9-3 死神
「…いつまで入院せねばならんのだね?」
高価そうな調度品の置かれた室内では場違いのようにも見える医療用ベッドの上、あぐらをかいて酒を呷りながら、飯塚幸三は部屋付きとなった経産省の現役官僚に愚痴ていた。
「まだ世論が落ち着いていません」
事務的に。抑揚を押さえた機械的な口調で現役官僚がそれに答える。
「分かっているよ――愚痴だ愚痴」
胸骨を骨折し入院、という名目にはなっているが、実際は身体の何処も骨折なんてしていない。
そもそも私の様な人間が、大衆のやっかみなどいちいち気にする必要など無い。その筈なのに。しかし批判の矛先が向けられるのは現役の官僚達だという事を考えれば、無駄な世論を気にする必要も出てくるのであろう。
だが――気に食わない。
「ネットの世論では『何故逮捕されない』と非難の声が噴出しています」
私の気持ちを理解していない若い官僚は、そんなくだらない事まで報告してくる。
「なにが『ネットの世論』だよ。そんなもの、現実には何も影響しないじゃないの。テレビで取り上げなければ、彼らには『存在しない』ものと変わらないんだからさぁ」
「…近日中に新しいゴシップネタを公表させて、大衆の眼をそちらに誘導するよう調整します」
「頼んだよ。オーケストラのコンサートが間近なんだ」
「ではその前に市内のホテルに移れるよう調整します」
その解答に満足し、今日はもう帰りなさいと促した。
やっと――自由か。
この私が逮捕などされる訳がないのに。
しかし、正義漢を気取る連中に街中で石を投げられるのも癪に障る。それを考えると身を潜める必要性と言うのも、多少ではあるが理解は出来る。
内山田くんが会長をしているから、と付き合いで買った大衆車であったが、『君の所の車が暴走したからこんな目に逢ったのだ』と、後で文句の一つも言ってやらねば気が済まない。内山田くんの慌てふためいて汗を流す顔を思い浮かべると、今から楽しみである。今夜はよく眠れそうだ。
だがその夜。息苦しさに目が覚めた。
水でも飲もうと身体を起こそうとして、そこで指一本動かせない事に気が付いた。初めての出来事だが、論理的に考えれば、身体だけが眠っているのだろうという結論に辿り着ける。こんな所に長居し過ぎたストレスだろう。
辛うじて動かせる目だけで部屋の中を見ていると、部屋の隅に誰かが立っているのが見えた。
子供だ。
スーツを着た生意気そうな子供が部屋の隅に立っていた。右手には太い――けれど大分短い蝋燭を乗せている。
生意気そうな子供は私を見て、言った。
「あと――五日」
その顔に似合わぬ年老いた声に、自分の意識が吸い込まれるような感じがして――気が付くと朝を迎えていた。
その日、経産省から来た官僚が私の退院予定日を、あと五日と知らせてくれた。
夢の報せだったのだろうか。それにしては薄気味悪い。
その日の夜。息苦しさに目が覚めた。
はて。前にもこんな事が――あぁ、つい昨日のことじゃないか。
もしかしてと思い室内を見回すと、再びあの――子供がいた。
蝋燭の幽かな灯りに子供の顔が浮かび上がっている。右手に携える蝋燭は、前より心なしか短くなっている様だった。
その子供の背後――その闇に。
薄暗く、明瞭とは見えないが――目だ。闇の中に、私を射抜くような目が八つ。
「あと――四日」
そしてまた、年老いた声に吸い込まれるように――気が付くと朝を迎えていた。
「昨夜、誰か私の部屋に来たのかい?」
朝、病室を訪れた部屋付きの官僚に聞いてみた。
「いえ、面会終了時間以後は伺っておりません」
では、昨夜の子供はやっぱり夢――明晰夢という代物か。それにしても二日続けて夢に見るとは。睡眠不足という感じはしないが、気分の良いものではない。今日こそはゆっくり眠りたかったので、睡眠薬を処方して貰い、服用して眠りに就いた。そのお陰でいつもよりするりと眠りに就く事が出来た。
その筈なのに。また息苦しさに目を覚ましていた。
右掌に蝋燭を乗せた、黒いスーツ姿は青年のそれとなっており、私の足元にまで近付いていた。左手には洒落た細工が美しい杖を握っている。
「あと――三日」
またか。蓄積されたストレスが生み出しているとはいえ、連日出てこられては堪らない
「い…ぁげ…いし」
『いい加減にしろ』とどやし付けるつもりが、漸く搾り出せたような声しか出なかった事に自分で驚く。
青年は足元に立ったままで私を見下ろし、口の端をぐにゃりと持ち上げ、笑った。
「こいつぁ随分と威勢がいい…さては夢とでも思っているのかい?」
男はそう言って私の頭を杖の柄で小突きはじめた。
ごつりごつりと頭の中に音が響き、目の覚めるような痛みが――というか夢の中なのに本当に痛い。
「まぁだ夢だと思ってんのか?さっさと目を覚ましな」
青年は相変わらず私の頭を杖で小突いている。
この痛みは夢じゃない。夢じゃないのなら――対応は可能だ。私の足を引っ張り、問題を大きくすることで喜ぶ輩が存在する。それだけの事だ。
私の足を引っ張って喜ぶ奴らに主導権を握らせるわけには行かない。夢なら対処は難しいが、現実というのなら話は別だ。
「君は誰だ?」
誰何の声に臆する事無く、男は私を見つめ、言った。
「俺かい?――――死神だよ」
地の底から響いてくるような、搾り出すような――老いた声。
「し、死神?くだらない冗談は止したまえっ!」
何処の世界に――いや、この世界のどこに死神が存在すると言うのか。実にくだらない。だが、死神を自称するこの男は、私の注意を無視して話を続けた。
「あと――二日」
掌に乗せられた蝋燭の炎が弱々しく揺れる。その揺れを見ていると――魂というものが有るとすれば、それが揺さぶられる様な錯覚を覚え――気が付くと朝を迎えていた。
全く――気に食わない。
しかしあの男は何の目的があってこんな迂遠な手口を使ってくるのだろう。
――私を怖がらせようと言う積もりなのだろうか。罪の意識を持たせようとでもしているのだろうか?
くだらない。死神と騙れば恐れ戦くとでも思っているのか?
想像上の化物などよりも同じ人間、特に高級官僚と呼ばれる生物の方が余程化物地味ている。
つまり、私こそが化物だ。
どうせ今夜も来るのだろう。だったら逆にこちらから仕掛けてやろうではないか。
その日は経産省の官僚も早々に帰し、食事も摂る気になれず独りで夜を待った。
眠らずにソファに腰掛け待っていると――
部屋の隅に老人が立っていた。掌には今にも消えそうな蝋燭を乗せている。見掛けは何度も変わっているが、中身は同じ――何故かそんな気がした。
「お前達は一体何なのだ?随分と手の込んだ嫌がらせをしてくれる…誰の差し金だ?」
こちらから声を掛けると、老人は呆れた様に溜め息を吐き言った。
「死神だと説明したろうが――これでもまだ…分からんのか?」
自らを死神と名乗る老人の背後。その暗闇に浮かんでいた眼が、ずいと近付いた。
その顔は――
ある者は顔の肉を削り取られ。
ある母子は潰され、砕かれ。
ある青年は前頭部が大きく窪み。
どの顔も血と脳漿に塗れ、激しい憎悪の眼差しを私に向けていた。そのあまりにも敵意に満ちた眼差しに思わず悲鳴をあげて後ずさる。
「ひぃっ!な、何だこいつらはっ?!」
ゆっくりと――死神が歩み寄ってくる。
「――お前さんが車で轢き殺した人達だ。会うのは初めてだろうな」
右手には燃え尽きそうな蝋燭を乗せ。
「あ、あれは私が轢いたんじゃないっ!私は何もしていない!」
「――そうだ。お前さんは轢かれた人達を助けようともせず、保身に走った」
多くの怨みの眼差しを従えて。
「あ、当たり前だろう!私の様なエリートがこんな――あってはならない事だった!」
「――この人達とお前さんは違うってぇのかい?」
地の底から響いてくるような声で。首を傾げ聞いてきた。
「当たり前だろう!こいつらが国に何の貢献が出来る?こいつらは私の様なエリートのお陰で生活出来ている穀潰しだろ!」
導く者と導かれる者には大きな違いがある。それが分からない者には、ヒトの上に立つ事など出来はしない。
だが、死神を称する老人は、
「――あたしにとっちゃあ、みいんな同じ蝋燭だよ」
と、訳の分からない喩えを出してきた――蝋燭だって?
何かの例えだろうかと考えていると、老人は掌に乗せた蝋燭を私の目の前に差し出した。
「これはお前さんの命の炎。この蝋燭は――お前の寿命だ」
蝋燭が寿命だって?よく『命の炎』と言ったりはするが、そんなものは喩えでしかない。
けれど――
「もし、ここでお前さんがこの命の炎を自分で吹き消すってぇなら――そのまま楽に死なせてやっても構わねぇぞ」
俯き加減で上目遣いで、私の事を嘲笑うかのように可笑しな事を言う男。
「バ…バカにしているのかっ?誰が貴様の思い通りになるものかっ!この私を人殺し扱いして…名誉毀損で訴えてやるからな!」
私はそいつを指差して非難を浴びせた。
だがその男は怯むどころか――ニヤリと笑ったのだ。
その顔を見た私は、私の身を包むこの感情が理解できず、ただその場で身体を震わせながら、この感情が通り過ぎる事を待つしか出来なかった。
「遺された怨みは祟りとなって、お前さんの寿命を奪い尽くすよ」
つう、と滑るように部屋の隅に下がってゆく――死神。伏せた顔から眼だけで私を見て、
「あと一日――」
覚悟しときな。
そう言い残すと、私の目の前から姿を消していた。
そして気が付くと――朝になっていた。
まるで先程まで目の前で話し合っていたかのように、まだ心臓が激しく脈打っている。己の両肩を抱き、震える身体を押さえつける。
あの顔は――
まるで死そのもので――
こんな気持ちは初めてだ。
だが、その気持ちを口にしては負けを認めた事になる。
飯塚孝蔵は必死に自分の肩を抱きしめ、震えの止まらない体を無理矢理に押さえ付けていた。
そうだ。
今日は退院の日だ。
早くこんな病院は退院してしまおう。ここを出てホテルに入ってしまえば部外者は立ち入り出来ない。
弱気になってどうする。何日もこんな所に居て気が滅入ってるだけだ。あんな巫山戯た脅しなんぞに騙されてなるものか。怯えたり謝ってしまえば私が非を認めた事になる。それだけは出来ない。エリートが庶民に頭を下げるなど――あってはならない事なのだ。
カーテンを開くと眩しい朝日が心地良く身体を貫いてくる。私はシャワーを浴びて、強制的に気持ちを切り替えることにした。
十時きっかり。部屋のドアがノックされる音が聞こえた。
「お迎えにあがりました。お召し物を着替えて頂きます」
無機質にそう言って官僚の青年が取り出したのは――灰色の作業着だった
「どうしてだね?」
顔を顰めて尋ねると、
「裏の職員用玄関から外に出るのです。そんなスーツを着て出たら悪目立ちします」
と言われてしまった。だが、ホテルに着くまでの辛抱ですと言われて渋々承諾した。
作業着に着替え、職員用玄関から久しぶりの外に出る。建物の裏手、一般用駐車場が目の前に広がっている。日差しが眩しすぎ、目元を手で覆ってしまう。
その時だ。こちらに向かってゆっくりとバックしてくる車が目に入った。
これは私が乗っていた物と同じか――
そう思って眺めていると、車は急に加速し、車輪留めを乗り越えて私へと一直線に向かってきた。
そのまま病院の壁に押さえつけられ、病院の壁と車の後部に挟められる形になってしまった。挟まる程度で済んだのは、車輪留めが車体の底に引っかかっていたからだろう。
それでもアクセルを踏み続けているのか、私の身体は次第に壁へと押し付けられてゆく。
周りで他の病院職員や現役官僚達が運転手に向かって何やら叫んでいるようだが、何を言っているのかなんて殆ど気にならなかった。何故なら――
私を壁に押し付ける車。その屋根の上。
見慣れたスーツを着た骸骨が、今にも消えそうな蝋燭を手に乗せて立っていた。
『病院を出れば大丈夫――とでも思ったかい?』
聞き覚えのある声で、目の前に立つ骸骨がカラカラと笑う。
「た、たすけ――」
何とか声を絞り出し、目の前の存在に助けを求めて手を伸ばした。だが、
『何人も殺しておきながら罪の意識すら持たない男が――何言ってんだい』
伸ばした手は虚しく空を掻いていた。
『けれども魂は平等だ――お前さんにもう一度だけチャンスをやろう』
骸骨――死神はそう言って、蝋燭を乗せた手を私の鼻先に差し出した。
『これが最後だ。この蝋燭の火を吹き消す事が出来たら――楽に死ねる』
楽になれる――その魅力的な言葉には抗えなかった。だが、吹き消そうにも腹を圧迫された状態では、短く浅い呼吸しか出来ない。鼻先の炎は幽かに揺らめいた程度で、消える気配も無い。
「しにたく――ない」
そうこうしている間にも、自動車は私の肋骨を砕き、腹を押し潰してゆく。
『ほぉら、頑張れよ。もうすぐ消えるぞ、消えるぞ』
何とか息を絞り出そう必死で呼吸を繰り返す。けれど、その必死さを嘲笑うかのように、鼻先で蝋燭の炎を弄ぶ――死神。
「今すぐ足を離せ!」
飯塚を壁に押し付ける車は、奇しくも飯塚と同じ年代の老人が運転する自動車だった。運転手に向かって若い現役官僚がそれぞれに叫んでいた。
「聞こえているだろ!今すぐエンジンを切って車を止めるんだ!」
だが、急に車が動きだした上に、見知らぬ男達に取り囲まれた老人は自分の起こしている事が理解できる状況ではなかった――手を天上にピンと伸ばして突っ張り、その両足もしっかりと踏み付け――まるで『関係ありません』とでも言うかのように。
「で、でも、私は何もしとらんのです!車が勝手に――」
涙目になりながら声を上げる老人ドライバー。
「いいから足を離せぇっ!」「エンジンを切るんだっ!」
必死に車を止めさせようと、何人もの官僚が車に向けて叫び声を上げる。
病院と車に挟まれた飯塚孝蔵は叫び声も上げる事が出来ず、何故か必死に口をすぼめて呼吸を繰り返している。
「でも、ふ、踏んどらんのです」
そう言いながらもアクセルに乗ったままの足には力が込められてゆく。
「いいから足を離せと言っているっ!」
それを見た官僚達が更にあれこれと喚く。とうとう現状の把握を放棄した運転手の老人は、再びハンドルを強く握り締めると、全ての判断を放棄した。
「足を離したら動いちゃうでしょうがあぁっ!!」
「だから動いてるって言ってんだろっ!!」
パニックに陥りまともな判断が出来ていない、と結論付けた官僚達が、車を左右から前方へと押し返そうとし始めた。
「やめてください!触らないでくださいっ!」
だが中の老人ドライバーは変わらずアクセルを踏み続けている。
挟まれている飯塚孝蔵は、とうとう妙な呼吸すら出来なくなり、敷地内に響き渡るような叫び声を上げ――
『ほぉら――消えるぞ』
老人の運転する車のタイヤが更に唸りを上げ、押し返そうと必死な男達を薙ぎ払って――車が病院の壁にどしんと音を立ててぶつかった。
その瞬間、車に腹部を挟まれていた飯塚は、口と鼻から血を吹き出し、ぴくりぴくりと痙攣した後、がくりと動きを止めた。
『ほぉら』
そんな飯塚の顔を間近で眺めていた、死神の持つ蝋燭の炎が今――
『――消えたぁ』
炎が消え、細い煙の筋を引く蝋燭の欠片を握り潰し、死神は高らかに笑い声をあげながら――背後に居並ぶ、穏やかな顔となった犠牲者達を従え消えていった。
そして、死神が消え去った後――
飯塚幸三を圧死させた車はエンジンを停止した。
その瞬間――
必死にアクセルを踏み続けている老人の足元から――何匹もの辻神がワラワラと湧き出てきては、老人へと群がっていった。
その瞬間――
車を押し戻そうと必死に車へとしがみ付いていた官僚達が、車内の運転手――老人へと群がっていった。