9-1 死神
R2.10.7 加筆修正
フレンチレストランの予約時間が目前に迫っている。私は更にアクセルを踏み込み、2台、3台と華麗に他の車を抜き去った。
「大丈夫なの?」
助手席の妻が聞いてくる。不安なのだろうか。
「問題ない。何年運転していると思っているんだ。それよりフレンチの予約に間に合うかの方が余程心配だよ」
私は笑いながら、ハンドルを捌いて更にもう一台追い抜こうとした。だが対向車に気をとられ、カーブが近い事に気が付くのが遅れてしまった。しかも減速するつもりでブレーキを踏み込んだ筈なのだが、車は意に反して急激に加速を始めていた。
「危ないよ、どうしたの?」
いつもは控えめな妻も私の隣で怯えた声を上げている。
「あー、どうしたんだろう?」
本当にどうなっているのだ。減速しないで更に加速するとは。
「うわっ?!」
その瞬間、左側のガードパイプに車の鼻先が衝突した。それでもさらに車は加速してゆく。
目の前に人が――
そう思った時、フロントガラスに男性の潰れた顔が押し付けられ――その瞬間、蜘蛛の巣の様にガラスにヒビが走った。思わずハンドルから手を離し降参の格好をするが、お構い無しに車は加速してゆく。
「違う――違うんだ」
また人が見えた、と思った瞬間。
女の子を抱いた女性の。奇妙に捻れ曲がった上半身が遥か彼方に飛んでゆくのが見えた。
一瞬、目が合った様な気がして、目を瞑り首を降った。
「違う!私じゃない!私は何も――」
自動車がどうなっているのか、自分が今何をしているのか理解が追い着かず、それでも受け入れられない現状に全ての判断は停止していた。
強張らせた身体は、アクセルに乗せられたままの足を更に強く踏み込ませてゆく。
車は正面左側から出てこようとしていたゴミ収集車に左の鼻先をぶつけ、車体を回転させながら横断歩道を渡る歩行者達を薙ぎ倒してゆく。
そして信号待ちで停まっていたトラックに自動車の後部を叩き付け、その衝撃でやっと足がアクセルから離れた事で停止した。
何が――起きたんだ。
私はブレーキを踏み続けていた筈だ。それなのに車は加速した。
つまり自動車の故障だろう。 私が間違いを犯す筈が無い。
余りにも前例の無い体験に論理的思考が追い着かず、私は助けを求めるように息子の携帯へと連絡を入れていた。
呼び出し音が鳴り続ける。ふと目を上げると、フロントガラスの細かいヒビ割れを伝う血の赤。所々に赤黒い毛の様なものが張り付いて――私はそれ以上の確認を拒否し、フロントガラスから眼を背けた。
だが、ドアガラスの向こうに広がる光景は血の海としか言いようの無い光景だった。
おかしな格好で路上に転がる男性。路上に広がる赤黒い液体と、それに塗れ路上に転がるなにか。辺りを包む泣き声、叫び声――悲鳴。
これを――私が?
いや、悪いのは私ではない。ブレーキが。
とりあえず電話をしなければ。この事態をどうにかしなければならない。
オロオロする妻を尻目に息子へと電話をかける。冷静な頭で客観的に現状を判断して貰わなければ――数コール目で聞きなれた誰何の声が聞こえてくる。
「――アクセルが戻らなかったんだ」
ようやく搾り出した言葉は息子にとって意味不明なものだったろう。
「…どうした?親父」
だが、電話の向こうではいつもと違う私の様子を感じ取ってくれた様で、声のトーンを落とし、静かに、ゆっくりと聞き返してくれた。
「アクセルが戻らなくって、いっぱい人を轢いちゃった…」
現実を再確認するように、私も丁寧にゆっくりと答える。すると少しの沈黙の後、息子は、
「そこから離れられないのか?」
と聞いてきた。
「無理だよ…車、動かないもの。もう」
無理だよ。これで私はおしまい――
「何ボサっとしてんだよ!人を轢いた位、何だってんだよ!親父はエリートだろ!しっかりしろっ!まず自分を守るのが先決だろうがっ!」
電話の向こうで息子から怒鳴られ――ようやくスイッチが戻った。
そうだ。これは事故だ。それに私は東京大学を卒業し通産省に入省。工学技術院中央計量検定所に入所し研究に勤しんできた。その甲斐もあり工業技術院院長にも就任した。その後も会長職や取締役を歴任し、遂には瑞宝重光章も叙勲するほど、国に多大な貢献をしてきたエリートだ。役立たずの庶民を数人轢いた程度で動揺してどうする。こんな時だからこそ自分の身を守らねばいけない。この私が――元とはいえ高級官僚が間違いを起こすなどあってはいけないのだ。
もしも事件に巻き込まれた、もしくは引き起こした場合の対処方法は環境、通信手段の多様化に伴い、その都度様変わりしている。そしてその対応マニュアルは、我々の様な“上級国民”とも言える特権階級の人々に行き渡るようになっている。
現場を離れて久しいからか、事故の影響で脳が揺れていたからなのか、即座に対応できなかった自分が情けない。つらつらと必要な対応が頭の中に並んでくる。
私は大きく深呼吸をして気持ちを落ち着けると、
「――固定電話を解約してくれ。今すぐに。あと弁護士の浪川さんに連絡を頼む。あと経産省の庭田君に連絡して、事情を説明してくれないか?そうすれば後は都合良く対応してくれる筈だから」
「――それでこそだよ」
電話の向こうで息子が笑っているのが分かった。
「フェイスブックとツイッターはこちらで削除するよ」
随分徹底してるんだな、と電話の向こうで息子が感心の声を上げている。
「ちなみに、周りはどうなってるんだい?」
「酷いものだよ。けど見ないようにしてる。五月蝿いのも外で喚いてるみたいだし。出て行ったら殴られそうな位だよ」
車のすぐ外では、通行人であろう私とは何の関係も無い人間が車を覗き込みながら何かを喚いている。この程度で何と野蛮な人だろう。そんな野卑な振舞いをすぐ傍でされている妻が、不安そうにこちらを見ている。
「絶対降りるなよ。何されるか分からないから」
「言われなくても降りないよ。警察が来るまでこうしてるつもりだ」
「父さんは大丈夫なのか?」
「うん。でも初めての事だからね。興奮してるだけかもしれない。血は出てないみたいだけど。それより連絡、頼んだよ」
そうしてやっと私は普段の調子を取り戻し、電話を切ることができた。
「あなた――」
妻は相変わらず不安そうに私を見つめている。
「大丈夫だよ。これは事故だ。間違いなんだ」
しばらくそうしていると、制服を着た警察官が車のドアをノックして、声をかけてきた。
「警察です、大丈夫ですか?!」
やっと外に出られそうだ。ドアを開けて降りようとしたが、右膝が突っ張って思うように動けなかった。
「あぁ君、済まないが肩を貸してもらえないか?」
「足を怪我したんですか?」
心配そうに警察官が聞いてきた。
「あぁ…いや、前から膝が悪くてね」
私がそう答えると途端に警察官の顔色が曇った。
「この車を運転していたのは貴方ですね?」
「そうだが…それが何か?」
そんな事、聞かずとも分かるだろうに。何故そんな事をいちいち確認せねばならんのだ。
「いや、何かじゃないでしょう?貴方がこの事故を――」
警察官がそこまで言ったところで、詰め寄る警察官の肩を誰かが後ろから引き止めた。
「この方は元経産省の官僚で、瑞宝重光章を受章された経験もあるお方です。ぞんざいな扱いは控えて欲しい」
黒いスーツを着た、おそらくは現役の官僚であろう青年が、警察官を引き止めていた。
官僚――その言葉にアレルギーでもあるのだろうか。警察官は蛇を発見したかのように顔を強張らせ、走り去って行った。その背中を見送って、スーツ姿の青年が早口に話しかけてきた。
「庭田局長からお話は伺っています」
そう言って手を差し出し、車から降りる私を手助けしてくれる。
「話の分かる人がやっと来てくれたね」
車から降りると、既に同じ様な黒スーツの集団が警察官の集団と話し合っている。
「あれは――何をしているのかね?」
私は青年に説明を求めた。
「飯塚さんをこの場で逮捕させないための説明をして貰っています」
タイホ?この青年は私が逮捕されると言ったのか?
「逮捕されるのかね?――この私が?人を轢いた位で?」
あまりの事に信じられずそう言うと、現役官僚の青年は肩をすくめ、
「死者も出ているでしょうし、一般人ならば現行犯逮捕されてもおかしくないレベルなんですよ?」
と面倒臭そうに言ってのけた。これは説明するのが面倒、という訳ではなく、この程度理解して欲しい、という意味合いでの“面倒臭そう”である。これが官僚という生き物だ。
「どういう内容になっているのかね?」
私の質問に現役官僚の青年は、はいと応え、抑揚を抑えた淀みない早口で説明を始めた。
「刑事訴訟手続きについて定めた刑事訴訟規則には、容疑者逮捕の必要性を『逃亡や証拠隠滅の恐れがある場合』とありますが、本件についてはその地位と経歴によって逃亡や証拠隠滅の可能性が無い事は担保されている。その為、現行犯逮捕は控えて頂きたい、と警察上層部には説明済みです」
数人の警察官が苛々しながら腕組みをして私達を睨んでいる。
「ですのでそれについての分かり易い説明と、事故により負傷されていらっしゃる飯塚さんの為にも、現場の検証は最低限のものとして、早々に救急車の手配を、とお願いしています」
「警察沙汰はどうしようもないのかね?」
「事故の規模が規模なので揉み消す事は困難です。それに元高級官僚が引き起こした暴走事故となると、世論が黙っておかないでしょう」
そうなのか。たかが車が暴走して数人死んだだけだと言うのに。大袈裟な事だ。
「ですがこれで逮捕による身柄の拘束と“容疑者”扱いは避けられます。そして世間の注目が逸れた頃合いを見て手続きを進めてゆきましょう」
「…その絵図は君が描いたのかね?」
「はい。局長からの許可も頂いてあります。後は弁護士との調整でしょうね」
表情の読めない語り口調。有能な官僚なのは間違いないのだろうが――気に食わない。
「ありがとう。君の事は覚えておくよ」
私は最大限の皮肉を込めたつもりだったが、
「ありがとうございます――飯塚幸三先生」
現役官僚の青年は柳に風といった様子で丁寧に頭を下げるだけだった。
上司に疎まれる官僚ほど出世する――この青年は出世しそうだ。
突然湧いて出たようなスーツの集団に容疑者を持っていかれ、不満を隠しきれない若い警官が、一緒に現場に赴いた先輩警察官へと声をかけていた。
「おやっさん、何なんですかアレ。随分態度のデカい容疑者ッスよね」
「あれが高級官僚、いわゆる上級国民サマって奴だな」
俺も見るのは初めてだがな、と先輩警官は苦虫を噛み潰したような顔を隠さず答えた。
「発見した時点で現行犯逮捕しておけば良かったッスね」
「そんな事したら俺達の首はシベリア辺りまでふっ飛ぶぞ」
「マジっすか」
「多分その指示は本店のずっと上の方から降ってきたモンだろ。俺達一般人にゃ荷が重すぎらぁ」
「触らぬ神に祟りなしッスね」
「そういう事だ。事務的に作業を進めるぞ」
先輩警官はそう言って現場の確認を再開した。
「最愛の妻と娘を突然失い、ただただ涙することしかできず、絶望しています…」
立ち並ぶ報道陣の前で、涙を溜めて声を震わせる、遺された夫――絵になる光景だ。
小夜鳴市での高齢者による交通事故。犠牲者は死亡者が四名。重軽傷が五名に上っていた。
自動車を運転していたとされる飯塚幸三さんは運転中の怪我により現在も入院中であり、任意で事情聴取を受けている。容疑者とみるや親類縁者の家までも暴き立てるマスコミ各社も最低限の報道のみに自主規制を行う中、先に被害者家族が会見を行うという異例の事態が発生していた。
そして私はその中に居る記者の一人である。
容疑者――この言葉は使わないよう厳重に通達がされている。
勿論、会社の上の――更に上からだ。
他の交通事故であれば即座に“容疑者”扱いしても文句一つ言わないのに。
やはり身内から“容疑者”と呼ばれる人間が出る事は極力避けたいのだろう。
現在はネット上でもこの加害者男性についての議論も飛び交っているが、やがてそれも落ち着いた頃には、そのネットの記事すらも消され、そのうちウィキペディアにも事件の内容が書き込まれないようにロックが掛けられてしまうのだろう。
だが目の前の被害者家族――残された夫は、その流れに逆らおうとこの場で声を上げようとしている。
そんな必死な彼に対し私達の出来る事は――軽く流すこと。それだけだ。
せいぜい毒にも薬にもならない文言を抽出して記事にするしかあるまい。
「たった一瞬で私たちの未来は奪われてしまいました。悔しくて悔しくて仕方がありません。この悔しさはどれだけ時間が経っても消えないでしょう。
失われた妻と娘の写真を公開し、居並ぶカメラの前で声を震わせながら語っている。しかし気持ちは分かるのだが、まるでテンプレートのような話だ。そんな事は言わなくたって分かるんだよ。
「同じ様なケースの事件では、運転手は既に逮捕されて容疑者として扱われていると言うのに…勲章を貰った人は偉いんですか?元官僚ってだけで」
このひと言に報道陣わたしたちは一瞬だけザワついた――ここは使えない。
「加害者からの謝罪はありましたか?」
記者達の空気を家族に悟らせないためか、別の記者が質問をした。
「それについては…お答え…できません」
この辺が使えるギリギリの線だろう。それでも詮索好きな輩には裏工作があったのでは、と勘繰られそうだが。それはそれで記事的には面白い。
「少しでも運転に不安がある人は車を運転しないという選択肢を考えてほしいと思います…」
そうして短い記者会見は幕を閉じた。このひと言を前面に押し出せば、高齢者ドライバーの問題、として全体像をボカすことが出来るだろう。いい言葉だ。
葬儀も全て終わり、真奈と莉子は墓の中だ。
独りで家に居ると、二人の声が聞こえてきそうな気がして耐えられずに家を飛び出した。
けれど見知った町並みを歩くだけで――右手の先の柔らかな手の感触を。その向こうで微笑む顔を思い浮かべてしまい、何度も夕闇の道端に蹲り、声を上げて泣いた。
そして――
気が付くと事故現場に立っていた。
あの事故から既にひと月は経とうとしているが、犯人からの謝罪はおろか弁護士からの接触さえ無い。
無視しているのだろう。世論の熱が冷めるまで。
事故現場に供えられた花束。娘の好きだったお菓子。拙い文字で描かれた、意味も分からず書いたのであろう、娘の友達が置いていった、さよならの手紙。
何故だ。
何故人を何人も殺した男が――真愛と理子の命を奪った男が逮捕もされず、容疑者扱いもされず、怪我をしたからといって手厚く保護されているのだ。
国を動かし、国に貢献してきた特権階級の人間は何をしても保護されるのか。
それじゃあ――妻と娘の死は何だったんだ。上級国民にとっては一般市民の存在など、路傍の石と同じだとでも言うのか。
なら――
飯塚幸三への、この狂おしい怨みなど石ころ以下の感情だとでも言うのか。
石ころでだって殺せる事を教えてやりたい――
握り締めた拳を、妻と娘の血を吸った道路に何度も叩き付けた。
供えられた花弁が飛び散り、手の皮が裂け、道路が俺の血を吸ってゆく。
そうだ――もっと吸え。俺もそこへと連れて行け
そして高々と拳を振り上げ――
その時、一枚の手紙が風に吹かれて拳に絡み付いた。
まるで『もうやめて』とでも言うかのようだった。
真愛と理子に止められたような気がして、私はゆっくりと腕を下ろし、拳に絡みついた紙を眺めた。
闇に包まれゆくなかで幽かに光を放っているようにも見えるその手紙には、
とある光景が繰り返し浮かんでは消えていた。
手紙の絵が動いている――これは、小さな喫茶店?それに――花?
その時、聞き覚えのある声がした。
この声は――聞き間違えるはずが無い――真愛と理子の声だ。
怨む相手が居るのなら
殺したい程に
死んでしまいたい程に
赦せぬ相手が居るのなら
しるし一つだけ持ち来たれ
汝が怨みは祟りへと変じ
祟りは相手を滅ぼすだろう
怨みひとつだけ持ち来たれ
私は真愛と理子の姿を探した。しかし二人の姿は何処にも見えなかった。
「真愛!理子!何処に居るんだ!?これは――これは一体どういう事なんだ?! 」
必死に辺りを見回し、もしやと思い空を仰いで見もしたが、やはりその姿は何処にも見えなかった。
そうして私が道端で声を上げて二人を探している間も、二人の声はずっと続いている。
もしかして――手元の紙に目を戻す。
そこには小さな喫茶店の様な店舗、そして紫色の花の映像が繰り返されている。
「ここで――これをすればいいのか!?」
私がそう言うと、繰り返していた声はゆっくりと聞こえなくなっていく。
「そうすれば!――仇が討てるのか!!」
そうしてとうとう、二人の声は聞こえなくなってしまった。
私はその場に膝をつき、声を上げ――泣いていた。
二度と聞こえない筈の二人の声が聞こえた。
しかもそれは私に『仇を討て』と知らせてきた。
私の思いが――怨みが。二人の声に導かれるという奇跡を引き寄せた。
その嬉しさと。
本当に二人は死んでしまったのだという現実の冷酷さに。
私は泣いていた。
そうして泣いて泣いて――ようやく立ち上がることが出来た。
そういえば、何処で耳にしたのかは覚えていないが、何処かで聞いたような気がする。
ある喫茶店で、テーブルに花を飾れば、怨む相手が死ぬ。
紫鏡とか赤い半纏のような根拠の無い都市伝説。そうとしか思っていなかった。
しかし――
怨みひとつだけ持ち来たれ――
きっと――これだ。これのことだ。
そして私は、散らばった花束の中から紫色のスターチスの花を一輪握り締め、立ち上がった。
亡くなった方のご冥福と、残されたご家族が心穏やかに暮らせる日が来ることをお祈り致します。




