4-4 幽谷響
陽がすっかり昇ってから、幽谷響は『Tatarian』へと戻ってきた。戻ってきた幽谷響は、祟りとして生み出した時の、特徴的な二面一対の顔を失い、翁の面をつけた小猿のような姿になっていた。
幽谷響は私の姿を認めると、嬉しそうに飛びついて頬を寄せてきた。
「わっっと…紫苑さん、幽谷響が戻って来ました!」
同じ部屋で待っていた紫苑さんに声を掛ける。
「では、幽谷響を返しましょう」
「返す?」
「役目を果たした祟りを御魂に戻すのです。御魂とは、喜怒哀楽、どの感情にも染まっていない純粋な魂です。御魂はやがて大きな流れの中で己が役目を見つけてゆくのです」
「進化前のイーブ○みたいなものですね」
私の例えに紫苑さんはただにっこりと笑っていた――例えが悪かったのだろうか。
「では、その幽谷響を掌で包んであげてください」
言われたように、腕と掌で翁面の小猿――幽谷響を包み込むと、気持ち良さそうに眼を細めていた。
「では、お疲れ様でした、という気持ちを込めてこの句を詠んで下さい」
紫苑さんはそう言ってメモ帳に一句したためて私に見せてくれた。
「はい――仇成せば沢の蛍もうらみよりあくがれ出づる御魂となりける」
詠み終えた私が手を開くと、そこに幽谷響は居らず、代わりに一匹の蛍が胸に乗っていた。蛍はチカチカと二、三度明滅を繰り返し、胸の上から飛び立つと窓の隙間から外へと飛んでいってしまった。
「蛍は魂の運び手。役目を終えた魂を乗せて冥府へと飛んで行くのです」
「…綺麗ですね」
紫苑さんと二人で空高く飛んでゆく蛍を見送っていると、裏の駐車場に車が停まる音がした。相志さんが帰って来たようだ。
「只今戻りました、紫苑様」
「ご苦労様、相志。それでは後の事、お願いね」
紫苑さんはそう言うと二階へと上って行ってしまった。
今回の幽谷響の祟り。一番の功労者は何と言っても相志さんだろう。
子供達の衣服の洗濯に食事の準備。私が術を使った後には荒れ放題になっていた子供達の家を掃除しながら汚れ物をまとめて洗濯。それが終わると店にとって返して、眠る子供達を家まで運び、何事も無かったように寝かせ――今に至るという訳だ。
「相志さん、大丈夫ですか?その、一睡もしてないんじゃ…」
「まだまだ余裕ですよ。ありがとうございます。それより若葉さんもお疲れでしょう。今日はお休みにしますか?」
紫苑さんからは「寝ていても大丈夫ですよ」とは言われていたが、私の初『祟り』が成功するかどうか、気が気ではなくて眠るという選択が出来なかったのだ。
それで何をしていたのかというと、ただウロウロしていただけなのだけれど。
相志さんを手伝おうとも思ったのだが、それは紫苑さんに止められた。
「相志に任せておきましょう。私達が手を出すより相志一人の方がずっと仕事が速いと思います」
と言われてしまった。正直なんとも返答に困る。さすがは執事とご主人様。
行使した術者にだけ分かる――直感的に感じるとでも言えばいいのだろうか。あの兄妹の幽谷響は、物凄い速度で祟りの対象――「兄妹の母親」を発見すると、その背中にずっとへばりついていたのだ。そして右から左から――時には胸の中に顔を沈め、兄妹の声で、急逝した夫の声で母親に語りかけ続けていた。
無理に引き戻すのではなく、自ら子育ての地獄に舞い戻るよう仕組む――トラックの運転手をも道連れとして。
希望と喜びのうちに、相手の人生を変えてしまう。歳神の祟りというものは、考えようによっては辻神よりも恐ろしい祟りなのかもしれない。
これが私、陰陽師、飯綱若葉の使う――『祟り』。
それから数ヶ月が経ったある日、とある家族が『Tatarian』を訪れた。
「どうしたの?ケーキだったら駅前のお店の方が美味しいのに…」
母親らしき女性が男の子に引っ張られるようにやって来た。
「まぁまぁ、子供達がここがいい、って言うんだし。それに案外、隠れた名店かも知れないよ?」
その後を追って、父親らしき男性と女の子が訪れた。
お客様、そのようなお話は店の外で済ませてからお越し下さいませ。
とは言ったものの、小さな兄妹と一緒になってショーケースを覗く夫婦の姿は微笑ましく、理想の家族像とも思える姿だった。
「これは…どれも美味しそうに見えるから迷うな」
「そうね…」
迷った母親は選択権を子供達に委ねることにしたようだ。
「ゆーくんとあーちゃんはどれがいい?」
「ぼくハンバーグ!」
「すぱげっぴーたべたい」
子供達の答えに驚く夫婦。慌てて母親が子供達を諫めた。
「ちょっと…ここはケーキ屋さんだよ?ケーキ買いに来たんでしょ?すいません…お腹がすいたの?」
その時、厨房の奥から相志さんが顔を出した。
「作れますよ?」
その言葉に驚く夫婦。私も笑顔で相志さんに続く。
「煮込みハンバーグとナポリタンで宜しいですか?」
私は二人の兄妹、祐太くんと亜美ちゃんに笑いかけた。
「うんっ!」
笑顔で応える兄妹に、お母さんと新米お父さんは、訳が分からずただ首を捻っていた。
書き貯め分が投下終了しました。
次なるお話は『野宿火』。喧騒の後で静かに起こる炎が燃やす祟りは如何なるものか。ご期待下さい。