6-1 溝出
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チャイムが無いので扉を若干強めに叩き、それでも反応がかったので、俺は扉を開けて大きな声で家人を呼んだ。
「こんにちは青柳さん!お母さんの様子はいかがですか?」
少しして障子の向こうから、何日も洗っていない、いや何日も着たままの汚れたジャンバー姿の男が、のそりのそりと四つん這いになって顔を出した。
「まぁた来たのかい。あんたもシツコイねぇ――変わりねぇっての」
体臭やら酒の匂いやらで思わず眉を顰めてしまうが、俺は極力笑顔で応じた。
「そうは言っても、やはりたまには顔を見に来ないと落ち着かなくなるんですよぉ。私の死んだ母に似ている所為もあるんですかねぇ」
ちなみに俺の母親は今日も元気にスーパー銭湯に通っている。だが“死んだ母親”というのは何者よりも強いのだ。今日だって、家に上げたくないと渋るこの酔っ払いを、
「…じゃあ会っていきな」
と懐柔する事に成功した。勿論、この男に『自分の母が死んだら』という事を想像させようとする為でもあったのだが、遠回し過ぎてアルコール漬けの頭には届かなかったようだ。
靴を脱ぎ、床板の軋む冷たい廊下を歩く。目的の部屋が近付くにつれ、酒の匂いに代わって汗と糞尿、そして以前はしなかった膿の臭いが強くなってくる。
失礼しますと障子を開けて挨拶すると、何年も干されていない様な煤けて薄くなった布団の中から、やつれてはいるがとびきりの笑顔が俺を出迎えた。
「あら…あらあら森嶋さん、申し訳ねぇな、こんな汚ぇとこさ…」
俺が担当する患者『青柳みつ』さん、89歳だ。
「そんな事気にしないよ。それよりみつさん――どう?具合は」
横に座り、布団の脇から手を入れて、横たわる老人の手を握る。小さな、染みと皺だらけの働き者の手は、布団にくるまって居たと言うのに少し冷たかった。
「変わんねぇな。悪くなるばかりだ」
それに前回来た時よりも顔色が悪い。
「でもアンタの面ぁ見たら気分いいや」
だが俺に見せる笑顔はとても幸せそうだった。
「部屋、少し片付けるね」
自分の荷物を横に除け、床に散らばる汚れたオムツを持参したゴミ袋に詰め込んで、外に運び出す。
本来であれば、このような作業はケアマネージャー俺の仕事ではない。けれど通帳を握っている息子が頑として介護サービスの利用を断っているのだ。息子曰く、
「うちの母さんは人見知りが激しくて他の人が入る事を嫌うから」
――そんな訳は無いだろう。なら俺が訪問した時に見せる笑顔は何だ。
「他人を家に上げたくない。家の財産が盗まれるかもしれない」
――お前の財産というのは床に転がった焼酎の空ボトルの事か。
この穀潰しは母親の年金を自分のためだけに使い、本来使うべき母親には最低限のものしか与えていない。そうして自分は働きもせず、親の金で毎日安酒を飲み暮らしている。
本来であれば入院させ、適切な治療を受けさせる。もしくは自宅に居ながら訪問診療と訪問看護、身の回りの介護を受けて貰いたいのだが、母親のために金を使いたくない息子は元より、みつさん本人がこの家から離れる事を望んでいなかった。
「どれ、お尻見せてみ。痛いでしょ」
「そこまでさねくってもいいよぉ。汚ぇべ」
昔は青森で暮らしていたが、旦那の仕事の関係でこちらに引越し、その後は住み込みの家政婦として暮らしてきたという彼女の、聞き慣れないが懐かしい感じのする訛りに口許を弛ませながらも、やんわりと却下する。
「汚いから綺麗にするの。いいから横向きなさい」
「はいはい…」
息子もかろうじてオムツの処理はしてくれているようだが、お世辞にも丁寧とは言えない。拭き残しがこびりついていたりする陰部を持参したお湯と石鹸で洗い流す。そのまま横を向け、尻の後ろを見る。この前来た時には皮膚が黒く壊死していたのだが、二週間過ぎた今は、黒い皮膚が無くなり、その代わりに大きな穴が開いていた。ピンク色の肉と白いスジが覗き、袋上になった傷口からどろりとした黄土色の膿が流れ出している。所謂、褥瘡という奴だ。膿の匂いはこれか――それにしても酷過ぎる。
「ねぇ、もう入院しないかい?このままじゃ本当に――」
拝借してきた余りものの薬を塗り、手早く傷口の処理をしながら話す俺の言葉を遮る様に力強く首を振る。
「そうはいかね。私が入院したら、あのロクデナシが野に放たれちまう。そったら事になったら世間様に申し訳が立たね」
「でもそれじゃあ、みつさんまで――」
「私の事はいいんだ。こらぁ私が育て方を間違った罰なんす。なぁに。私が死んだらこいつも生きて行けなかべ」
そう言って、精一杯の笑顔を見せるみつさん。
「今度来る時はあったかい布団持ってきてあげるからね」
「なんも、こったらババァにそこまでさねくても…」
「いいのいいの。どうせ余ってた奴だから」
そして俺は、また近いうちに来るからね。と言って青柳家を後にした。
ケアマネージャーとしての領分を既に越えているのは承知している。
けれど、あんな人の好い婆ちゃんを放ってはおけない。
これまで市役所の窓口に何度も相談を持ちかけた。けどその話を本人にする度に、
「あんなロクデナシを他人様に任せられねぇ」
と止められるのだ。しかも役所の方はと言うと、
「ご家族だけなら高齢者虐待としての対応もあるのですが、ご本人も嫌がっているとなると…」
と及び腰だった。
基本的に家族もしくは本人の同意無しには勝手に介護サービスを利用出来ない。サービスを斡旋する立場の人間としては歯痒い所である。必要な人に必要なサービスを提供するのが俺の仕事だというのに。
とにかく今は出来る限りの事をしてあげたい。それだけだ。
前の訪問から数日が過ぎ、俺は新品の毛布を持って青柳さんの家を訪れた。
玄関で声をあげても返事がないので、勝手に上がり込む。案の定、息子は酒を飲んで高いびきだった。
「みつさん、来たよ――って、みつさん?!」
たった数日だというのにこの前より格段にやつれている。口はカラカラに渇き、額には脂汗を流して痛みに顔をしかめていた。
「はぁ…えがった――水ば…」
荷物を放り出し、床に転がった吸い飲みをひっ掴むと台所に走った。吸い飲みは埃が積もっている。何日も使っていない証拠だ。
軽く洗い、水を汲んで戻る。
先ずは唇を濡らす程度。そしてゆっくりと水を飲ませた。
「もしかして…何日も飲まず食わずなの?」
「いや、腹ぁ壊してさ。飲むと下るから…あまり飲まねぇ様にしてらのさ」
――嘘だ。あの唇の渇きはそんなもんじゃない。だがそれを指摘する時間ではない。
まさかと布団を捲ってみると、何日も放置された糞尿で溢れていた。
「布団、もう一組あったよね。使うよ」
亡くなった旦那さんが使っていたという、色違いの煎餅布団を隣に敷き、元の布団の汚れていない部分で身体を洗い流した。尻の褥瘡にまで便がこびりついている。これも洗い流し、準備してきた軟膏とガーゼで処置をする。結局、清潔な環境を整えるのに一時間以上を要してしまった。他の訪問予定もあるのだが、そんな事は言っていられなかった。
「これ、新しい毛布持ってきたからね。暖かいよ」
「本当に済まねぇな…森嶋さん」
毛布に頬を摺り寄せながら、やつれた笑顔を見せるみつさん。
「入院しようよ…もう限界だよ」
その痛ましさに耐えられず、俺はもう一度入院を勧めていた。だがみつさんはいつもと同じ様に静かに首を振るだけだった。
「――そんだ、森嶋さん。そこの一番上の引き出し、開けてけねか?」
彼女に指摘されたタンスの引き出しを開ける。
「白い箱ぉ入ってらべ。取ってけろ」
掌に収まるくらいの小さな紙箱を取り出して手渡す。
「これな、むがぁし奉公してたお家からいだだいだありがでぇ代物だのさ」
みつさんはそう言って、紙箱から木製の櫛をひとつ取り出した。
「森嶋さん、これ持っててけねぇか?」
皺と染みだらけの手で俺に差し出す。
「持ってて…えっ?」
「これな、私の大ぃ事な思い出が詰まってらの。あのロクデナシには触られたくねぇのさ」
彼女はそう言ってつげの櫛を私の手に乗せると、皺だらけの小さな手のひらで優しく包み込むように握らせた。
「そんな――」
そんな大事なものをと思ったが、俺が何を言ったところで彼女は考えを曲げないだろう。
「んでよぉ、オラの代わりに行って欲しい店ぁあんだじゃ」
「お店?」
「んだ。ちっちぇえケーキ屋さんなんだどもな…」
「それだったら一緒に行こうよ。元気になってさ」
俺はみつさんを元気付けたくてそう言ったが、みつさんはそれに応えず、
「お店さ行ったら、葛葉様にそれば見せて『よろしくお願いします』ってお伝えしてくんせ…」
と俺に向かって両手を合わせてきた。
「その葛葉さんって人にこれを見せて『お願いします』って伝えればいいのね?」
俺は、分かったよといって受け取った櫛を鞄に仕舞いこんだ。
そんな俺を見ていたみつさんは、
「ありがてぇな…本当にありがてぇ」
と言いながら静かに涙を流した後、
「森嶋さん…おら、もう疲れたじゃ」
と、諦めに似た表情を浮かべて話し出した。
「そんな事言わないの。せっかくいい布団持ってきたのが無駄になる」
俺は軽口で応じたが、みつさんは俺の話を無視して、
「…おらが死んでも、そん時は必ず伊知郎ば連れて行くすけな」
と確固たる意志を持った真剣な眼差しで俺を見て言った。
その迫力に一瞬気圧されてしまう。――息子、伊知郎って言うのか。忘れてたな。
そんな事を考えているうちに、みつさんは安心したのかそのまま眠りについていた。
そろそろ帰ろうかと腰を上げた時、一瞬だが線香の匂いが鼻をついた。この家にも仏壇はあるが線香の匂いなど一度もした事が無い。あの息子なら当然だ。
――もうすぐ亡くなる人のベッド回りだけ、線香の匂いがする。
看護師時代の体験が頭をよぎり、不安が更に加速する。
この家に置くのも限界だ。俺は青柳伊知郎を叩き起こし、みつさんの現状を伝えて入院させるよう説得を試みた。
「入院はダメだ」
だが、伊知郎は相変わらずの返答をするだけだった。
「どうして?!褥瘡だってあんなに大きくなって…下の世話だって充分に出来ていないじゃないですか!このままだと本当に――」
その時、俺の頬をガラスのコップが掠め、後ろの方で砕け散った。
「うるっせぇなあぁぁ!息子の俺がダメだっつってんだろおがよぉ!」
酒が切れたイライラなのか、大声で威嚇してくる伊知郎。今までもそうやって周りを威嚇して、思い通りにやってきたのだろうが、今回ばかりは俺も頭に来ている。
「虐待で通報する事も出来るんだぞ?それにみつさんの年金を使い込んで酒飲んでばかりで…それで胸張って息子って言えんのかよっ!」
感情的になって声を荒げてしまったが構うものか。
「子供の為に生きるのが親ってもんだろうがぁ!」
負けじと勝手な理屈で叫び返す伊知郎。
「テメェみたいなロクデナシ、みつさんの息子じゃねぇよ!」
「だったらテメェが引き取って面倒見れるのか?!言っとくが年金はビタ一文渡さねぇからな!」
何度そうしたいと思った事か。けれど、介護職の安月給では他人を養うなんて出来る訳が無い。何も言い返せず、固く握り締めた拳を振りあげる事も出来ず、俺は怒りに震えながら青柳家を後にした。
そして数日が経過した。
あの時の涙が気になった俺は青柳家を訪れていた。
何故か伊知郎は今までと違い、珍しく玄関先で俺を出迎えた。
そしてひと言。
「母ちゃんなら居ねぇよ――親戚が引き取ってった」
バツが悪いのか顔を背けながら応える。はて…みつさんの親戚はもう絶えていたと思ったが。
「来たついでに母ちゃんのゴミ、出してきてくれねぇか?」
伊知郎はそう言って玄関前にゴミ袋を積み上げると、さっさと扉を閉めてしまった。
たしかにゴミ袋の中には使用済みのオムツが見える。だが――使用していない紙オムツまで入っているのを見て、俺は疑念を抱いた。
それに持ち上げると異様に重い。しかもその中に見慣れた柄を発見し、俺は青柳家の庭先にゴミ袋を持ち込むと、その中身を地面にブチまけた。
庭先に転がったのは、前の面会時に俺がみつさんに着せたパジャマだ。しかも――上着のところどころが飛び散る血で濡れている。
俺は玄関先に回り、無言で戸を開いて土足のままで家に上がり込んだ。廊下を歩き、いつもの障子を開く。
みつさんがいつも寝ていた部屋はもぬけの殻になっていた。
しかもこの――血の匂い。
俺は青柳家の居間――伊知郎が寝ている部屋の障子を勢いよく開き、上機嫌で酒を飲む穀潰しを問い質した。
「みつさんをどこへやった?」
どろりとした眼差しで俺を見て、それでも上機嫌に答える伊知郎。
「だぁから親戚が引き取ったって言ってんだろ?」
それが本当ならばどれだけ良い事か。だがみつさんは、最後までこのロクデナシの枷となる事を選んでいたのだ。
「どうやって行ったんだ?」
「…車に乗せてったぜ」
いくら親戚が来たからといって、あの女性ひとがそう簡単に意思を曲げる筈が無い。
「看護師とかは一緒に来たのか?」
「あ?あぁ、勿論来たぜ」
それにパジャマの血と、部屋に充満する血の匂い。まさかとは思うが――
こいつは嘘を吐いている。
だが、みつさんの部屋に引き返そうとした俺の手を、伊知郎が飛び起きて掴んだ。
「おいおい、客も居ねぇんならもう用は無ぇよな?」
「忘れ物があったのを思い出しましてね」
ここでへそを曲げられては面倒だ。いつもの接客スマイルで穏やかに対応する。
「あぁ、悪いな。あの部屋にあった奴は全部片付けちまったよ」
ニタニタと笑い、酒臭い息で話す伊知郎。ホラホラとっとと帰りなと背中を押され、
「じゃあな。もう会う事も無ぇだろ」
そのまま玄関まで見送られると、乱暴に扉を閉められた。
あのロクデナシの酔っ払いは確実に嘘を吐いている。
それを問い質したいのだが、俺が詰め寄ったところで素直に認めるとは思えない。
あの血に濡れたパジャマを見せれば警察も動いてくれるだろうか。
いや、もしかしたら本当に親戚が連れて行ったのかも知れない。
久しぶりに訪れた親戚が現状を見かねて連れて行ったという可能性も否定できない。
それに、あのロクデナシだとはいえ、実母を殺害して死体を隠す…なんて恐ろしい事まではしないだろう…と信じたい。
その前にまずは、みつさんからの頼まれごとだ。市役所やら警察やらはその後からでも大丈夫だろう。