7-3 川赤子
R2.10.6 加筆修正
平静を装う必要は無かった。
部屋に帰ると雷斗はスマホを握ったまま涎を垂らして眠っていた。
だらしなく眠る顔を覗きこむ。
今更に愛おしいという感情も湧いてこないが、改めて殺意も湧いてこない。いや、この男はもう少しで死を迎えるのだと分かっているからこその心境なのだろう。もう『祟り』は放たれたのだから。
せめて最期くらいは――女らしく。それらしい事をしてやろう。
そう思い、痛む下腹部を押さえ付けながら、横になりたいのを我慢して久しぶりに夕食の準備を始めた。
昼寝の後には風呂に入りたがるから、風呂も沸かしておこう。
結局、準備が出来ても雷斗は目を覚まさなかったので、私もその横で一休みすることにした。どうせ最後なのだし――
目を覚ますと隣に礼夢が眠っていた。
いい匂いがする。夕食が出来ているみたいだ。珍しい。今更子供を欲しがるなんてバカな事を言った反省のつもりだろうか。
自分たちみたいなロクデナシに子供が育てられる訳が無い。
よしんば育てたとしても、真っ当な人生を歩める訳が無い。
巣立つ時、幸せでした。と俺達に感謝してくれる訳が無い。
どのみち道端のクズが一匹増えるだけなのだから。
それも考えずに最後だから生みたい育てたいとか。
――本当にバカだ。俺とお揃いのオオバカだ。
こんなオオバカの子供が幸せになれる訳が無いだろうに。
子供が出来るのは出来る事をしているのだから当然だ。
だからといって避妊する気も無いけれど。
堕胎なんて苗に出来た青いトマトを摘むようなものだろうに。
トマトが実らなくなってもトマトの苗はトマトの苗なのだ。
礼夢が女である事に変わりは無いし、好きだという事にも変わりは無い。ならば何も問題無いだろうに。何をそこまで問題視する必要がある。
外に遊びにも出ずゴロゴロしていた所為で寝汗もかいたし頭もボサボサだった。
礼夢を起こして風呂の仕度をさせようと思ったら、風呂場の明かりがついている事に気が付いた。覗いてみると浴槽に湯が張ってあるではないか。
寝る前に風呂の準備をしたのか。珍しい。珍し過ぎて却って気持ちが悪い。
子供が出来なくなったからって捨てられないようにと、擦り寄りの気持ちだろうか。
そう思いながら頭を掻く。指に纏わり付く皮脂の、薄いぬるりとした感触に顔を顰める。
ひとまず風呂に入ろう。せっかく礼夢が準備してくれたのだ。
床に衣服を投げ捨て全裸になるとそのま湯船に入り、凭れ掛って眼を閉じる。
ふとビールが飲みたくなり、湯船に入ったままで声を上げた。
「おーいむーぽん、起きろよー。ビール持ってきてぇー」
だが反応が無い。まだ寝ているのだろうか。仕方ない。自分で取りに行こう。
へあぁ
風呂場に俺の声ではない何かがこだました。猫の鳴き声のようにも聞こえたが。
浴槽から身を乗り出して洗い場の床を見るが、当たり前のように何も無い。
何だったんだ今のは――と再び湯船に寄りかかると、自分の浸かる浴槽に何かがぷかりと浮いていた。
一瞬、自分の膝かと思ったが、自分の膝は湯船に沈んでいる。
けど、どうみてもこれは肌――丸い肉の塊だ。
肉の塊には疎らに毛が生えていて、濡れたそれが張り付いて居る。しかも、そこから腕が伸びて浴槽のへりを掴んでいる。
小さな何かが風呂の中に居て、向こうを向いて浴槽にしがみ付いているんだ。
人の様なむくむくした、けれど指の間に水掻きがあるその手でしっかりとしがみ付いている。
まるで子供――いや子供よりも、赤ん坊よりも、ずっと前の――
そのなにかが。ゆっくりとこちらを向いた。
まぶたの無い魚の様な眼が。
まるで卵の中身の様な、血管の浮き出た出来損ないの様な顔が。
そんなものが俺を見て
へあぁ――と啼いた。
途端に浴室が泥臭い匂いに満たされる。熱いお湯も冷たくどろりとした水に変わっている。訳が分からず、この小さな化物を湯船から弾き出そうと右腕を振った。
だが。
柔らかい肉を弾く感触に思わず顔をしかめた。
しかも。
柔らかく冷たい肉の感触が腕から離れない。
いや、感触が残っているのではなく、弾いた筈の化物がそのまま腕にしがみ付いている。
おぎゃあぁぁ
腕にしがみつく化物が――泣き声をあげた。
「なんだよコイツ!オラ離せ!離れろよっ!」
壁や浴槽のフチに何度も化物を打ち付ける。だがゴムボールを打ち付けているような感触しかしない。その上、小さな指とは思えない強い力で俺の腕を締め上げているので逆に自分の腕が痛い。いっそと立ち上がって腕を振り上げたその時――
その時、突然何かに足を掬われ、ざぶんと湯船に尻餅をついてしまった。
何だ?いや――また何かが足に触れている。右足に。同じ様な化物がしがみついている。
そいつは水の中から死んだ魚の様な眼で俺を見つめ――笑った。
「ひ…ひぃっ」
立ち上がろうとして何もついてない左手で浴槽の縁を掴むが――その手首にもまたくっついている。
んぎゃあぁぁ
へあぁぁ
化物が泣き声を上げた。
途端に化物が――ずしりと重くなった。
ほあぁぁ
んなぁぁ
ひと言。泣き声を上げるたびに。
俺を掴んでいる化物が――重くなっている。
このままでは風呂から出られなくなる。
「おい礼夢!何やってんだコラ!ちょっと手ぇ貸せ!早く来いよバカ!」
助けを呼ぼうと叫んでいる間にも腕と足にしがみ付く化物は重くなり続けている。今は浴槽のフチに掴まっていられるがこのままでは――
その時。
胸元を何かが登ってきた。小さな手の触れる感触がだんだん上へと登り――
――まさか。
風呂の水面から。
――やめろ。
魚っぽい眼をした、小さい不出来な人間みたいな化物が――四匹。
――やめろこん畜生死んじまう。
ゆっくりと顔を覗かせて。一斉に――
おぎゃあぁぁぁ
重さに耐え切れず、頭から浴槽に沈んでしまう。
濁った水の中で、化物がこちらを見て笑っているのが分かる。
ふざけやがって畜生。そうだ。浴槽の栓を抜けば――
そう思って動かせる足先で底を探ろうとするが――足先に伝う感触は川底に沈む泥のようだった。
そんな――ここは風呂だろうが。どうして。
縁が無い。風呂の栓が、底が。無い。
必死に足を動かすが、沈んだ泥が巻き上がり、目も開けられなくなってしまうだけだった。
その間にも不出来な人のなりそこない達が、背中や足首にしがみついてくる。
一人しがみつく度にずしりと重くなり、身体が底の方へと沈み込んで行くのが分かってしまう。
苦しい。苦しい苦しい――吸いたい。
耐え切れず、生きようとする肉体が空気を求めて――吸った。
だが流れ込んだ泥水に肺が灼熱の痛みを以て悲鳴を上げる。
その間にも。不出来な人間みたいな化物は俺を泥の底へと引き擦り込んでゆく。
考える余裕も無くなり、ただただ必死に足掻き、暴れ、そして――
風呂場が静まり返った。
雷斗が死んだのだろう。
あいつが風呂に入った頃には目が覚めていた。
そして、起こっている一部始終を聞いていた。
作っておいた夕食には手が付けられていなかった。最後の女らしさも無駄だったか。
そして私は部屋の電気を消し、カーテンは開けたまま、ベッドの上で――待っている。
ぺちゃ。ぺちゃ。ぺちゃ。
濡れた足音達が近付いてくる。
ほぎゃあぁぁ
へああぁ
ふあぁぁあぁ
アタシの子供達の祟りが。
近付いてくる。
もう一人の標的である――アタシを殺すために。
臍の緒を床に引きずりながら。水を滴らせながらやってくる。
廊下の向こうで私を求めて啼く声がする。
「おいで。アタシの赤ちゃん達――アタシがママだよ」
アタシはそれを、両手を広げて待っている。
へあぁ
んあぁぁ
ベッドの縁をよじ登り、アタシに群がってくる。
小さな。とても小さな祟り達が膝の上や胸へとよじ登ってくる。
墓場の土の様な冷たい手があちこちに触れるたび、アタシの熱が子供達へと流れてゆく。
7人全員が辿り着いた頃には凍える程に身体は冷え切っていたけれど、アタシはその子達を両手で抱え、優しく抱き締めた。アタシが初めて出来た、母親としての仕事なのだから。
子供達は笑っていた。まだ十分に出来ていないその大きな瞳が、アタシを見てキラキラと光っているように見える。
そうして
一斉に――
おぎゃあぁぁ
これからはずっといっしょだよ。
へあぁ




