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4-3 幽谷響

運営から18禁の項目がうんたら。なので一部削除。

 そして私は彼の元へと飛び出した。

 その日の夜は、私はまだ女であるという事の喜びを全身で感じられるひとときだった。

 次の日、彼は会社を休み、そして二人して同じ布団で一日中快楽を貪った。

 彼が私を貪欲に求めてくれていると思うと、嫌とは言えなかった。彼に求められなくなる事の方が怖かったから。けれど彼はそんな私を見て、

「前の彼氏はこんなにしてくれなかったでしょ?」

と、何故か得意げに笑っていた。

 何故あの人と比べるの?あの人はもっと優しかった。私の話もちゃんと聞いてくれて、いつも笑っていた。子供が出来た時にはもっと――

 いや、思い出すのは止めよう。私と子供を残して死んでしまったあの人の事は。

 私はこの人と新しい人生を歩むと決めたのだ。私にだってまだ、女としての幸せに包まれた暮らしをする権利がある筈だ。家に残した子供達は、きっと誰かが育ててくれる。


 ――でも、誰が?


 どうだっていい。

 どこに行くにもくっついて、何をするのも私を頼ってくる。風呂も布団も、トイレの中まで追い掛けて来ては私の安寧を奪ってゆく。だから捨てた。捨てなければ得られない物があるから。


 今日も彼が帰ってきたら私を求めてくるのだろう。力強く、お世辞にも技巧派とは呼べない彼が私を貪るたびに、私の心と身体は満たされてゆくのだから。

 だからといって私が派手な下着を身に付けたり裸エプロンなどという格好をするのはお気に召さないらしい。そういう方が燃えるものだと思っていたのだけど。やはり男性の嗜好と女性の嗜好は微妙に食い違っているみたいだ。

 年齢的なものもあるのだろうか。彼は私より一回りは若いのだから。

 案の定、帰って来た途端、スーツを脱ぐのも惜しいといった勢いで身体を貪られた。布団にも辿り着けぬうちにこの有様。それだけ彼が若く、それだけ私が愛されているという何よりの証拠。彼の求めに応じ、私も身体を開き、受け入れる。


 ――おかあさん


 抱かれている最中に耳元で子供の声が聞こえた。

 思わず跳ね起きて部屋を見回すが、部屋の中には私と彼の二人しか居ない。

「どうしたの?みーちゃん…痛かった?」

「子供の声…」

「子供の声?…ちょっと怖い事言わないでよ。格安物件だったんだからさ、この部屋」

「うん…ごめんね」

そう謝るが早いか彼が抱き付いてきた。

「僕もうみーちゃんの身体の虜なんですから」

可愛い事を言いながら乳房に顔を埋めてくる彼。指を私にしのばせ、かき回し始める。中で爪の角が痛い。終わったら切るよう頼まなきゃ。と思いながら演技八割で嬌声を上げる。正直、あの一瞬で熱は醒めてしまったので強制的に感じさせられるのは苦痛でしかないのだ。けど、どうせ長続きせず、すぐにしたがるのは分かっている。

 案の定、すぐに手を離し、濡れた指先を私の唇に押し付けながら聞いてきた。舐めさせたいのだろうと思い、指先に舌を絡めてあげる。

「もう一回…ね?」

こういう所が読めるというのは非常に楽だ。


 ――おかあさん


 彼にがっしりと抱かれながら、また耳元で声がした。

 この子供の声は――聞き覚えのある声だった。


 ――おかあさんおかあさんおかあさんおかあさん

 ――おかーさんおかーさんおかーさんおかーさん


 母を呼ぶ子供の声が山彦のように共鳴(リフレイン)している。深山幽谷に幾重にも響いてゆく様に。床の軋みが、布団の衣擦れが彼の息遣いが彼の鼓動が――すべてがおかあさん、と呼んでいる。

 これは――私を呼んでいる。

 あぁ。この声は――


 静寂が訪れた。部屋の中には彼の荒い息遣いだけが響いている――終わったようだ。

 彼が耳元で何か言っている。

「来てくれて、本当に嬉しいんだ。これから結婚して、そして子供が出来て、幸せな毎日が続いていくんだね――みーちゃん(みずき)

彼の声に被さる様にして、懐かしい声で名前を呼ばれた気がした。甘えてばかりの彼の声じゃなく。別の声で。それに彼は私を『みづき』とは呼ばない。

この声は、不器用だったけどとても優しかった――


 死んだあの人の声だ。


 何故忘れていた、忘れようとしたのだろう。

初めての子を抱く彼の不安そうな、だけど嬉しそうな顔。初めて三人で迎える、祐太の誕生日。祐太の代わりに二人でロウソクを吹き消したあの日の事。

 亜美が生まれ、仏前に誓った「この子達はしっかり育てるからね」という言葉。


 それなのに私は――

 遺された宝物を邪魔と思い込み、ぞんざいに扱い続け、そして――捨てた。


 全て忘れていた。忘れようとしていた傷だらけの宝物。

 捨てようと思って、背を向けたものを取り戻す時間は残っているのだろうか。

「あれ、泣いてるの?もしかして――泣くほど気持ち良かった?」

私は彼に背を向けて、座布団を噛み締めながら泣いていた。

 気が付くと、彼は私を抱いたままで眠りについていた。

 私は、眠る彼の腕をすり抜けて、身体にこびりついた汚れを奥まで洗い流すと身支度を始めた。

 祐太と亜美。二人が――二人の幽谷響(やまびこ)が呼んでいるから。


 最低限の荷物をまとめ、鞄に詰め込む。

 何か書く物は無いかと暗い部屋を見回すが見つからなかった。しょうがなく彼の鞄を探っていると、丁寧に封筒に仕舞われた紙を見つけた。

 ――『婚姻届』その紙にはそう印刷されてあった。

 ごめんね。君のおかあさんにはなれないんだ。

 鞄の化粧品ポーチから口紅を取り出し、婚姻届の表に斜めに線を引く。

 裏返してテーブルに置き、もう一筆。

『ちゃんと爪、切ってね』

そう書き残して、彼の部屋を後にした。


 ――おかあさん


 幽谷響(やまびこ)が呼んでいる。待っててね。お母さん、走って帰るから。

 この時間だと電車も無い。辺りにはタクシーも走っていない。それでも祐太と亜美の幽谷響が耳から離れない。

 色気付いてハイヒールなんか履いてくるんじゃなかった。


 ――おかあさん


 焦る気持ちと裏腹に危なっかしく走る私のすぐ横をトラックが走り抜けた。驚いて足を取られ転んでしまう。

 荷物を拾う時間も惜しいのに、こんな所で転ぶとは。しかもハイヒールの踵が皮一枚かろうじて繋がった状態でブラブラしている。こんな靴、履いて来なければ良かった。


 その時、上から声をかけられた。

 「あの…大丈夫ですか?怪我とか、されていませんか?」

顔を上げると、心配そうな表情をした男性が私を覗き込んでいた。

「通り過ぎた後で転んだのが見えて…」

意味が分からないままで前方を見ると、さっきすぐ側を走っていった筈のトラックが停まっていた。そのまま走り去ってしまえば良いものを態々戻ってきたらしい。

「大丈夫で…つっ?!」

私はそう言って立ち上がろうとしたが、足首を走る激痛に思わず顔をしかめフラついた。

「足を捻ったみたいですね…救急車、呼びましょうか?」

運転手の男性が心配そうに手を差し伸べる。私はその手を取って反対の足でゆっくりと立ち上がった。

「いえ、それよりタクシーを呼んで頂けますか?急いで行きたい所があるんです」

「どこまで行くんですか?」

「小夜鳴市まで…」

「結構遠いですよ?タクシーじゃ幾らになるか…」

「それでも…急がなきゃいけないんです」

「あの…もし良ければ、俺のトラックに乗りませんか?」

意味が分からず某としていると、男性が話を続けた。

「俺も小夜鳴市に帰る途中なんです。ちょうど配達が終わったところでして。だから…」

「でも見ず知らずの方にそこまで…」


 ――おかあさんおかあさんおかあさん


 また声が聞こえ始めた。祐太が、亜美が呼んでいる。そうだ。何を使っても急いで戻らなければいけないのに遠慮していていい訳が無い。

「じゃあ――お願いします」


 トラックの助手席に乗せてもらい、やがてトラックは走り出した。

さっきの彼ほど若くはないが、誠実そうな人に見える。しばらくは互いに無言のまま、車は走り続けた。けれど、その静寂を破ったのは私からだった。


「私…子供を残して家を出て来てしまったんです」

急の発言に驚いたのか、その内容に驚いたのか。ビクリと運転手の彼の身体が反応していた。話さなくてもこの人は私を小夜鳴市まで乗せて行ってくれるだろう。それでも話したのは――話してしまったのは。


 誰かに赦して欲しかったのだろう。


 一度口を開くと、その後は堰を切ったように言葉が溢れだした。

「夫に先立たれて、子供を二人抱えて…育児ノイローゼって奴なんでしょうかね。気が付いたら飛び出してました」

運転手の彼は何も言わなかった。罵る事もなく、かといって肯定するような事もない。

「彼の家に転がり込んだんです。けど、そこで私に求められたのは、女と、そして母親だったんです。母親を捨てた筈なのにこれじゃいけないと思って…子供達の声が耳から離れなくって。結局彼の家を飛び出して。そしたらこんな目に逢っちゃって…」

自嘲気味に笑う私。黙って運転を続けている彼。


「私、母親失格ですよね」


 そのまま沈黙が流れた。私を呼ぶ幽谷響も聞こえない。タイヤがアスファルトを噛み締めて流れてゆく音だけが響いていた。


「俺――家庭ってのを知らないんですよ」

やがて運転手の彼が静かに口を開いた。

「両親とも、物心つく前に事故でね。だから…俺の母さんも、こんなだったのかなって思っちゃいました」

私も、何も言わずに運転手の彼の話を聞いた。

「家庭を持つのに憧れては…居たんですけどね。縁が無いし、おまけに種なしかぼちゃときたもんだ。だから俺は――そんなあなたがうらやましい」

 運転手の彼は前を向いたままそう答えた。そして

「だから、失格とか合格とか、そういうのはわかんないですけど、そうやって子供と一緒に成長して――親ってのになっていくんじゃないでしょうかね。まぁ」

死ぬまで独身の男が言うセリフじゃないですよね。と言って笑っていた。


 家庭を持ちたくても持てない。家族を作る事ができないというのはどんな気持ちなのだろう。そんな彼から見たら、家族を捨てた私はどのように映るのだろう。贅沢者に見えるのだろうか。

「――急ぎましょう。着くのは明け方になると思いますから、それまで休んでいて下さい」

車内の空気を変えようとしたのか、努めて明るく話す運転手の彼。

「でも…」

「家に帰ったらまた、忙しくなるんですから。子育ては体力勝負って、ウチの社長の奥さんがいつも言ってます。市内に入ったら起こしますから」

肯定も否定もされない。ただ受け止める。それだけの事なのにほっとして、私はいつの間にか眠りに落ちていた。

 夢の中で私は、祐太と亜美の二人から頬ずりされて笑っていた。私は二人に向かって「ごめんね」とずっと謝っているのだが、二人はお構い無しに私に頬を寄せ、幸せそうに笑っていた。ごめんね。もう少しだから――


「…起きて下さい、市内に入りましたよ」


 運転手の彼の声で目が覚めた。

 まだ薄闇に包まれた窓の外には見慣れた町並みが広がっている。間違いない。祐太と亜美が待つ小夜鳴市に帰ってきたのだ。

「近くまで送りますよ」

「あ…助かります」

そのまま三十分程走り、アパートの前まで送ってもらった。


 彼の家を飛び出し、二人の元に帰ってきたのだけど、いざとなると不安で仕方がない。まだ身の回りの事すら充分に出来ない子供を放置してしまったのだ。果たして二人は私を許してくれるだろうか。もしかして――最悪の想像が脳裡を掠める。

 気が付くと私は運転手の彼に声を掛けていた。

「あの…一緒に来ていただけませんか?」

そのまま見送ろうとしていた彼は少し間を空けて、

「…不安なんですか?」

と聞いてきた。

「四日間も放置してしまったんです。何かあったらと思うと私…どうしたらいいか…」

「…分かりました。病院に連れて行くことになったら大変ですからね。お付き合いしますよ」

そう言って運転手の彼はトラックのエンジンを止めて降りてきてくれた。


「ゆーくん…あーちゃん…?」

音を立てないよう静かに戸を開け、小声で二人の名を呼んだ。大声で呼んでも返事が無かった時の事が怖かった。そのまま家に入る。運転手の彼は家に上がるのを躊躇していたが、私がその手を握って離さなかったので、結局一緒に来てくれた。

台所を抜け、居間を見ても誰も居ない。二人は奥の部屋で眠っていた。

 思わず駆け寄って布団をじっと凝視する。上下している。良かった。

「良かった…本当に良かった…」

眠る二人に顔を近付けて頬を寄せると、石鹸の香りがした。こんな小さな子供だけで風呂に入れる訳が――

「誰かが助けてくれたんでしょうかね」

居間にいた運転手の彼が、部屋を見回しながら言った。でも、助けてくれたって…どういう事だろう。

「だって部屋の中にお菓子の袋ひとつ落ちていないのは不思議じゃありませんか?」

そう言われ、部屋を見回す。入った時は気が付かなかったが、確かに私達親子が暮らしていた時よりも綺麗に整頓されている。一度出すと自分で片付けられなくなっていたブロックのおもちゃ一つすら落ちていない。

「でも、保育園にだって行ってないし、近所付き合いなんて誰も…」

だが、確かに二人からは石鹸の香りがする。誰かが風呂に入れてくれたのだろう。でも祐太は賢い子だから、知らない人に付いていく様な事はしない筈だ。

「見たところ、恩着せがましい置き手紙みたいのもありませんしね…」

ここまでしてくれたのなら、『戻ったら連絡下さい』の一筆なんかがあってもおかしくないのだけれど、それも無い。なら、二人を助けてくれた人は一体――

「不思議な事ってあるもんですね――そういう事にしておきましょう」

私が考え込む姿を見た運転手の彼にそう言われ、

「そう――ですね。不思議ですね」

私は溢れる涙を拭い、笑って応えた。


 とりあえず、家に不審な物もなさそうだったので、私は祐太と亜美が自然に起きて来るのを待つ事にした。

「良かったですね。何ともなさそうで」

ここまで付き添ってくれた彼を玄関先で見送る。

「はい。おかげさまで助かりました。本当にありがとうございます」

「…じゃ、俺はこれで」

そう言って歩いて行く彼を見送っていると、

 ――おかあさん

また呼ばれ、何かに背中を押された。よろけて二三歩前に出てしまう。その勢いで彼の背中に声を掛けてしまった。

「あ、あのっ!」

「――はい?」

迷惑そうな素振りも無く、彼が振り返る。

「い、いちおう病院に連れて行ったほうがいい――ですよね?」

「――そう、かもしれませんね」

「あの――大変厚かましいお願いとは思うんですけど…」

そんな事を言いたいんじゃないはずでしょ。と思っていると、逆に彼の方が私に声を掛けてきた。

「えぇ。あのトラック置いたら上がりなんで、そしたら――」

そして彼はちょっと言い難そうに、

「また…来ていいですか?」

と言ってきた。

「はい。お願いしますっ!」

暖かい日の出が私達を照らし始めた。それと同時に、アパートの部屋からおぼろげな鈴の音が遠ざかっていった。

ホラー成分薄め

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