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未熟な柘榴をかじる  作者: 矢野華
3/10

1-悲劇のファミリーパーティ 2

ちょっといつもよりも長めに書いてみました。

 会議室は横に広く、部屋の真ん中には灰色の長机が置いてあり、机を囲むように椅子が等間隔に設置されている。

 安住が入って早々、奥側の椅子に座りながら持っていた書類を机の上に置いた。

「立ってるのもなんだ。座ればいい」

「は、はい」

 安住に怯えた様子で穂波は促されるまま、入口のすぐそばにある椅子に腰をかけた。穂波が座ってからもしばらく安住は持ってきた書類を捲り続け、目を通している。口を開くには微妙な空気なせいで時間だけが経っていった。その間にも安住の紙を捲る乾いた音だけが室内に響き渡る。

 ようやく二人の間に会話が生まれたのはそれから数分後のことだ。突然音が止むと思うと安住が手を止めていた。それからすぐに彼は口を開く。

「名前は高野孝児。歳は八歳。小学三年生になったばかりの男子だ。父親が事故で死んだのが二年前、それから数か月前に母親が再婚し、新しい父親を受け入れられずにいるみたいだ。そもそも彼は母親よりも前の父親の方によく懐いていたようだ。まぁ、そのおかげで今の父親とはロクに会話が出来ていない」

「ちょ、ちょっとまってください!」

安住は書類から目を離し、穂波の顔を怪訝そうに見た。

「なんだ」

「そもそも、その現世の人間を救済ってところから説明をしてもらってもいいですか?」

 穂波の言葉で「あぁ、そうか」と安住は思い出したように書類を机の上に置いて、指を組む。

「昨日全部説明し終わってなかったな。すまない。で、何から聞きたい?」

「何からって突然言われても。そうですね、じゃあ、どうやってその死にたいって思っている人たちを助けられるんですか?」

「それは人によって様々だ」

「様々」

「その人間が死にたいと思っている根源を潰せば気持ちはなくなると思うぞ」

「根源を、潰す」

 穂波は視線を下ろし、自分の手元を見た。

 ふと、自分が自殺した理由を考えてみる。勝手に他人からの評価が嫌で現実から逃げ出してきた自分の行動はもしかしたら一過性のものだったのではないだろうか。

 いや、確かに死にたいという気持ちは元からあったのかもしれない。しかし、行動に移してみるきっかけは与えられたものであり気付かない限り眼中にもなかった。

 が、この孝児という男の子は理由があってずっと死にたいというどす黒い感情を孕ませている。悪感情を羊水とし、すくすくと胎児のように育っていくソレは心を蝕んでいき、いつか宿主を死に追い込んでいく。

 いつの間にか穂波はまだ見ぬ孝児という少年に過剰な心配をしていた。

「考えすぎは禁物だ」

 安住の声に穂波は顔を上げ「は、はい」とマヌケな返事をした。

「百聞は一見に如かず。とりあえず慣れろ。そうとしか言いようがない」

「もうちょっと、コツとかアドバイスとかはないですか?」

「そんなに気になるならサジに聞けばいいだろ。あいつの方がよく知ってる」

「俺、あいつ苦手なんですけど」

「そっちもその内仲良くなるさ」

「もうちょっと何かないんですか?」

 安住を縋るように穂波は見つめた。安住は仕方ない、という様子で肩を落とすと穂波の方へ近づいた。

「手、出せ」

「手ですか?」

 穂波は安住に言われた通り手の甲を安住に差し出す。安住は穂波の手を取り、甲に透明のプラスチック台のゴム印を押す。力を一瞬込め、離すも何も書かれていない。

「何押したんですか、これ」

「いいから、そのままにしておけ」

 安住はゴム印に蓋をし、先ほどまで使っていた席に戻り書類と一緒に片づけながら話を続ける。

「多分、この少年の場合だったら死んだ父親と決別させるのが一番だろう。いつまでも死人に縋っていても意味がない。それを教えてやれば自然と今を受け入れるはずだ。まずはそこからだ」

 初めて安住がまともに回答したことに穂波は内心驚いていた。

「ありがとうございます」

 会釈をし、何気なく先ほど印を押された手の甲を見てみると数字が白く浮き出ていることに気が付いた。

「二・〇〇」

 穂波は浮き出た数字を声に出し、「何ですかこれ」と安住に聞いた。

「タイムリミットだ」

「これが切れるとどうなるんですか」

「その少年が死ぬ」

「もしかして、あと二時間後に彼が自殺するってことですか?」

「そうだ。出るなら昨日きた一階の入り口の扉を開けろ。そうすれば現世に戻れる」

 安住は尚も表情を変えずに穂波の質問に淡々と答えていた。それとは反対に穂波の頬には嫌な汗が伝っていた。

「ありがとうございました!」

 穂波は急いで何も考えずに会議室を飛び出し、螺旋階段を下りて行った。走る穂波に道行く人たちは自然と彼に道を開け、彼を不思議そうに見ていた。

 左童もその中に混じっており、すれ違いざまに穂波を横目で見ると相変わらず無邪気に笑みを浮かべていた。

 穂波は一階の入り口の扉に手を付きながら、走って乱れた呼吸を落ち着かせていた。

 大きく息を吐いた拍子に手に力が入り、簡単に扉が少しだけ開く。隙間から射しこむ光に穂波は思わず顔を上げ、安住が言っていた現世の景色を視界に捉えた。

 手前の歩道が少しだけ見え、ガードレールの奥の車道には車が走っている。人の話し声も、車のエンジン音も、鳥の鳴き声も、明るい日差しも。全てが一日しか経っていないのに穂波にとって非常に懐かしく思えた。

 そのまま吸い込まれるように穂波は扉を開け、現世へと戻った。

 すると、明るかったはずの空は一瞬にして暗くなり、街灯の仄かなオレンジ色の明かりと家から漏れ出す明かりだけが照らしていた。

「今、夜なんだ」

 ホームで時計を一度も見なかったせいか、すっかり穂波の中の体内時計が狂っていた。「空腹にならないのもそうだよな」

 穂波は食欲がなくなったお腹を軽く擦り、周りを改めて見渡す。

 扉の隙間から見た光景と同様に穂波が立っているのは歩道で目の前には車道がある。その間には白い軽く寂れたガードレールが。触ってみても何も感じない。冷たさも何も。穂波は感覚があるはずと、疑問に思うも手を離す。

 空を見上げようとすれば霞んだ白色が混ざった闇が覆いかぶさっており、視界の端には電線が張り巡らされていた。電線よりも少し低い高さの一軒家が軒を並べている。そこで穂波は自分が住宅街に出たことを理解した。

 彼が出て来たのは路地裏だったようで、後ろを向くとドアノブだけが浮いている。真っ暗闇に静まった辺りはすっかり人がいなくなっていた。

 目的地も彷徨おうと穂波が一歩を踏み出そうとした時、反対側の歩道の奥の家から一人の少年が出て来た。

 どこにでもいるような少年に見えるが、穂波は不審そうに見つめた。

 少年は自分の体よりも一回り大きいな黒いパーカーを着、辺りをきょろきょろと見回すと、迷わずどこかへと走っていった。その姿はまるで誰にも見つからないようにしているみたいだった。黒いパーカーに身を包んだ彼は夜の闇に溶けていき、走って追わないとすぐに見失ってしまいそうだ。

 穂波は手の甲を一瞥し、時間が十分減っていることを知ると少年を追った。


少年の後姿は住宅街を抜けたところで急に左へと曲がった。穂波はゆっくりと歩き彼が入っていった場所を見た。そこは公園だった。入口近くは林になっており、その奥には山が聳え立っている。林の中には道が出来ており、その先を進むと滑り台や鉄棒、砂場やブランンコなど一般的な遊具がある広い場所へと出た。

人が遊んでいない遊具たちは魂がなくなっているみたいに動かなかった。当たり前だがその様は気味が悪いほど静かで、夜の学校を彷彿とさせた。ここにいるはず、と穂波が目を細めながら遊具を見渡しているとブランコに乗っている人影があった。

「いた」

 暗がりの中、立っている時計を見てみると九時を指している。小学生くらいの子どもが一人で公園に来るにしては遅い時間に思える。それに少年は自分からここに来たのだ。ますます穂波は少年を怪しんだ。

「おとうさん」

 今にも消えそうなか細い声と嗚咽が暗闇の中で同時に聞こえて来た。

 穂波はその一言で確信した。少年の言葉から安住が言っていた情報と一致する。しかし、穂波は孝児には声をかけずに、彼の様子を窺った。

ブランコに揺られながら孝児は考えていた。こんな理不尽な現実を受け入れたくない。でも、自分には帰らなくてはいけない家がある。彼はそう分かっていたからこそずっと悩んでいた。

 子供は親を選べない。勿論死んでしまった父親と一緒にいることなど不可能だ。それならやはり新しいお父さんをお父さんと見なくてはいけない。

 孝児は公園の奥へと進んで行き、山の中へと続く獣道を歩いた。慣れない足取りで上っていく彼の後ろを穂波が追っていく。途中何度か孝児は足を踏み外し、転びそうになったが服や顔に泥が付くだけで怪我はないようだ。

 それほどまでに孝児の必至な姿を見ながら穂波は疑問に思った。

 彼は恐らくこの先の何かで自殺を図ろうとしているのだが、彼の心をそこまでして死に導く理由が分からない。穂波は胸の痛みを抱えながら孝児にばれないように丸太で作られた階段を上がっていく。

 孝児が汗を拭いながら足を止めたのは山中にある崖の前だった。穂波は生唾をのみながら孝児の小さな背中に視線をやった。孝児はつま先が出るくらい歩を進める。そのまま進めば迷わず落ちるはずだ。足が微かに震えているのが穂波には見えた。孝児だって死ぬのが怖いに決まっている。

 孝児はそのまましばらくその場に立ち止まった。しかし、動きを止めたのは束の間、彼は引き返すわけではなく「お父さん、そっちに行くね」とそのまま足を踏み外すように崖から勢いよく落ちる。

 孝児が落ちたと同時に穂波は隠れていた草陰から走って孝児の腕を掴んでいた。

「はぁ……はぁ……」

 ぱらぱらと、穂波が滑り込んだ勢いで小さな砂利が下に落ちていく。

「だれ?」

 落ちなかったことに驚いた孝児の震えた声が聞こえた。

 穂波の息をのむ声が聞こえたのか、宙づりの孝児が穂波を見上げる。

片手で何とか落ちないように崖の端を掴んでいるが、孝児を引き上げるには力が足りない。両手で孝児を引き上げようとしようとするなら穂波も一緒に落ちてしまう。

どうしようと穂波が悩んでいる間にも、ずぶずぶと穂波の腕は沈んでいき、骨が軋むのを感じる。

「あし! 足、つけろ!」

 穂波が叫ぶように言ったその言葉に孝児は急いで崖から飛び出ている石に足をつけようとする。

「よし、そのまま上がって来い」

 孝児は頷きながらゆっくりと這い上がり、穂波がもう片方の手を伸ばそうとしたその時だった。

「あっ」

 孝児が足を乗っけていた石が崩れ、穂波の腕もぐいっと引っ張られ、そのまま崖を転げ落ちる。穂波は孝児を護るように抱き、背中や頭が何度も何度も擦られ、強く打ち付け、服も足も腕も全てが泥まみれになっている。死ぬほど痛いとは正にこういうことを言うのだろう。きっと生きていたら死ぬか、全身痣だらけになって見るも無残な姿になっていたはずだ。

 投げ出されるようにして林の中へと二人は転がっていった。そこでようやく勢いは止まり、穂波の意識は一瞬だけ消える。

「うぅ」

 呻くようにして何とか声は出せた。

 穂波はこんなにも痛いなら痛覚も消してほしかった、と心の中で後悔する。

 全身がずきずきと痛む。切り傷や刺し傷なんかと違って、重く、鈍い痛みに支配される。体を動かすこともままならない。地面と体が一体化したかのような感覚に意識が危うく連れて行かれそうになった。

「おきて! おきてって!!」

 穂波は涙声に意識を戻され、震える瞼を持ち上げた。涙で瞳が揺れ動く孝児の顔がすぐそこにあった。穂波のおかげで彼は無傷のようだ。服は汚れているが目立った外傷はなく、穂波は一安心した。

「無事で、よかった」

「お兄ちゃん!」

 孝児は穂波の意識が戻るや否や彼に抱き着き、途端に泣き出した。けれど、穂波は彼の背中に腕を回すことはできない。彼はあくまで助ける対象であって、これは仕事だ。過剰な情は安住に怒られかねない。

「ぼくの、ぼくのせいでお兄ちゃんが。お兄ちゃんが」

 濡れた声で孝児は何度も「ごめんなさい」と言った。

「俺は、大丈夫、だから」

 出なかった声が少しずつ安定していった。視線を孝児から外し、右手に移す。手にも力が入るようになり、ゆっくりと骨を鳴らしながら掌を開閉させる。

「ほら、泣くな泣くな」

「だってぇ!!」

 柔らかい風に吹かれ、木々が葉を揺らしながらかさかさと音をたてた。夜の静寂にその優しい音と、孝児の泣き声だけが響く。いくら優しい音でも今の孝児に音を聞いている余裕はないみたい。彼は穂波のために泣いてくれているというのに、穂波は不思議と落ち着いた心境だった。さっきの酷くざわついた心が嘘みたいに消え去っているのが彼にとって何よりだ。

「わかった、わかったから」

 泣いている孝児にこれ以上穂波がかける言葉はない。今こうやって孝児が死ななかったことが一番だ。どうして死のうとしたかなんて野暮なことは聞けない。孝児が穂波のために泣いてくれて、生きていることに感謝している姿を見るだけで穂波は十分だった。

 ただ、死んでいる今だからこそ孝児にアドバイスが一つ出来た。

 口を開こうとするも内心、声が出せるか心配だったか時間が経つにつれ痛みが初めからなかったかのように消えていくのを穂波は感じた。こんな馬鹿なことができたのも自分が死んでいるからこそ出来たのだろう。

 今、目の前にいる孝児の命は自分とは違う。

 彼の命はいとも簡単に落とせてしまうのだ。いくら説得が苦手な穂波でも、体を張って孝児を護れる。けれど、どんな事情があろうと穂波は孝児に言いたいことがあった。「命を大事に」なんて言葉じゃきっと彼の心に響かない。だから、穂波なりに言葉を紡いだ。

「人生っていうのはあっという間に終わる。あんたが死ぬのは今じゃなくて誰かに看取られる時だと思う。それに後悔しながら死んだってきっと死にきれないで地縛霊になるぞ」

 笑いながらそう言った穂波の最後の地縛霊という言葉に孝児は彼が掴んでいた手を見ると、肩を震わせながら「それはやだ」と思いっきり左右に首を振る。その際、孝児の首元に爪痕がちらりと見えた気がした。

 穂波が足に力を入れると、そのままあっさりと立ててしまった。自分の回復力に驚いたが死んでいるなら納得するしかない。

「お、お兄ちゃんだいじょうぶなの?」

「まぁ、この通り」

 予想以上に無傷な穂波に孝児は目を瞬かせた。彼は「う、うん」と戸惑いながら頷く。

「ほら、帰るぞ」

 穂波が入口に向かおうとするも、後ろからついてくる足音はない。振り向いた穂波に孝児は首を左右に振った。

「ぼく、でも」

「帰れない事情があるのか?」

 穂波の問いに孝児の肩が分かりやすく小さく動いた。

「あるのか」

 孝児は何も答えてくれない。代わりにこう聞いてきた。

「おにいちゃんはどうしてぼくを助けてくれたの?」

 立ち止まっている孝児に穂波は近付いていき、孝児と同じ目線に座った。

「人が死のうとしているのは見てていいものじゃないだろ。それに」

「それに?」

「名前も知らないし、初対面だからこそ何か相談できるんじゃないか?」

 穂波の言葉に孝児は目を大きく見開き、すぐに目線を逸らした。

「でも」

「人の好意は受け取って損はないと思うけど」

「ちがう!!」

 いきなり孝児が大声出したことに穂波は少しのけぞった。それでも動じずに孝児を見ると、彼は怒って大声を出している様子ではなかった。孝児の体は何かに怯えるように震えている。

「ごめん、おにいちゃん。さようなら」

 孝児はそれ以上口を開くことはなく、公園から出て行った。

 彼の変な様子から穂波の中で一抹の不安が蟠りと化していた。まだ完璧に一件落着とは言えないような空気がひしひしと伝わっている。

 しかし、今ではこれ以上孝児に関わると怪しまれることから穂波は帰還することに。

 帰路の途中で手の甲を確認すると、スタンプは薄れていた。しかし、本当に孝児の心から死にたいという気持ちは消え去ったのだろうか。もし、それならどうしてあんなに何かに恐怖していたのだろうか。解決したのか疑問に思うどころか、反比例するみたいに悩むことが増えてしまった。

「こんなにこれって大変なのか」

 穂波はそう一言呟くと、路地裏からホームへと帰った。

 帰ってきて早々、穂波が会ったのは左童だった。

「おかえりー」

 彼は待ち伏せしていたかのように、壁に背中を預けていた。相変わらず飄々とした笑顔は何を考えているか分からない。

「どうだった」

 穂波は彼のテンションについていけず、半ば鬱陶しがりながら口を開いた。

「みんな、あんな感じなの」

「人それぞれだけどね」

「あぁ、そう」

 そう返しながら穂波は左童以外に、もっと仕事に慣れているような友人を作ろうか悩み始める。

「なんだよ、つめたいなぁ」

「こっちは初めての仕事で疲れてるんだよ、さっさとどこかに行ってくれ」

 穂波はしっし、と左童を手で払いながらスタッフの自室がある廊下へと向かおうとする。

「えー、そんな疲れること?」

 左童は一向に口を閉じようとしない。穂波は渋々彼の方を向き言葉を返した。

「こんなの初めてだからって言ってるだろ」

 穂波のきつい口調に左童は一瞬呆気にとられたが、すぐにいつもの笑顔を取り繕うとしながら淡々とした言い方で言った。

「ボクもキミみたいな人初めてだよ」

「は?」

「そんなにぼろぼろになって帰って来た人は初めて見た。さながら誰かを庇ったみたいな感じだね」

 穂波は視線を逸らし、小さな声で「うっせ」と呟いた。

「あはははははは!!!」

 突然腹を抱えながら笑い出す左童に穂波は一歩すり足で下がった。しばらく左童の爆笑は続いたが誰も来ない。就寝時間になっているみたいで益々静かな空間に笑い声は響く。

「傑作! これぞ傑作だよ!! あー、よく笑った。キミ、本当に馬鹿正直だね。というかわざわざ庇う? いや、それよりも半分死にそうでもなった?」

「何が言いたい?」

 穂波の頬に冷や汗が伝った。

「いくらボクたちが体を張ってアイツらを護ったところで、その気持ちが響かない人間だっているものだよ。相手もこちらも初対面なわけ、そんな簡単に人を信じられるわけないじゃん! 人間というものは醜い生き物だよ。好意なんていとも容易く潰すことができてしまう」

「だから何なんだよ!」

「それはこっちの台詞だよ。あ、ボクが伝えたいことだっけ」

 左童はわざとらしく「んー」と顎に指を当てて悩む素振りを見せた。

「キミの好意も虚しく彼には届かなかったみたいだね」

 穂波の心が一層大きくざわめいた。嫌な予感が当たった時はびっくりするほど動揺するものだ。踵を返し、もう一度現世へと戻ろうとした穂波の肩を左童が掴んだ。

「今日はもう遅いからやめなよ」

「っ!」

 穂波は振り返りながら左童の手を払った。

「だって、こうしている間にも!」

「キミに何ができるわけ?」

 その言葉に穂波は眉をひそめた。

「なに?」

「体を張っても彼はキミを信じずにまだ死のうとしているわけだよ。もうキミがいくら喚こうが、説得しようが彼にキミの言葉は響かない」

 穂波は何も言い返せなかった。否定することもできずに、力なく佇むことしかできなかった。

「おい、何してる」

 先ほどの左童の声を聞いて安住が様子を見に来た。

「ん。なんでもないよ。ただホナミがまた現世に行こうとしたからボクが止めただけ」

 嬉しそうに答える左童を安住が一瞥し、すぐに穂波に視線を移した。

「そのボロボロなの、どうにかしろ」

「すみません、崖から落ちて」

 か細い声で答える穂波にまた左童が笑いを堪えている。

「サジ、お前さっさと自室に戻ってろ」

「はーい」

 左童は素直に螺旋階段を上っていった。その後ろ姿を安住は見送ると穂波の方へと向き直った。

「で、だ。何があった」

「あいつが、左童が孝児はまだ死にたいって思ってるって言ってるんです」

 安住はそれを聞いて数秒口を閉じ、「そうか」とこぼした。

「で、でも! ほら、これ。消えてるんです」

 穂波の差し出された手の甲を安住は見た。安住が少し眉間に皺を寄せたのを穂波は見えた。安住がそんな表情をした理由は一つだ。彼が見ても分かる限り数字は消えかかっていた。ただ、完璧に消えているわけではない。そこに安住は表情をこわばらせた。

「消えかかってるな」

「え? 消え、かかってる?」

「あぁ、完璧に消えているわけではない」

「それって、まさか」

 目を見開く穂波に安住は言葉を止めない。

「サジの言っていることは間違っていない」

 生唾をのみこんだ音が穂波の中でやけに大きく聞こえた気がした。安住の言われた言葉を信じたいとは、まず思わない。しかし、左童も安住もそう言っているのだ。確証を得るには十分な証拠だと言える。

「俺がしたことは、意味がなかったんですか?」

「そうじゃないだろ。消えかかっているし」

 意気消沈している穂波に安住はいつもと変わらない口調で言った。

「それは確実にあの少年の中で何かがあったのは事実だろう」

「そう、ですか」

 ホームに帰ってきてから穂波の表情に一向に晴れない。安住は自室に戻ろうと踵を返すと、穂波を励ますように肩を優しく叩いた。

「とにかく。今日は色々あっただろうから休め。まだ仕事が残っているなら明日行け。以上」

「でも」

「でもも何もない。反論は認めないって言ってるだろ。いいからさっさと自室に戻れ」

 一段と厳しい口調で安住に言われた穂波は猫背になって二階へと向かった。

最後まで読んでいただきありがとうございました!


ところで、ホームに関しての補足説明を少しさせていただこうかと……。別に読んでないからと言って本文を読んでいただく際に分からなくなるということは恐らくないかと思います。あくまで興味があれば読んでください、という気持ちで書きましたので。

・大まかに設定するとホームにいるのは児童だけではなく、主にいる年齢層は十八歳~二十代。八割方は若いのばかり。年齢が上になるほど自分の死に悔いは残らず、そのままきちんと死んでいく。しかし、思春期を拗らせている若い学生たちの場合、親や周りの人間に「未来がある」など未来を保証されるような言葉ばかりかけられて生きて来た子が多く、心の中では自分の死に納得しないのばかり。

 ここにいる人間はみな死んでいるため、老いもしない。施設にいる期間がきちんと設けられているわけでもなく、ずっといようと思えば永遠にいられる。しかし、仕事はずっとしなくてはいけない。


他にも補足説明はあるのですが、まだその要素が本文には出てきていないので出た時に再度、補足説明を挟もうかと考えています。

それではまた来週に月曜の深夜に更新いたします。

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