10-3 影女
死んだように眠り続ける萌を家に残し、彼氏と家を出た。元旦那から貰った金で彼氏と一緒に飲み歩こうと思ったからだ。
一軒目の居酒屋でビールを頼み、料理が運ばれてくるのを待つ間、彼は私の愚痴をじっと聞いてくれている。
愚痴といっても元旦那と萌についてが殆どだ。
しかし、いつもは調子よく私の悪口に合わせてくれる彼なのだが、今日は少しだけ様子が違っていた。
近頃はまともに顔も見ていない、娘の萌について話したときの事だった。
「あんな奴の遺伝子継いでると思うとさ、顔見ただけで吐きそうになるんだよね」
「マジか…俺、お前との付き合い考えよっかな…」
「…え、何ソレ」
いやいや、求めているのはそういうクソ真面目なリアクションじゃないから。アンタだっていつもは『お前に似なくて残念な顔だもんな』なんて言ってくれてたじゃんよ。
そんな私の様子などお構いなしと言った様子で彼は正論を吐き続けた。
「元とはいえダンナに『顔見ただけで吐きそう』とかさ…酷くね?自分が選んだ相手でしょ?…もしこの先を考えちゃうとさぁ…お前と一緒になってもいつか俺とか俺の子供がそうなると思っちゃうよね…」
え…いつの間に真面目な展開になってたの?どこか頭打ったか?
「うん――やっぱ無ぇわ」
そして彼は「じゃあな」と言って立ち上がり、さっさと居酒屋を出て行ってしまった。どこかに鈴でもブラ下げていたのだろうか、歩みに合わせチリンチリンという音が耳に残った。
急な出来事だったのでしばらくは何が起きたのか理解できずに独りで飲み続けていたが、虫の居所でも悪かったのかと思い、私も店を出ることにした。だが、居酒屋での支払いが半分も支払われておらず、店の外で待っている様子も無かった事でようやく現実を見る事が出来た。
「何よ!今まで散々奢らせておいて、邪魔になったら難癖つけて逃げんのかよ!飲み代くらい払っていけっての!」
店先で声を上げて看板を蹴り付けた。通行人が私の方を見ていたが、睨みつけてやるとすぐに尻尾を巻いて逃げていった。
しかし、こんな事を言うような男じゃなかったと思っていたのだが…それに萌を“しつけ”と言って殴ったりし始めたのはお前が最初だろうに。
元ダンナの顔に似た萌が、私に怯える顔を見せる。それが爽快で、ゾクゾクするような快感を覚えたのだった。しかしそうやって楽しんだのも数ヶ月。今ではすっかりおとなしくなって、一日中寝ているだけになった。餌もどこかで勝手に食っているだろう。
興味が持てなくなってしまったんだから仕方がない。
萌はアイツの娘であって私の娘じゃあない。養育費と子供手当ての付属品なんだから。
本当はあと2,3件ハシゴして気持ちよく帰りたかったが、すっかり興醒めしてしまった。しかし家に帰って一人で居るのもつまらないので、結局もう一軒行く事に決め、細い路地を歩いていたときの事だった。
街灯に照らされて道路に落ちる私の影が不自然に大きい事に気がついた。
左手の側に何かがいる。
彼が後を尾けているのかと思い振り返ったが、そこには誰も居なかった。私の他に道に影を落とす程に大きなものは何処にも見当たらなかった。
見間違いか。そう思いながらも視線を落とし、もう一度自分の影を見る。
私の左手の影。何も持っていない筈の左手。その先に小さな影が――影だけが。
子供の様に小さな人影が、私の影と手を握っているのが見えた。
なんだこれ。飲み過ぎたのか?
自分の足元を見回すが、何度見ても私の周りには誰も居ないし、何も無い。
その時、影が動いた。
左手の影を掴む反対の腕で、私に向かって手を振ったのだ。
私は自分の左手の先を見た。しかし何も居ない。誰も私の手を握ってはいない。
ならば、私に向かって手を振っているこの影は何だ。
悲鳴をあげながら路地を駆け抜け、繁華街の通りに出た。
およそ静寂とは程遠い雑踏の中で、膝に手を置いて息を整える。通行人達は、迷惑そうな目を向けてきたり心配そうに覗き込んでくる人もいたが、誰も声をかけてこようとはしなかった。
それはいい。けれど何故。
私の左側だけ大きくスペースを開けて避けているのだろう。
まるで――そこに誰かがいるかのように。
下を向いて荒い息を整える私と、アスファルトに落ちる通行人達の影。その中に。
小さな影が私の隣で。
私を覗き込むように背を丸めていた。
逃げなきゃ。
賑やかな通りの中を通行人にぶつかりながら走り回った。
光が無きゃ影は出来ないと思った私は、狭い路地に駆け込んだ。
隅の暗がりに置いてあったポリバケツをひっ掴み、中身を気にせず頭から被ると路地の陰にしゃがみ込んだ。
これで――これなら影は出来ないだろ。
けれど。
ずっと奥まで来た筈なのに。暗いところで光を遮っている筈なのに。
被ったポリバケツの向こうが、ほんの少しだけ明るく見えている。
それに気が付いた時だった。
被ったポリバケツに淡い人影が落ちた。
目と鼻の先。すぐそこに。
小さな人影は両手を広げ、私を包み込もうとしていた。
「寄るなあぁぁっ!」
私は被ったポリバケツを掴み、影の立つ場所へと投げつけた。
けれどそこには誰も居ない。
視線を足元に向けると、ほんのりと照らす遠くの明かりで淡い影が落ちている。
私の左手には、またあの影が手を繋いでいた。
もっと奥――光が差し込まないような真っ暗闇に逃げれば消える。
そう考えた私は、明かりの消えた地下店舗への階段を下りだした。
真っ暗な階段を何度も転びそうになりながら駆け下り、一番奥の暗闇でしゃがみこむ。
これで私に付き纏う影は居なくなった。そう思い、安堵の溜息をついた時だった。
『私を包む闇――これも影なんじゃないのか?』
そう思った瞬間、上下左右、全ての暗闇から私を見つめる視線を感じ、衝動的に走り出していた。
こわい。
闇が――影がこわい。
何で付いてくるの?何で私なの?
気が付くと、繁華街の大通りに出ていた。
行き交う通行人が私を見ている。通行人の影が私の影と交差する。
みんなが私の影を侵してゆく。
お前も、そこのお前も――
私の影に繋がるな。
フラフラになりながらも私は声を上げ、手を振り回して周囲の人を追い払った。
けど――まだだ。
大通りの通行人を薙ぎ倒し、人の歩いていない路面に出た。
これで――
「――朋香?」
何故か目の前に居酒屋で別れた筈の彼がいた。
「な――何してるの?」
「影が――小さな影が追ってきて離れなくて…」
「影?…それってまさか――」
突如、道路に影が大きく伸びた。後ろから強烈な光が私を照らし――私と彼の影を道路に落とした。
私と彼の間には、私達と手を繋ぐ小さな影が居た。
私を照らすな。影を作るな。
そう声を上げながら振り返ると――
目に入ったのは、大きなトラックの鼻先だった。
「小夜鳴市の繁華街で男女が大型トラックに轢かれるという事故が起きました。目撃者の証言によると、二人は自分から道路に飛び出していったようであり、また、女性の自宅からは幼児の変死体が発見されている事から、警察は事故との関連があるものとして捜査を続けています…」
警察署に設置されたテレビでは早速、妻の事故について報道がされていた。
元妻は狂ったように道路に飛び出し、そこで彼氏と一緒に、前方不注意のトラックに轢かれたのだという。私も警察から事情を聞かれたが、当日の出来事や何ヶ月も面会を拒否されていた事を伝えるのみで済んだのだ。
事情聴取を終え、最近新しく建設された警察署を出た私は、夕暮れの道を家路についていた。
背中から照らす夕陽が、私の前に大きな影を落としている。
そんな私の右手に。
誰かが一緒に手を繋ぐような影を落としている。
まさかと思い、下ろした右手の先を見るが、当然誰も居ない。
けど――けれど。髪を二つに結ったこの影を見間違えるはずが無い。
「お迎えに来てくれたのかい?――萌」
私がそう言うと、私の影と手を繋ぐ小さな影がこちらを向いて頷いた。
「ありがとう――じゃあ、一緒に帰ろうか」
そう言って私が歩き出すと、小さな影も一緒に歩き出した。
もう繋いで歩く事の出来ない、萌の小さな手。けれど萌の影が私の影と並んで歩いている。私は溢れる涙をそのままに、黙って歩き続けた。萌の影もまた、黙って私の影と手を繋ぎながら歩いていた。柔らかさも、温もりも感じられないけれど。
そして夕陽はどんどん傾いてゆき、私と萌の影も背を伸ばしながらゆっくりと薄れだした。
そして、とうとう家の前に着いた。
「――うちに来るかい?」
私はそう声をかけたが、小さな影は首を振ると、『バイバイ』とでも言うかのように手を振って、私の影と握った手を離した。
そして、誰も居ない道をゆっくりと遠ざかってゆく娘の影法師を、私は日が暮れても尚そのあとを探すように見つめ続けていた。




