された魔力出力は、彼女の師であるジークの魔力出力と瞬間的に同等まで引き上げられる。文字通り命を削る諸刃の剣ある。
「今、私は仲間のためにこの場に立ってる……。何より、大好きな師匠のために……。だからテメェなんかに構ってる暇はねぇんだよ!」
フェイの掌に渦巻く業火が凝縮される。魔力はもはや彼女の形を越え、小さな太陽のように眩い輝きを放っていた。
「ふん、面白いわね。じゃあ我慢比べでもしましょうか!」
トルメスが瓦礫を蹴り猛スピードで間合いを詰める。だが次の瞬間──、フェイが視界から消える。否、爆発的な加速で瞬時に移動したのだ。気がついたときにはトルメスの顔面に灼熱の拳が迫っていた。
「【竜の弾拳】!」
轟音と共にトルメスの体が斜め上へ吹き飛ぶ。天井に叩きつけられ落下する刹那——すでにフェイは空中へ跳躍していた。炎の尾を引く踵が月光の下で閃く。
「【竜の旋脚】!」
トルメスの胸部に垂直に叩き込まれた蹴りは爆音と共に炸裂し、彼女の体を一直線に瓦礫の壁へ叩きつける。粉塵が舞い上がり崩壊する建造物の雨が降り注ぐ。
フェイは着地すると、膝をついた。吐血が石畳を朱に染める。一連の攻撃はすべてトルメスの【共有】によってフェイにダメージが反映されていた。しかし、彼女の瞳は依然として緋色の炎を灯し続けている。
(まだ……まだだ!)
フェイは顔を上げると、崩れた瓦礫の中からトルメスが現れる。粉塵を掻き分け現れたトルメスは額から血を流しながらも不敵な笑みを浮かべていた。
「素晴らしいわ‼もっと‼もっとヤりましょう‼」
トルメスが叫ぶ。その声は喜悦に満ちていた。まるで遊びに夢中になっている子どものように目を輝かせている。その瞳には狂気が宿っていた。フェイは答えない。ただ静かに構えを取るだけだった。
(多分、次で最後……、だから有りっ丈を……ぶつける‼)
フェイの全身から緋色の炎が再び噴き上がる。それは生命そのものを燃料とした最後の咆哮だった。
「あはははははっ!やっぱり貴女は最高よぉっ!!」
トルメスが哄笑と共に突進する。もはや鞭は使わない。素手で殴りかかり、フェイの動きを封じようとする。その眼は爛々と輝き、狂喜に歪んでいた。
(来る……!)
フェイは呼吸を合わせる。トルメスの拳が鼻先を掠める寸前――
「奥義……!」
最小限の動きで躱し、反撃の肘打ちを脇腹に叩き込む。衝撃でトルメスの体が僅かに泳ぐ。そこへ間髪入れずに足払い。体勢を崩したトルメスの顔面へ向け、渾身の炎を纏った拳を叩き込んだ。
「【緋炎乱舞】!」
フェイが師であるジークから教わった【竜人拳】は、一撃必殺を旨とする剛の拳でありジークの身体能力を持ってその破壊力を発揮する。だが彼女の身体は師に到底及ばなかった。故に彼女は独自に連撃として極限まで洗練させ、奥義へと昇華させていた。
燃え盛る拳の嵐がトルメスの全身を襲う。殴るたびに爆炎が上がり、周囲の空気が焦げ付く臭いを放つ。一撃ごとに【共有】よってフェイの肉体も削られていく。内臓が悲鳴を上げ、視界が白く明滅する。それでもフェイは止めない。全てを焼き尽くす勢いで乱打を繰り出し続けた。
時間にして数十秒、爆音と共にトルメスの体が後方へ吹き飛ばされる。そのまま瓦礫の山に突っ込み、大量の粉塵が舞い上がった。フェイは膝をつき肩で荒い息をする。口元から零れる血泡が地面を汚す。
(終わった……?)
しかしすぐに甘い期待は打ち砕かれた。粉塵の中からゆらりと影が立ち上がる。それは紛れもなくトルメスだった。服はほとんど原型を留めておらず血塗れだ。片腕は明らかに折れている。それでも彼女は――立っていた。
(まだ立てるの……⁉)
フェイは歯噛みしながらも立ち上がる。もはや体力は残っていない。だがここで決めなければならない。最後の力を振り絞り足を踏み出す。
「とどめを……!」
だが――その瞬間。
ゴポッ。
フェイの喉奥から夥しい量の血液が溢れ出した。視界が急速に狭窄していく。体から力が抜けていく。フェイの肉体は【ライフブレイカー】すら維持できない程に限界を迎えていた。緋色の焰が幻のように霧散し、元の瞳に戻ってしまう。
(しまった……!)
その致命的な隙をトルメスが見逃すはずがなかった。フェイとの距離が一瞬で詰まる。踏み込みの足が床を強く押し、全身が前へと弾かれるように走り出す。利き腕はすでに折れている。故に胸と腹、そして肩――上半身そのものが一つの塊になって前へ突き出される。肩がわずかに前へせり出し、背中から腰までの筋肉が一気に収縮され。体重と加速が一点に集まり、肩が槍の穂先のように相手フェイの上半身へ突き刺さる。
「ッガァァァ⁉」
腹部に凄まじい衝撃を受けたフェイは悶絶しながら後方へ吹き飛ばされた。そのまま後方の瓦礫に叩きつけられ力なく倒れ込み、完全に意識が途絶える。
「ハァ……ハァ……」
トルメスは息を切らしながら倒れたフェイを見下ろす。
「あーあ、久ぶりに熱くなっちゃった。」
興奮冷めやらぬ様子で血塗れの顔に恍惚の表情を浮かべる。しかし、その声は明らかに罪人に対してではなく一人の戦士に対しての敬意を含んでいた。
「私ももう限界……。ここまで私を追い込んだのはヴァルと、団長以来かしら……。罪人の中にも貴女みたいな人がいるのね……。」
血だらけの指先でフェイの頬を優しく撫でる。その眼差しは慈愛と欲望がごちゃ混ぜになった歪んだものだった。
「ああ……愛おしい……。ヴァルには怒られるかもだけど、今はもう少しこうしておきましょう」
瓦礫の山の上で、一人の女が恍惚とした表情で血まみれの少女を抱きかかえ横に寝そべるのであった。
まだこの章は続きます




