4-1 幽谷響
裕太は小さな椅子を踏み台にして、ドアに頭をぶつけながらも冷蔵庫を開けた。
もうジュースは残っていない。ヨーグルトは昨日食べ尽くした。亜美の好きなお漬物も食べ尽くした。パンに塗るのは、それだけでは美味しくなかった。
「にーちゃ、りんごジュースくだしゃい」
後ろで妹の亜美がジュースをねだっている。
「ごめんね、もうジュースないや。お水のもうか」
「うん。いっしょにのも?」
「うん。いっしょにのもうね」
裕太は汚れたコップに水を汲み、こたつに寝転がる妹の亜美へと持っていった。
自分よりも小さな手でコップを包み持ち、こくこくんと喉を鳴らして水を飲む亜美を見て、裕太は『まだ大丈夫』と自分に言い聞かせた。
大丈夫。亜美が生まれてからの二年間、ほとんど全部ボクがお世話してきたじゃないか。ボクだってもう五歳なんだ。おにいちゃんなんだから。
だが、もう三日間、母親の姿を見ていない。
じゃあね、と言って家を出ていったのを見送ってから、帰ってこない。
一日目は、おしごとかなと思いながら、亜美と一緒にお菓子を食べて過ごした。
二日目で、冷蔵庫の中のりんごジュースとヨーグルトは無くなった。
そして三日目の今日、母親はもう帰って来ないのかも、という不安に襲われた。まだ二歳の亜美は、まだ「おかあさん、おそいよね」と言うくらいだけど、何も食べられなくなったら泣き出すかもしれない。泣かせたら母さんに怒られる――そう思ったが、その母親がもう帰って来ないかもしれない事が怖かった。
お金があれば、コンビニで何か買えるかも。
そう思い、おもちゃ箱から芋虫の絵がついたりんご型のポーチを取り出して、チャックを開けると、玩具ではない本物のお金が何枚か入っていた。ほっと溜息をつく。
床に落ちていたのを拾っておいたのが本当に役に立つ時が来るとは。
床に散らばるお菓子の空き袋を跳ね飛ばしながら亜美の所へ向かった。
「亜美、おかいもの、いこ!りんごジュースかいにいこ?」
「にーちゃも、いく?」
「うん。いっしょにいくよ」
「あーちゃんもいく!」
りんごのポーチを首から下げて、妹と手を繋ぎ、裕太は家を出た。
近くのコンビニまで歩き、大きな紙パックのりんごジュースと動物ビスケット、おにぎりを二つ買うと、ポーチの中身は空になっていた。
帰り道、亜美がつかれた、と言い出したので途中の公園に寄り、ベンチに座って、どうにか紙パックを開き、直に口をつけて互いにジュースを飲みあった。
「おかあさん、まだこないね?」
ベンチで足をぶらぶらさせながら亜美が呟いた。
「まだこないね」
祐太は優しく答えたつもりだったが、その声は感情のない平坦なものだった。
「さびしい?」
「亜美がいるから、さびしくないよ」
「あーちゃんもさびしくないよ」
裕太は亜美の頭を優しく撫で、
「ブランコ、していこっか」
と誘った。
「にーちゃとだっこでのる!」
無邪気に笑う亜美。
それから兄妹は夕暮れまで小さな公園で遊び、紙パックのりんごジュースを抱えて家路に着いた。
次の日の朝になっても、母親は帰って来なかった。
ジュースは亜美に取っておこうと思い、自分は水を飲むため、椅子を踏み台にして流し台の蛇口をどうにか捻った。
だが水が出て来ない。
もう一度反対に捻るが、やはり水は出て来ない。どこかにお金を入れる所があるのかも、と蛇口の周りを探したが、それらしいものは見当たらなかった。
飲めないと思えば余計に喉が渇く。
だが、このりんごジュースは亜美が絶対に飲みたがる。取っておかないと。
――でも、ひと口だけなら大丈夫かな…
亜美が寝ている事を確認し、祐太は紙パックにおそるおそる口を付けた。
そしてひと口。やっぱりもうひと口。あとひと口だけ――
久しぶりの甘味に、唇が紙パックから離せなかった。そのままゴクゴクと飲み続け、気が付いた時には、紙パックの中身は四分の一程度にまで減っていた。
「あ…こんなに飲んじゃった…」
祐太は流し台の下にある戸棚を開け、そこから大きな水筒を取り出すと、冷蔵庫に残る氷をいっぱいに詰め込み、そこに残ったりんごジュースを入れた。
「にーちゃ」
詰め終わったところで後ろから声をかけられ、ビクリとしてしまった。
「お、おう…おはよ、亜美」
「のど、かわいた…」
小さな手で目を擦りながら話す亜美。口の回りも顔も薄汚れているが、顔を拭いてあげようにも、家の水道では水が出ないのだ。
「ほれ、水筒に入れたからね。これなら飲みやすいでしょ?」
そう言いながら、水筒のカップにりんごジュースを注ぎ、亜美の手に持たせる。
「ありがと」
両手で受け取り、こくんこくんと喉を鳴らして飲む姿に後ろめたさを感じながら、祐太はある決心をした。
「亜美、今日はお外で遊ぼっか」
「うん!すべりだいに、ぶらんこ、いーっぱいしよ!」
祐太は自分のリュックに綺麗なタオル二枚、ビスケット、水筒を入れ、妹の手を引いてアパートを後にした。
公園には兄妹の他にも数組の親子連れが訪れていたが、薄汚れた兄弟の姿を見ると、子供達の手を引いてどこかへと行ってしまった。
「ほかのおうちにはおかあさん、いるね?」
「そうだね。ボク達にはいないね」
「おしごと、がんばってるんだね?」
あどけない眼差しで兄を見つめる妹の眼に――耐えられなかった。
「うるさいな!おかあさんは帰ってこないんだよ!」
亜美の手を握ったまま、大声を上げていた。
「おかあさんはボクらを置いてどっか行っちゃったんだよ!もう帰ってこないんだよ!ボクらは要らないって捨てられたんだよ!」
気が付けば泣きながら大声で叫んでいた。
亜美はそんな兄の顔を見上げながら、ひと言、
「それでも、あーちゃんはおかあさん、すきだよ?」
と笑いながら言った。
祐太は膝をつき、自分よりずっと小さな妹を抱き締めながら、泣いていた。
亜美は、そんな兄の頭にギュッとしがみついて
「にーちゃもだいすきだよ?」
と笑っていた。祐太はただ妹の胸の中で、うんと繰り返すだけだった。
公園の水道で顔を洗い、ひと箱の動物ビスケットと薄まったりんごジュースを食事代わりにして、兄妹はそのまま日暮れまでその公園で過ごした。
散々遊び続けて疲れたのだろう、亜美は祐太の膝を枕にして、ベンチで横になっていた。
「亜美、そろそろ帰ろっか」
祐太が亜美の頭を優しく撫でながら聞いた。
「――やだ」
「ここにいても、たべるの無いよ?」
「おみず、いっぱいのめるもん。かえんない」
疲れて眠くなると亜美は機嫌が悪くなる。少し寝てから帰ってもいいか。
顔をあげて辺りを見ると、あちこちの家の中に明かりが点いていた。
あの中では自分と同じ位の子供達が何不自由なくご飯を食べて、テレビを見ながらジュースを飲んで、お風呂に入って、綺麗なお部屋で眠るのだろう。
――それなのに自分は。
食べるものも無い。お金も無い。かろうじて家があるだけ。
明日の食べ物さえ、どうすればいいのかも分からないのに。
悔しさと不安。そして寂しさから、祐太はお母さん、と一人呟きながら涙を流していた。
その時、何か温かく柔らかいものが頬に触れた気がして、祐太は顔を上げた。
目の前には、一人のお姉さんが立ってた。
このたび『夕闇カフェの陰陽師』、ネット小説大賞に応募してみることにしました。
何卒応援よろしくお願い致します。