1-2 絡新婦
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「祟り庵…」
私がそう呟くと、
「ここは人の怨みを『祟り』という形に変えてくれる場所だ」
一つ目金魚がその渋い声で教えてくれた。
「祟りという……かたち?」
「そうだ。いくら怨んでも、それだけで人を殺せる訳じゃない」
それはそうだ。怨むだけで殺せるなら、世界はもっと平和になっている。一つ目金魚の言葉に私は静かに頷いた。
「殺す、というのは物理的な行為だ。思想、概念的なものじゃない。一方、怨みというのはあくまで思想、概念的なものだ。ここまでは理解できるかい?」
私はもう一度静かに頷く。
「つまり、怨みで殺そうとするならば、その思想、概念を物理的なものに変換する手続きが必要になるわけだ」
「その手続きがつまり――」
「そう。それが祟る、という行為だ。怨みは己の身を焦がす。祟りは相手の身を焦がす」
ふと横を見る。白い暖簾に描かれた小さな『祟』の文字に目が行った。
「だから――祟り庵」
「賢い娘は嫌いじゃないぜ。さぁ。中へ入ろうか」
頷いていたのだろう。満足そうに一つ目金魚の顔が上下に揺れた後、つい、と障子の前へと泳いで行ったので、私も後に続く。
けれど一つ目金魚は障子の前でピタリと停まってしまった。何かあるのかと私も立ち止まると、
「開けてくれないか?」
と言ってきた。金魚だから開けられないのか、と変な所に納得しながら、墓場の砂利を踏むような音を立てる障子を開けて中に入る。
窓も無く、かろうじて背後の障子を透かして入り込む明かりで判断するに、周りの壁も、今まで見てきたのと同じ、夜を塗りこんだような黒い板壁だ。八畳間くらいの広さの部屋。その中央に腰掛が一つ置いてある。座れという事だろう。
案の定、一つ目金魚に促されて腰掛に座る。一つ目金魚が私の横に並んだ。そして、
「お連れ致しました」
金魚が恭しく声を上げると、頭上にほのかな明かりが灯った――上の階があったのか。外から見たときは確かに平屋だと思ったのだが、三階くらいの高さに、揺れる灯りに照らされた障子が浮かび上がっていた。
いや、それだけではない。誰かがそこに座っている影が映っている。髪は長く、身体の線が細い。女性だろう。障子に映るシルエットは和服の様にも見える。
「――偽りの愛」
ドキリとした。核心を突かれた所為なのか、その声が美しすぎるからなのか。女性の声だ――だが何処から聞こえているのかが分からない。室内で反響しているのだろうか。
「初めて抱いた愛情を弄ばれ、身体と心を汚され、狂おしい痛みに震える魂の持ち主よ」
知っている――この人は私に起きた全てを知っているというのか。話もしていないというのに。でもあの事を口にしなくて良いというのは正直気が楽だ。
「我々、闇の陰陽師が、貴方のその怨み――祟りと成しましょう」
再び声がした――闇の陰陽師と言ったのか。
すると目の前に白い何かが滑るように飛んで来て、私の目の前でピタリと止まった。これは紙か。人の形に切り抜かれた紙だ。
「その形代に、貴方の血を頂きます」
近付いてくる気配に目を向けると、先ほどの一つ目金魚が腰の高さでふよふよと浮かんでいる。
「指を出しな」
一つ目金魚の渋い声がそう言った。どうするのだろうと思い手を前に差し出す。
すると一つ目金魚が私の指にがぶりと噛み付いた。怖くは無かったけど、少し気持ち悪いなと引いてしまう。そしてちくりとする痛みと同時に一つ目金魚が口を離して身を退いた。痛んだ指先を見ると中指の先からたらりと血が流れている。
私は成程と理解し、目の前に浮かぶ人型の紙――形代に指の血を擦り付けた。
すると血の付いた形代は上空へふわりと浮き上がり、高いところに見える障子の隙間からするりと中へ入って行った。
「貴方の身体に流れるその怨み――ここに頂きました」
またどきりとするような美しい声が響く。
「この形代が貴女の血と怨みを受け継ぎ、祟りとなるのです」
「あれが――祟りに」
私の血。私の身体の中を流れる怨みが――祟りに変わる。
そして祟りが、アイツを――
「それでは――この祟り、存分に味わって頂くとしましょう」
女性の声がして、退室を促す様に一つ目金魚が私の前を泳いで横切る。腰を上げて、ふと大事な事を思い出し、一つ目金魚に声をかけた。
「あの、お礼はどうすれば…?今は手持ちが――」
人を殺すのだ。まさか奉仕活動という訳ではあるまい。だが今は数千円しか持っていない。まさかそんなはした金で請け負って貰える物でもあるまい。すると、
「後で構わないぜ。値段も相場なんて無い。気持ちで良いのさ。払いたくなったらまたおいで。ま、俺とはこれきりだが、寂しがるんじゃねぇぞ」
と言われてしまった。障子の前まで促され、じゃあな、と一つ目金魚に言われて暖簾をくぐり、外へ出ると――
「ここって…」
いつの間にか自分の家の前に立っていた。いつの間にか傘も手にしている。雨は既にあがっていた。
夢か幻覚だったのだろうか?
一つ目の金魚が宙を泳ぐ、不思議で、何処か寂しげで恐ろしい――けれど美しい夕暮れの世界。
玄関をくぐり、傘を畳む。ふと指先に目が行き、私は動きを止めた。
右手の人差し指に血が付いている。
――夢じゃなかった。
そのまま人差し指を口に含み、ぺろりと血を舐めとってみる。
これが私の――祟りの味。
「可哀想な娘だねぇ。地味に可愛いだけに余計痛々しいや」
夕暮れ空をふよふよと泳ぎながら、一つ目金魚が呟いた。先程の娘が『外』に戻るのを見送った、『祟り庵』の店先である。
「セクハラだぞこんぺい。受けた仕打ちに美醜は関係ないだろう」
続いて『祟り庵』から現れたのは『カフェ タタリアン』で客の相手をしていた美形の男性だった。来客対応をしていた時そのままの格好で、だが脇には鞄を提げている。
「その普通っぽい所がまた萌えるんだよ。お前も歳を重ねれば辿り着く境地って奴だ」
こんぺい、と呼ばれた一つ目金魚が煽るかのように男性店員の頭の上をくるくると泳いでいる。
「僕はお前よりも年上の筈だがな」
ヤレヤレと言った様子で男性店員がそれに応じている。
「動物の実年齢と人間の歳を比べるなよ、相志」
一つ目金魚こんぺいがイケメン男性店員を“相志”と呼んだ。彼の名前なのだろう。
相志は冷たい視線をこんぺいに投げかけるが、一方のこんぺいはどこ吹く風といった様子だ。
その時だ。
女性が一人『祟り庵』の中から現れた。
年齢は二十代半ば辺りだろうか。薄紫色の、平安時代の貴族が着ていたという狩衣と呼ばれる衣装を身に付けており、女性にしては背は高いが華奢な体つきというのが手首や首筋から伺える。
腰まで届きそうな黒く長い髪は自然に左右へと流れ、そしてそこから覗く美貌は世の男性のみならず女性までも虜にしてしまいそうな。そんな凛とした、神秘的な美しさを持っていた。
「待たせましたね、相志、こんぺい」
祟り庵の上階、障子の向こうから聞こえてきた声と同じ、鈴の転がるような声で二人の名を呼ぶ女性。
「女ってのは男を待たせる位で丁度いいのさ、姐さん」
一つ目金魚、こんぺいが嬉しそうに女性へと近付いて行く。女性はこんぺいの体を数回撫でると、ペットを可愛がるようにその頭の上を掻いてやった。
「準備、全て整って御座います、紫苑様」
相志は女性を“紫苑様”と呼び、配下であるかの如くに恭しく頭を下げた。紫苑と呼ばれた女性はそれを気にした風もなく、相志の前を通り過ぎ、
「では、参りましょう。『鬼哭の辻』へ」
と静かに答えた。
いつの間にか回りの景色は黒い板塀の小道から、荒れ野を往く道といった様相となっていた。仄暗い空の向こうには茜色の雲が浮き、夕焼けの空が道往く3人の影を長く落とし、名も知らぬ背の高い道草が風に揺れている。その草むらに半ば埋もれるように立つ、首から上の欠けた地蔵の前を過ぎると一行は、うねった枯木がぽつんと立っている、うら寂しい十字路に辿り着いた。
「何をお使いになりますか?紫苑様」
相志が脇に下げた鞄に手をあて、紫苑に尋ねた。
「決まっているわ。『画図百鬼夜行、陽』を」
相志の問いかけに静かに応じる紫苑。
「畏まりました。『画図百鬼夜行、陽』。これに」
予め理解っていたかのように、糸閉じの古めかしい書物を恭しく差し出す相志。
古書と呼ばれる類のものだろう。薄緑色の表紙には、『画図百鬼夜行』と筆で記されている。
紫苑はそれを見ると満足げにひとつ頷き、
「では、支度をお願いします」
と言った。
紫苑の言葉に相志とこんぺいが頷く。
相志が十字路――辻の中央へ輪を描くように蝋燭を数本立て、その中央へ『画図百鬼夜行』を置いた。
相志が蝋燭の輪から離れると、今度はこんぺいがふよふよと蝋燭の円に近付き、その口から細い糸の様な炎を吐いて蝋燭に火を灯した。
それを見た紫苑は満足そうに頷くと、
「骨鈴を」
と言って左手を横の相志へと差し出した。
相志は脇に提げた鞄から変わった道具を取り出した。神楽舞などで巫女が手にして踊る神楽鈴という、柄があってその先にいくつもの鈴が付いた神具によく似ているが、鈴は付いておらず、代わりに白く小さい骨が何個もぶら下がっている。
『骨鈴』と呼ばれた神具を恭しく紫苑の手に乗せる相志。
紫苑は左手に骨鈴を持ち、辻の真ん中に並べられた蝋燭の輪に近付いた。
左手の骨鈴を軽く振ると、骨同士のぶつかり合うカラカラという寂しげな音が周囲に響く。
「双盃の左 塵玉の右 天を地と成す 逆撫の社」
唱えながら、左足の草履をたんたんと踏み鳴らす紫苑。右手を胸の前で握り、人差し指と中指を立て、印を結ぶ。
「黄幡の御座は地に伏して 歳破の兵主は我が前に集う」
その言葉に応じるように、四辻の草むらから何かがぞろぞろと集まってきた。
足首から上が存在しない、 草履を履いた黒い足だった。スッパリと斬られたような断面を見せ、草履を履いた黒い足首だけが、ざりざりと地面を歩き、地面に立てられた蝋燭の円を前にそれぞれ――立ったといえばいいのだろうか。足を揃えて並んでいる。だが、その足首達は右足と左足とが逆に並んでいた。
この世の物とも思えない景色の中で、異形を集め、この者達は一体何をするというのだろうか。やがてその様子を見た紫苑は満足そうに呪い文句を唱え始めた。
「逢魔が時より出るモノ
誰そ彼に横たわる形無き理の貌よ来たれ
絵姿に寄りてここに現れよ
怨みを糧に踊り出で怪異きを為せ」
蝋燭の円の中に置いた『画図百鬼夜行』の頁がパラパラとひとりでにめくれてゆき、やがてピタリと止まった。
そこには――
梅の木が描かれている。
枝と枝の間には大きな蜘蛛の巣が風に揺れ、獲物を待ち受けている。
だが獲物を待てない小さな蜘蛛達は糸を垂らし風に揺れ、口からは鬼炎を吐いて今にも踊りかかりそうな勢いだ。
だが小さな蜘蛛は風に揺れているのではない。糸が収束してゆく蜘蛛の巣の。その先。蜘蛛の糸は次第に織られ束ねられ、長く美しい黒髪と成し、蜘蛛を操る虫の腕を持つ女を形作っている。
これは子蜘蛛の母なのか。それとも巣の化生なのか。
どちらにせよ禍々しいものである事は、疑いようも無い。
そんな絵が描かれている。
紫苑は狩衣の胸元に右手を差し込んだ。抜き出された指の間には依頼人の血を受けた形代がある。
「怪威招来――絡新婦!」
その言葉と共に、紫苑は円の中に形代を飛ばし入れた。
すると、呼応するように黒い足首達も囲いの中へ我先にと足を踏み入れてゆく。
途端、排水溝に吸い込まれる汚水のように、黒い足首達が血の付いた形代へと渦を巻いて吸い込まれていった。そして全ての黒い足首が吸い込まれた途端、蝋燭の火が火柱となって吹き上がると、それは渦を巻き、巨大な焔の竜巻と化した。
炎熱と轟音が掻き消え、煙と土埃が残された『鬼哭の辻』には――
軽自動車ほどの大きさをしたなにかが居た。
黒く細い八本の脚。赤と黒色がまだらになった大きな腹部。そして頭部には。
先程『タタリアン』を訪れ、祟りを願った女性の顔がそこについていた。
これが『祟り、絡新婦』なのか。
女性の顔を持った大きな蜘蛛は、紫苑の方を向くと、口元をかぱりと横に開いた。笑ったのだろうか。そして二三度辺りを見回し、ピクリと身を震わせると、背を向けて音も立てずに走り去って行った。
紫苑はその後姿を見送り、そしてひと言呟いた。
「祟り――ここに成されたり」