未踏 4号 「癌体験」
「癌体験」
一月二六日
十一月初旬、頭痛と目まいが心配で病院を訪ねた。成人病検査を受け、ついでに胃の透視もたのんだ。とりあえずは疲労でしょうとのこと、数日後検査。
検査結果一カ月経っても来ないので℡。翌日には届いたが、さしたる異常はなし。胃の結果はついでの時にでも来て下さいとのこと。
癌体験
一月二六日
十一月初旬、頭痛と目まいが心配で病院を訪ねた。成人病検査を受け、ついでに胃の透視もたのんだ。とりあえずは疲労でしょうとのこと、数日後検査。
検査結果一カ月経っても来ないので℡。翌日には届いたが、さしたる異常はなし。胃の結果はついでの時にでも来て下さいとのこと。
年の暮れ、仕事のついでに立ち寄った。病院、多く暗い顔の人々、私は検査結果だけ。
その頃身体は快調だったから、待つ事が退屈。長々と待たされての結果発表。
「潰瘍がありますね、それも相当深いですね」
「エッ、そんな、何処ですか?」
医師が一枚のレントゲン写真の上部を示した。平らな胃壁の一部がくびれている。
「でも、どこも痛くないですよ」
「ちょっと横になってみて下さい」
医師は潰瘍の場所らしい所を、二、三箇所押さえる。
「はん痕かも知れませんね、でも念のために胃カメラをやった方がいいでしょう」
二十才より何度も透視はやり、胃下垂以外異常はなかった。二年半のブランクが異常を作ったのか。
数日後胃カメラ、初体験。喉元を通る時に吐き気数回。後は力を抜いて辛抱。胃壁を何枚もの写真、ファイバーが回転しながら上下する。五分位が数十分に思える。フイルムが取り替えられる。脇の下、額から汗。苦痛に歪む私の顔に応えるように医師の声。
「あと少しですから」
ファイバーに針金を入れて胃壁を掻き取ること五回。忍耐の限界近くで検査は終わった。
「大腸検査も苦しかったけれど、胃カメラも苦しい」
私は笑いをつくって医師の机の横に座った。
「潰瘍ですね」
「はん痕じゃないのですか」
「いえ」
医師の短い返事、決定的となった。
「良性か、悪性かは?」
「細胞検査に出しておきますから」
十日後に細胞検査の結果を聞きに来て下さいとのこと。定期検診のつもりで受けた胃の検査、それが胃潰瘍。途端に憂欝になる。
一月八日
「手術しないとダメでしょ」
最初の医師ではない、さらに年若い医師がカルテに顔を落としたまま言う。
「エッ」
又しても「エッ」である。検査のつもりが潰瘍発見で、それが手術。
「どうしてですか?。最近は潰瘍は薬で治せると聞いていますが」
「深さもあり出血もしているようですから」
「細胞検査の結果はどうだったのですか?」
「良性です」
質問以外は説明しない医師。
「そりゃ、胃下垂ですから切ってもいいですが」
私はまだ冗談を言っていた。
「すぐ入院手続きをしましょう」
「いや、待って下さいよ、仕事の都合もありますし」
初めて医師が私の顔を見た。私は何も納得出来ていなかった。
「突然入院だなんて言われても」
呼ばれて入って来た看護婦にも私は言っていた。
「先生がおっしゃるんだから」
看護婦は入院手続きの用紙とボールペンをもって立ち尽くしていた。
「突然言われたって無理ですよ」
私は入院する気などなかった。
「外科に聞いてきますから」
私の納得しそうにない様子を見て、医師は出ていった
五時に外科で再診察、相談ということで帰る。
「手術だって」
エミの「エェッ」の声。
五時、エミと一緒に再度病院へ。
外科の医師というのは、私の胃を覗いた医師だった。
「切らないと治らないでしょうね」
私よりいくらか年下の、柔和な顔立ちの医師、言葉は少ないが診断を翻しそうにない。
「心配だったら、他の病院でも見てもらって下さい、紹介状も書きますよ」
判断に間違いはないといった様子。
「深いし、出血もしており、なにより医者が切らなければ治らないと言っているのだから」
私は、何かを怒っているようなエミに語りながら、自分にも言いきかせていた。
他の病院で、再検査をするにしても、入院手続きだけはしておかねばと思い、エミの同意を得て決めた。
一番気がかりだった仕事は、入院まで二十日間の猶予をもらい、めどがたった。あとは静養のつもりで、心境の変化を期待して、手術に臨もう。
私は、手術をすることに決めていた。
エミを医務室に残し、私は入院前の検査ということで、各検査を受けに回った。
帰ってから、レントゲン技師のHに電話を入れる。「潰瘍で切るものなのか」と。「ケースによる」と言う。手術を了解したものの、残る「潰瘍くらいで何故」の疑問。いったい潰瘍とは何者なのか。
夜、Hがやって来る。「今日は飲もうよ」と、近所の養老の滝へ行く。Hは自分の離婚の話、新しい恋人のことばかり話す。私はその都度相談にのってきた行きがかりじょう、話を合わす。エミは涙をこぼしていた。私の気をそらす為かも知れないが、Hの話は不愉快。エミは頭痛がするといって先に帰る。Hはその後も、自分のことばかり、私は苦痛になるが十一時まで居る。帰り道、やっと私の話を始めたHは、癌センターでの再検査を勧める。私も複数の検査の必要は感じ、予約を頼む。
いずれにしろ、手術する理由を自分に言いきかせた。
一、専門家である、医者が判断しているのだから。
一、苦しんできた胃下垂が治るだろうから。
一、家系的に癌体質なのだから、手術すれば良く判る。
一月二七日
エミと飲食税申告に田町へ、商工会へ。途中銀柳街でエミ、入院用のサラシ、嘉樹のズボンを買う。私は「名医が語る気になる病気」という本を買ってくる。
帰って、すぐに仕事。入院迄に仕上げなければならない仕事が山積。忙殺。夜、エミの姉のキクちゃんよりTEL、HよりTEL、etc、etc。その都度エミが涙ぐむ。私はそんなエミを見ながら、ことの大変さと、エミの悲しみ、不安を思う。
OのTELが切っ掛けで、私は癌を疑う。エミの涙は、私の不幸と不安から来ているものなのだと。私、買ってきた本を読む。胃癌について。が、まだ半心半疑。私は、涙ぐむエミに、手術の必要について、昨日の自分で決めた三点を力説。
「私は、貴方の家が、癌の気があるとは知らなかった」と。
私は決定的にエミの不安を感じたのだった。
仕事が手につかなくなった。
「僕は、自分が癌でもどちらでもいいんだ」と居直るように言っていたのだが、不安は隠せなかった。考え込む度に、エミの不安がこうじて行くのが解った。
自分の不安よりも、エミの不安が心配だった。エミは確実に私の癌を疑っている。
私は、Hが勧める再検査を断ろと思った。癌か癌でないかはっきりさせない方が、今のエミには善いことだと、近くに住むHのマンションに出向く。
新築のマンションだというのに、様々な物の匂いが混じった、散らかった部屋に、パンツ姿のHがあった。
「僕だったら事実を知りたい。事実を知って、やり残しのないようにしたい。一年あれば、日本中を車で走りたい」と、「山口さんもやりたい事があるでしょう、怒りや、憎しみも、正直言って、山口さんの小説は物足らない。事実をちゃんと知れば、もっと迫った良いものが書けるのではないか、惜しいと思う」と。
私は「事実などどちらでもいいのだ。エミの事を考えると、知らない方がいい、むしろ小説の為なら、不安を抱えた生き方の方がいい。譬え事実を知ったからといって、良いものが書けるとは思わない。僕とはそういう人間なのだ。僕は今、キルケゴールとは違った不安の哲学を生きてみようと思う」と。
Hは残念そう。
「そりゃ、山口さん自身が決めることですから」と。
私は何物にも揺り動かされない、覚悟を持たねばと思う。事実を希求はするが、今はどちらでもいい、おそらく悪性だろう、悪く、悪くとらえて行くだろう。その中で耐えて行こう。何故なら、この数年の私の意識は、否定思想だったから、物事を否定的にとらえて行くことにあったのだから。死という、大きな否定の前に、佇み、躊躇していた私だったから。
明け方四時までエミに語る。私の不安の論理、否定の論理を。
「かも知れないの現実的認識の大切さ。これが私を、きっとあらゆる物への開眼をさせる」と、「二律背反や、かい離、偽善から私を救う」と。「まだ二日目の事で、こうした不安に慣れていないので、興奮的ではあるが、慣れた時には、この不安の論理は僕の大きな支えになるだろう」と。エミに同じ地点に立つ事を求める。
一月二九日
夜、O来てくれる。癌体験者である彼が講義をしてくれた。手術過程、術後の経過など、大方理解した。癌を告知されていた彼は、その時以来考えてきたことを語った。検査によって癌と解った時にこそ、患者には知る権利があるのだと。手術してから知らされたのでは人生を選ぶことが出来ない、手遅れだと解れば手術しないで、残された時間をやりたいことに当てることが出来ると。だが、早期癌の場合、内視鏡による表皮の検査だけでは、百パーセントの判定は出来ない。よって、切ってみて初めてハッキリする問題ではあると、
そして、その結果は必ず家族に知らされることだから、その時から出発を始めればいいのだと。本当は、癌か癌でないかの問題は、滑稽なことではあると。にも関わらず心情的には、残りの年数が限られることの苦痛から、恐れるのだがと。
これらを聞きながら、私の心の変化。
昨晩までは、「かも知れない」不安を互いに保って生きて行こうなどと、まだ出発もしていないのにヒロイックに考えていたことが、一人よがりの感傷に思えてきた。エミの悲しみが、今まで自分のものだと思ってきた夫の肉体が、運命の手によって奪われようとしている悲しみなのだと、ありもしない不安を持って生きて行くことは、苦痛であり、不幸であると、それは私の勝手であり、エミの本意ではないのだと。やはり、癌か癌でないかを確かめるべきではないかと。だが、途中で変更した。私が癌を疑えば、疑うほどエミが不安な顔をし、Oは「いずれわかるから」と言う。
私、最後は「知る権利はエミに任せる」と。
二月一日
「時間の尺度について」
一年と云えば まとまった作品を一つか二つ
二年と云えば 聖書、仏教聖典を読んで、作品も三つか四つ
三年と云えば なにも読まず長編を一つ
五年と云えば 作品も哲学も、遊びも過不足なく出来る
十年と云えば もう時間ではない
二月十二日
HよりTEL、エミ、K病院の不安言ったらしく、Hが知人を介してI病院を手配。連絡とれて十三日入院となる。エミの安心が、今の私には何より必要、決める。
夜、H、T、妹、来る。入院告げ、雑談す。
k病院からのフイルムは、私にその潰瘍の大きさ、異常さを感じさせた。癌か癌でないかより、切るしかないと思わせた。薬や、食事で治せるようなものではないと思わせた。
「入院に際し、子供達に言った事」
兄弟げんかをしないこと。母さんの言う事を良くきくこと。自由、気ままだったと思うから、一カ月くらい、訓練のつもりで、ロボットのようにやって欲しいと。また、テレビゲームは土、日だけにして、あとは手伝い、勉強にいそしんで欲しいと。
二月一三日
七時四五分起きる。眠いがHが八時に迎えに来るから。子供等を学校に送り出し、九時前に出発、半頃にはI病院に着く。紹介の為か素早い事務処理、三十分後にはT医師の診察を受ける。
蛍光ボードに次々とフイルムを差し込み、何事かを呟き頷くと、私の方に向き直り「これとこれ以外は問題無し、だがこれとこれが問題、よく撮れたものだ、撮る角度がたまたま良かったのだろう」と言いながら、K病院からの紹介状を読む。そして合点するように読みわる。
「納得がいかなかったでしょう。私ははっきり言う主義ですから、今は潰瘍だけでは切りません。私はこの二枚のフイルムから癌を疑います。K病院も同じ判断だったのでしょう、
癌を疑って切ることに決めたのです」
私の落ち着きを見定めて、続いて胃カメラのスコープを映した
「ここが問題の箇所ですが、周りの状態から見て疑わざるを得ません」と言う。
「納得しました。癌と疑われてだったのですね」と私。
ロビーで待つ、エミとHを診察室に呼ぶ。「はっきり、癌を疑う、即ち癌だと」告げる。
「全摘になるのでしょうか」の私の質問。
「転移等があるか見て、また部位から四センチ取れるようだったら残す事も考えます」と。
私の後遺症の不安にたいしては「後遺症はあります。私は他の医者のように調子の良い話はしません」と。
終始、大きな声で、濶達に、よどみなく話す。私の中途半端な質問にも、明快に、私の心理を読むように応える。私は何も質問をする必要がなくなった。エミもHも同様のようだった。Hは顔を作って笑っていたが、ショックを隠せないようだった。エミは不安が的中し、笑いはなく、ひたすら覚悟を決めようとしている様子。私、平静、最初の不安の時、ラストスパートをどこかで誓っていたのだし、この数年は、収穫は少なかったが、スパートをかけていたから、その延長にあるだけ。転移していても、最低五年はあるだろうと。
H帰り、エミと二人病室に落ち着く。エミ外見は平静、四時まで語る、二十日前語った事の確認など。二人とも、生きたいように生き、充分楽しんだ、ただまだ少し早いというだけと。とりたてて話すこともなく、手を触れあったり、見つめあったりして過ごす。
三時三十四分のバスで帰る。
「朝の喫茶室」
あと一週間で、随分無理もきいてくれた胃ともお別れだからと、今日もコーヒーを飲みに喫茶室に降りた。
満席の月曜日の喫茶室、四人掛けが六卓ほどの病院の廊下を区切っただけの喫茶室だったが、唯一の暮らしの匂いを求めて、患者やその家族で混みあっていた。
隅に一人、うつろな顔で座っている、もの静かな男に合席をたのんだ。
私の会釈に軽く答えてくれたその男は、コーヒーカップを持つ手も大儀そうに、眼鏡の奥には黄色い濁った瞳をたたえ、皮ジャンパーにくせ毛の薄くなった頭、浅黒い日焼けの顔を乗せ、背を丸めていた。私の気楽なそぶりとは違って、暗く重々しかった。
私は男の孤独を邪魔してはと思いながらも、話す切っ掛けを求めていた。
男が左のポケットより煙草を一本取り出し、右のポケットにライターをさぐっている時、私はライターを差し出した。
「どこがお悪いのですか?
「脳外科です」
火をつけ終わったその男は戸惑いながら答えた。
「脳こうそくとか?」
「いえ、高血圧で」
男は詳しくは言いたくないようだった。一こと言っては私の顔をチラリと見ていた。
「私は来週には胃を取ってしまうので、最後のコーヒーと思って」と私が相好を崩しながら言うと「私も胆石があって、来週には入院になる」と打ち明けた。
「人間の身体って案外弱いものですね」
私は身体が資本だろうその男になぐさめを言っていた。
「ほんとうですね」
男は歯をむき出して笑い返してくれた。歯には黄色い歯垢がびっしりとついていた。
私の実感であった。大した無理でもないのに、煙草が原因とも思えないのに、胃ガンにかかってしまった。病んでみると、人間の体なんて弱いものに思える。きっと働きづめの、飲みづめのその男にとっても病んでみて、大した無理をしたとは思えないだろう。
「お先に」
会話が途絶え、私もボンヤリ煙草をくゆらしていたら、男は先に立ち店を出て行った。
皮ジャンバーに両手を突っ込み、ゆっくりと自分の棲み家でも探すように、待合室の方へ歩いて行った。
「肺化膿症、肺結核と言う男」
「四十五年前に結核を患い、肋骨を六本も取ったのけれど、それが今ごろになって再発したっていうんですよ」
「普通の結核だったら一年位で治ると思うんだけれど」
「私もね、肺化膿症という病名らしいのですが、血痰が出ましてね、肺にたちの悪いバイキンが入って、膿んで腐っているって言うんです」
同室の二人の老人、ともに病名を肺結核にしている。結核ならばいつか治る、たちの悪い結核にしておきたいのだ。
「祈る少女」
入院して三日目、検査も順調に進み、少し心に落ち着きを取り戻した頃だった。四、五十メートル隔てた向かいの病棟に、夕食時、手を合せ夕陽に向かって祈る、二人の女性の姿を見つけた。一人はピンクのパジャマを着た、おかっぱ頭の少女。もう一人はその女性の母のようだった。目鼻だちまでは、はっきりしない距離で、私はパジャマの女性を背丈などから、勝手に少女と決めつけていた。
夕陽を受けた窓辺に、ベッドの上に座ったその少女と、その後ろで椅子に腰掛けた母が、食事前の数分を、両手を合せ祈っていた。祈りたい気持ち、すがりたい気持ち、私は少女をはじめこの病院の殆どが癌患者である事を知っている。私自身も初期とはいえ、転移の不安は残っている。祈る少女に私も心を重ね、見守っていた。祈りおわり、少女がベッドに座り直した時だった、少女が一瞬、私の方を見た。咄差、私は何か心を通わせたい気がして、少女に手を振っていた。
「キーツの詩より」
涙を流さないで ああ涙を流さないで
花はまたの年にも咲くでしょう
もう泣かないで ああもう泣かないで
若い蕾は根の白い芯の中で眠っている
涙を拭いて ああ涙を拭いて
私は楽園で教わった
美しい調べに心を和らげることを
涙を流さないで
頭の上を ごらん頭の上を
白や赤の咲き乱れた花の中を
見上げてごらん 見上げて
私はいま飛び交う
あの赤味がかった石榴の枝の上を
私をごらん いつでも善い人の痛みを癒すのは
この銀鈴を振るような歌声です
涙を流さないで ああ涙を流さないで
花はまたの年にも咲くでしょう
さようなら さようなら
私は飛んで行く さようなら
私は青い空に消えて行く
さようなら さようなら
二月十四日
君とめぐりあって、十八才の時から四十才迄、二十二年、一緒になってから十六年、少しの空疎さもなかったと、僕は確信している。うたごえで知り合った君、きらめいていた瞳、透き通った声、敬愛をこめて呼んでいた「エミちゃん」そのものだった。結婚生活、「この幸福が怖い、いつか毀れるのじゃないか」と君が言ったほどの君と僕との結合。互いが不死であるなら、永久にと思えたほどの、君と僕との一体感。今も続いている。
現実的な君に、いつも僕が言ったこと。「世界のどの夫婦よりも、僕等は精神的にも肉体的にも一緒に居る時間が長く、恵まれている。僕はこの君と居る、一緒の時間こそ最高の価値としているのだ」と。子供達さえ羨む、僕と君との関係、何一つ後悔はない、君も同じ感想だった。このことだけはしっかり確認しておきたい。その上で、これから新しい生活を始めることになるのだが、どこかで僕は今までと少しも変わらないで、いつも明るく、いつも元気な君や子供達と、小説も今まで位のガンバリでまだ続いている、幸福感をむさぼっていたいと思うのだ。僕にとって小説は、僕の救済だけで充分なのだ。僕と君の幸福の触媒でいいのだ。僕は君や子供達からの栄養を糧にして書いているのだから、僕が思い込みの強い、独善的、悲愴的なものが書けるのも、君のヒマワリのような明るさがあったからだった。僕は人に孤独や、実存を言う時、僕は君の胸に顔を埋めて言っているような後ろめたさを、いつももっていた。全ては、君や子供達の土台の上にあった。
人生を二十五才でいいと十代に考えていたという君、大変な成熟度だと思う。そうした感情があったからこそ、人の相談にも親身になり、明るく、楽天的に振る舞ってこられたのだろう。おつりで生きている君だったから、君は僕に惜気もなく与えられ、僕は天からの賜り物のように受け取った。今僕は、君に少しの心配も持っていない。もちろん許されるのなら、今まで通りの君と僕の関係で行こうと思っているが、君には二人の子供がおり、何より充分な僕との思い出があるのだから。
これからの僕は、もっと生活を気兼ねなく楽しめるようになると思う。書いていないとか、人は暮らしに追われているとかの、後ろめたさを持たず、人生を味わい尽くして行けるのではないかと思う。僕はこうした転機がほしかったのだ。過去が苦難であったのに、何故、苦難を自らに課すのかと誰かが言っていたが、僕は過去を思うと幸福過ぎて、罪を畏れ、自責にかられてのことだったのだ。今、ここにきて僕は許されていると思う。充分に人生を楽しみ、味わったら良いと言われたような気がするのだ。元気になったら、今まで以上に生き、愛し、書いて行こうと思っている。
一九八八 二 一四
「希望」
私は毎夜睡眠薬をもらって眠っていた。それでも夜中に一、二度は眼が醒め、四時頃からは眠らないで夜明けを待つ事が多かった。
五時半には看護婦が採血に来るのだが、それがとても待ちどおしかった。呻き声、鼾とは違った健康な艶やかな看護婦の声は、私の失いたくない生活の声だった。
その日、手術の前日、私は世界の意味、そして人生の意味を結論付けないではいられなかった。絞首台に臨み、一服の煙草を吸う間に世界を解釈するだろう死刑囚のように。
私は白みかけた窓の光を見付けると、まだ眠っている病室を抜け出て屋上へ向かった。
朝日を見たかった。その日の初めを、残された一日の始まりを。死刑囚には僅か一分足らずだが、私にはあと二四時間という時間がある、その最初のものとしての一コマを見定めておきたかった。
遅い春。冷気が肌を刺す。空と地の青白い二層形の世界が霞に覆われて拡がっている。
動くものはなく、たつ音はなく、物としての形はあるのだが、生き物としての姿はない。
意識が発生する前の物達だけの世界。かすかに流れ出した風もまた意志を持ってはいない、眠る家々も、木々も、遠くの山並も、誕生前の姿、子宮の中の世界。予感を秘めた胎動があった。東の空には物達が黒から青へ、輪郭を現し、様々な色彩への誕生の期待が在った。私は一瞬を見ようと、その予感の拡がる辺りに眼をこらし見つめた。
誕生の一瞬。世界の意味がそこに始まっているだろう一瞬。金環食の閃光のような太陽のかけら、朱に彩られた雲の中から世界が一瞬にして誕生した。
眩しさ、暖かさ、色と音の誕生、風に意識が、草に木に動きが、私はそれらあらゆる物達の誕生を、暖かみを増す陽の光りの中で見ていた。初めに鳥たちが呟いた、次に木や草が揺れた。
一瞬にして訪れた誕生、私は理解していた。
世界の意味とは、存在ということ、人生の意味とはこの存在の認識ということ、物達がこの光によって誕生し生かされてあるということ。この生かされてあることの認識が全て、
物達にはこの認識が備わっている。私に、いまのいままでそれは無かった。生かされてあることに驚きも感謝もなかった。私が明日手術に臨むということ、転移があろうが無かろうが、今こうして生かされて在るということへの驚き、それは、鳥や草木と同じ生かされた姿。この存在に嘗てどれだけの重さを感じていたのだろうか。私の意味とは、この私のもつ重さだった。私とは、生かされて在ったという認識、生きては来たのだが、大きな何者かの力によっていまのいままで生かされてきたということ。私は飛び込んで来る、陽の光と物達のざわめきに溶け込んでいくようだった。
私は人生の意味が、この意味を問う一瞬にあったことを知った。いまのいまを生かされて在る、この一瞬一瞬が人生の意味だと解った。恐れるものはなかった。人生とは一瞬一瞬であり、明日でもそのまた明日のことでもない。死刑囚達、一分で充分だったのだ、人生の意味は一秒あれば解けるものだった。
こうして私とは、物達が放った一瞬の光り、一瞬の輝きだと考えたのだった。
「車椅子の男の退院」
喫煙室にて、昨日までの暗い顔が嘘のように、彫りの深い顔が、私に笑いかけて来た。
「明日退院できるよ」と、子供のような笑顔で。
「本当に嫌になっちゃったよ」と、昨日までの四ケ月間を述懐して言う。まだ動脈りゅうが残ってはいるが、難しい手術なので、もたせるだけもたせる方針だそうだ。ただ右脚は小児麻痺で、今また左脚が動かなくなり、車椅子生活がつらそうだった。「帰ってもな、これだからな」と。
「心臓が悪いのだったら、車椅子の方が安全でしょう」
私の気なぐさめ
いずれ、うれしそう。私もうれしかった。
二月二四日
家族の見送りなく、八時には手術着に着替え、注射を打たれ、鼻からはチューブを通され、蒲団の中で一人丸くなる。九時、手術室入り。
「家族の方見えなかったわねえ」
「元気で手術に行ったと伝えておくからね」
看護婦が私を思いやって言う。
あれほど、手術にも失敗があると恐れていたエミが、きっと渋滞のせいだろうが、一人で旅立つ気分で手術台に上る。両手、両足をベルトで固定され、十字架のキリストの気分。
目だけ出した手術着の医師と看護婦、だれがT医師やらわからない。
早朝の部屋、空気が冷たい。ライトが眩しい。それもつかの間。「これから麻酔注射しますから」と言われ、一、二秒したらもう意識はなかった。
気がついた時の第一声は「あなた遅かったね」だったのを覚えている。心淋しかったのだった。あとは覚えていない。一日中、耐え難い痛み。痛み止めばかり求める。これほどの痛みを我慢していたら、頭がどうかなりそうだった。注射を打たれ、もうろうとした世界を漂う、半ば無意識の状態。エミが見せた潤が描いた、台所の絵をかろうじて見たのを思い出す。夜九時半頃、妹夫婦がたづねて来たのを覚えている。私が言っている言葉は、「辛いよ、痛いよ、もう駄目だ」だったと思う。顔をひきつらせ、歪め、言い続けていたと思う。辛い辛い、四八時間だった。
二月二六日
痛みの峠を越えたのか、夜は注射を打たず我慢した。明日になれば、もっと良くなると思えて、一睡もしないで、夜の明けるのを待った。朝、やはり痛みは半減していた。私は立ってトイレに行った。もう受け身だけではない、耐えていける痛みに変わっていたから、私は体を動かし、痛みに闘いを挑みだした、すると痛みは更に軽くなって行った。
「喚く男」
「皆さん、起きなさい、起きて下さい」
午後十時、眠りに入った病室を、一人の男の声が渦巻くように、廊下を走り抜けていった。
「皆さん、早く逃げた方がいいですよ、こんな病院にいたら、殺されてしまいますよ」
寝ている病室を叩き起こすように、男の声が走っていく。
「今、私の妻は人質にとられています。皆で私に変な注射を打とうとするんです」
男の足音と、それを追う幾つかの看護婦の足音。
「静かにして下さい、静かに」
看護婦の慌てふためく声。
騒ぎを聞きつけた東病棟の看護婦も、廊下に飛出して行った。
「皆さん、心配ありませんから」
寝たきりや、手術後で動けない患者を安心させようと、懐中電灯を持った看護婦が各病室を見回って歩いていた。
「一一〇番しますよ」
「ああ、しろ、警察を呼べ」
男と看護婦の問答。
「大丈夫ですから、明日先生によく頼んでおきますから」
男は、退院するといってきかなかった。
暫くして、男の声は涙声に変わっていた。
看護婦だけの夜の病棟、まだ手術前の患者なのだろう、不安や恐怖からの妄想、看護婦達が懸命になってなだめていた。
瀕死の患者には重く突きささった、夜の男の妄想。
二月二八日
点滴、五本。抗生剤、二本。
嘉樹、潤、進太郎兄来る。
子供には、何とか平静な、ガンバッテいる父を見せることが出来た。子供も安心のようだった。潤、終始私の腹の上を、何かプラモデルを走らせていた。嘉樹、私の鼻のチューブや、腕に刺した点滴が不思議そうだった。
進太郎兄、変わらない笑顔で、私の話はすべて聞く立場で、頷き、見守っていてくれた。
「元気になったら、聞いたら」と、カセットデッキをテープと一緒に置いていった。
「夢そのⅠ」
精神病の男が二人の女性を連れて、タワーにやって来た。男は気球を持っており、それを口でふくらまし始めた。二人の女性がその緑色の気球に乗って、タワーを回転しながら降りていった。一人の女性は上半身裸であった。突然「助けてー」と声がしたかと思うと、気球が真逆さまに落ちて行った。下を見ると、二人の女性は並んで寝かされ、医師が来て、一人の女性に聴診器をあてていた。私は「人殺しめ」と言って、精神病の男に飛び着いていったのだか、先に右手を取られてしまった。その時、男の手にはカミソリが握られていて、ジカジカと私の手が切られていくのだった。私は逆らって男に向かっていくのだが、今度は、男が私を突き落とそうとするのだった。落とされまいとする私、落とそうとカミソリで、男は私の手をゾリゾリ切ってくる。私は左手でやっとこらえていた。そこで目が醒めた。
「愚痴る患者」
「手術をしなければ良かった」と、二週間経っても痛みで眠られず不安を抱えているHさん。
「どこをどのように切ったかも、手術がうまくいったのかも何も話してくれない。家族に聞いてもよく知らない。痛み止めも出してくれない。また手術だなんて言ったら、金払わないで逃げだしてやる」と、怒りをぶつけている。
医師のS氏、いつもうつ向いて、目ばかりキョロキョロさせて、多くは話さない。Hさんの訴えに「もう少し様子を見てみましょう」と言うばかり。
三月二日
点滴、五本。抗生剤、なし。
手術より七日目。手術箇所の透視、八時三十分
一週間の絶食の後、最初に通るものがバリューム。これが、胃病の宿命のようなもの。
T医師が、ガラス越しに指で輪を作り、OKののサイン。私、寝不足と、疲れからか立っているのがやっと。病室へどうにかたどりつき、お茶を少し流し込む。しみわたる食べ物の感触、何より鼻に、もうチューブが通っていない。生き返った気持。手術箇所はもうちゃんとくっついている。後は食事療法だけ。安堵感がこみあげて来る。
三月六日
流動食、No,2。熱、七度六分~八度四分。点滴、三本
昼間、子供達来る。顔を見ただけで安心のよう。二人とも母が居ない分だけ、自立していくようだ。夜は嘉樹が野菜イタメを作ると言う。潤の「空」という作文を見た。いい所は、「空は皆にやさしくしている」という所と、「空はどうして浮かんでいるのかな」という疑問だ。何故かふと、嘉樹が初めて歩いた時の、私と、嘉樹の興奮を思い出した。
あの時の嘉樹の、嬉しそうな顔といったらなかった。長い脱臼のの末、歩けたのだった。
小説の構想ばかり考える。
「今日もまた」
数日前、入院した陣内さん。半年前に胃と腸を切り、今度は肝臓が悪くなっての再入院だった。胆汁が、肝臓の圧迫で通りが悪くなり、その胆汁が全身に回って黄疸が出、本日はその胆汁を出す為の、肝臓にバイパスを入れる手術の日だった。胃の手術でも、そうでなくても、胃液を外へ出すチューブが欠かせないらしく。手術前、「イヤダ、イヤダ」と言いながら、陣内さんがチューブを鼻から飲み込んでいた。黄疸の顔に汗をタラタラ流し、口からはよだれを流しながら。
つい数日前迄、私もしていたチューブ。痰がつまり、鼻は炎症をおこし、牛や馬の苦痛を思いやった、辛かったチューブ。黄色い眼に涙を浮かべながら、陣内さんはひたすら、
恢復を願って、チューブを飲み込んでいた。
三月八日
流動食、No,3。抗生剤、二本。
本日も、朝三七度。昼、三七度六分。夕方、三八度と、熱が続く。レントゲンの結果は問題なし、手術箇所はちゃんとくっついていた。熱の原因は、手術時の汚物か、傷の化膿だろうとのこと。本日より抗生剤打つ。
昨夜、T医師より、転移はないと、細胞検査の結果をエミ聞いたと大喜び。これで本当の安心だと。昨日は、一時間もロビーでHと転移の事を話したのだと、Hはリンパ腺が腫れていたと聞いており心配だったのだと。今日、Hに転移なしと知らせたら、顔をくちゃくちゃにして喜んだと。H、本当に肩の荷をおろしたのだろう。知っているということは辛いことだったのだろう。
数年前、癌を知らせないで、ただ「今によくなるから」と励ますしかなかった、友人の奥さんのことを思い出す。
「土色をした顔の男」
「末期になると、土のような色になるのよ」と妻。
頬は痩せこけ、黒くカサカサの土色をした顔の老人をさして言う。
その老人、一カ月前と比べると、見る見る痩せ、顔色も、本当に土色に変わって来ていた。胸に入れた白い点滴で、軽うじて生命を永らえていると思えた。でも終日、点滴台を押しては一階の喫煙室に来て、煙草を吸っていた。灰皿に唾を「チッツ、チッツ」と吐きながら。
生きながら、その老人は土に帰って行くのだと思えた。
「待合室での患者達の会話」
「最近Aさんが見えないねえ」
「あの人はもう動けなくなってね、この間まで元気だったけれど」
「開いてみたら手遅れで、閉じただけなんだよ」
「何も取っていないのだから、しばらくは元気で、外泊、外出も自由だったけれど、そのうち動けなくなり、大部屋から二人部屋、そして今では個室へと移され寝たきりだよ」
「あれじゃ、回りに迷惑だからね」
この病院では自由は危険だった。手術してもらえただけまだましだと、手術後の不自由に耐えている患者達
三月十日
「Iさんへの手紙」
あの日、Iさんより第一信を受け取った日、私は、泣いたのだった。
とめどなく涙がこぼれ、自分で、自分を泣いてやっていたのだった。私そのもののような詩だったから、私の青春そのもののような詩だったから。Fさんじゃなくて、私が私を詩っていると思えたから。
私の涙、最も熱い、濃い涙が流れるのは、私が、私を泣いてやる時。
苦しい、長く、辛い手術だった。痛みに気が狂いそうだった。痛み止めを何本も打ってもらった。焼けひばしで、腹をかきまわされるような、痛みの連続。痛みを堪えていると、身体が震えて来た。顔は痛みで歪み、私は一個の弱い生き物に返っていた。
Iさんより手紙を受け取った日、私は痛みに挑戦を開始したのだった。トイレにも立った。夜は痛み止めを打たず、寝ないで耐えた。
私は、かって闘士だった。そして、現在も闘士であると。
私は、私を讃え、私を慰めたのだった。その私への証明のようなFさんの詩と、Iさんの励ましの手紙。
ありがとう。生涯で最も印象深い手紙になるでしょう。
一九八八 三 十
Iさんへ
「Fさんの詩」
闘 い
戦士が戦いをすてたら、
戦士に敵がなかったら、
戦士はどこへ行くだろう。
彼の生命が戦いなら、
彼の死もまた戦いなら、
戦士はどこへ行くだろう。
一途さの悲哀を、風が笑っても、
風は知っている。
その時の彼が、
確かに生きていたことを。
今も生きていることを。
俺の心は、戦いの中。
俺の生命の確証は、一途さの中。
風に舞っても、そいつは残る。
それが俺の大前提だ。
三月一三日
全粥、No6。抗生剤、二本。熱、六度四分。
エミは全て知っていたのだった。あの日、k病院へ一緒に診断を聞きに行った日、エミは医師より全て聞いていたのだった。私が看護婦に付き添われ、検査に行っている間に。
エミの涙が、自分の不幸を嘆いて、私の不摂生な生活を呪ってのように、冷たく、重いものに思えた。ポツリ、ポツリと雨漏りのように、ことあるごとに、特に私が人と話している時、こぼしていた。その涙を見て、私は癌を問わないことにしたのだった。エミをこれ以上悲しませたくない。泣かせたくないと。が、エミは全て知っていたのだった。知った上での、私に不安を持たせまいとした、一人で耐えた悲しみの涙だったのだ。TもHも知っていたという。知っている故の、TやHの重苦しさだった。
「何の為に私を」
点滴がとれ、一五日振りに屋上に上った。素足にコンクリートが生暖かかった。深呼吸する喉に春風がピリピリと痛かった。手を回し、足も振り上げて見た。血が騒ぐのが解った。屋上を一周し、見渡す景色を美しいと思った。「風に吹かれてみたらあ」と歌も唄って見た。かすれてはいるが、心地よく喉を振るわせる私の声があった。
偶然だったのか、たまたま運が良かったのか、誰が、何の為に、私を生かしたのだろう、私は、蘇る感覚に、再び戻ってきた様々な思い出に、涙が一筋一筋、流れて止まらなかった。美しい生物達の世界へ、四十年間の楽しい思い出の中へ。思わず私は、「神よありがとう」と言っていた。神の仕業としか思えない。神にしか感謝のしようがなかった。
三月十五日
全粥、No七。抗生剤無し。熱、六度三分。
本当に愛しました
この気持は一生変わらない
女一匹硬派となりて
男一人を愛すべし
本当の愛とは
和弘の為に死すこと成り
我が生命の限り
和弘一人
和弘こそ我が生命
生命の限り
和弘を愛す
和弘こそすべて
朝、屋上に上ってみると、テラスのガラス窓というガラス窓に、これらの言葉が、彼が買ってくれたという、口紅で書き連らねてあったのだった。昨日はなかった。一夜にして出現した若い女の、叫び声だった。若くして冒される生命、その生命、その運命を呪うような、挑戦の言葉の数々、その若さと執念、私はくまなくそれらの落書を、孝美という女性が、私に向けて書いてくれたように、読んで歩いたのだった。
「美しい妻達」
夫に最後の世話をしているといった風。優しく、小さな声、潤んだ見つめる眼、しなやかな動き、労りを全身で現している。
「痛くない?、大丈夫?」
蒲団に手を添えながら、最後を二人で過ごしているといった風。
夫は、そんな妻の労りを、甘んじ、受けている。
五十を少し越えたか位の、白髪の目立つ妻。もう運命に逆らったり、呪ったりせず、残されたものを大切に、味わっているよう。
「四F北のロビー」
一隅のテーブルでは。
「私は胃潰瘍で胃を2/3取って」と初老の男。
「もう注射はこれ以上しても無駄だと言われる」と老婦人。
また一隅のテーブルでは。
「痛くない潰瘍と、痛い潰瘍があるそうで」と六十一才だという男が、数人の見舞い客に説明している。
「まな板の鯉だから」と、一人の男。
「切らなきゃ死ぬと言うし」
「六十一年も使ってきたのだからガタもきてるのだろう」と、もう一人の男。
「六十で死んでる奴もいっぱいいるからな」
不安な患者に、見舞い客は安心させようと、口々に気慰めを言っている。
そんな人々とは関係なく、ガラス窓の側には、今日も付添婦に車椅子を押してもらって、景色を見に来た、八十才過ぎに見える老女がいる、黙っていつまでも新宿側の景色を見続けている。付添婦も黙って見ている。
三月一七日
常食、No,八。熱、六度二分 抗生剤、なし
本日より常食、ご飯の美味しかったこと。よく咬むと甘く、口中に拡がった。
煙草を吸ってみる、二二日振り。期待に反し、少しも美味くない。ただ苦いだけ。
吸いたいとも思わないのだが、吸うことによって頭が回転し始めないものかと、思ったのだか変化なし。煙草が肺まで行っているように思えないのだ、肺の隅々に煙草がしみわたる感覚がない。頭へのツーンする感覚もない。
声が元に戻った。痰がつまり声がかすれていて、自分の声のようではなかったが、少しづつ咳ばらいを繰り返していたら、痰が切れ、高い声が出せるようになった。早速子供達に電話してみた。
傷口、朝は少し膿んでいるが、夜にはふさがる。
「泣く男」
「Fさんが、話があるというので行ってみたら、痛くて、痛くてと泣いているんだよ」
Fさんの隣のベッドのNさんが、帰って来るなり皆に言った。
手術の日、誰もが気楽に送り出したのだったが、五日経ってもFさんは集中治療室から帰らず、心配していたのだった。
胸の手術だったが、経験者のNさんが気軽に言うので、同室の者は皆安心していたのだった。
「先生に何とかしてもらえないか、聞いてみては」
Fさんの兄嫁さんが、瞼をはらし御主人に言っていた。
「それが、余り注射は出来ないというんだ」
Fさんの居ないベッドの回りで、おろおろしていた御主人は、それ以外にないというように、医局へ相談に行った。
その患者にしか、その患者の痛みは解らないものなのだった。看護婦も、周りの人間も、ただガンバッテと言うだけで、その患者がどれだけの手術をしたのか、知っているのは医
師だけ。だが、その医師にしても、痛みの量は解らないのだった。自分が体験してはいないのだったから。
「夢そのⅡ」
毎晩、私は近くの露天風呂で、湯に漬かっているのだった。真っ暗な中で一人、何かに脅えるように。私は気が小さくなっているのだった。手術の恐怖がまだ忘れられないのだった。まだ、病院にいる限り、生還したとは思えないのだった。露天風呂がいつか、病院の風呂に変わっていた。胃のない人、肝臓を切った人、手術の痕も生々しい人がそこにはいた。そこへ、白い布を被り、眼だけ出した、お化けのような者が現れた。私は咄差、逃げ出したのだが、その白い者は私を追いかけてくるのだった。私はやっと見つけた灯りの家に飛び込んだ。そこは本家だった。中に入ると本家の伯母さんが死んでいた。あとは誰も居なかった。外で玄関の戸がガタガタ鳴っているだけで、私は「助けて、助けて」と声にならない声で叫んでいるのだった。
三月二一日
常食、No,八。 熱、六度四分。
退院を前にして、T医師に疑問点、不安な点を質問する。
一、摘出した臓器は、何と何か。
脾臓、胃のまわり、各臓器へ行ってるリンパ腺、胃の迷走神経、腹の脂肪。膵臓、胆嚢はいじってない。
一、手術方法について、ダブルトラクト法とはどんな手術なのか。
胃を全摘した場合の代用胃として、十二指腸でバイパスをもうけたもの。
一、転移はないというが、どうしてそう言えるのか。
脾臓、肝動脈、膵臓、胆嚢、食道へ行っているリンパ腺を顕微鏡で調べて異常が無かったということ。
また、胃の細胞検査でも筋板にも達していない、平板なものであった事から九十九パーセント転移はないと言える。
一、輸血はしたのか
牛乳瓶二杯くらいの出血ですんだからしていない。
一、無胃症からくる鉄分の吸収障害は。
今までに貯蔵してある鉄分で充分、問題は二、三年後のこと。
一、抗癌剤は飲むのか。
もう癌はないのだから、飲む必要はない。
疑問や、つまらない不安まで細かく聞き、全部解消。余談で癌の告知問題を聞いた。
告知するかしないかは、ケースバイケースというか、患者をみて決めている。私の場合は納得しなければ、切りそうにないと思えたからと。
患者はそのうちには、知っていくものだから、その時々におうじて表現を考えて言っている。しかし、最後は患者が決めていくこと。
「今日も繰り返される」
北四Fロビー、今日も二組、三組、家族が輪を作り押し黙っている。手術は終わっているのだろう。患者は麻酔で眠っているのだろう。ベッド周りにいても仕方がないので、ロビーでたむろしている。何人が見守っても痛みは同じ。何人が心配しても転移していれば同じこと。運命が分かれる癌の転移、転移さえ無ければ。
隅の電話では、「駄目だったの、亡くなったの、三十分前に、それで明日通夜するの」と、妻らしい女性が電話をかけている。ここではプライバシーなどいらないのだった。悲
惨ばかりの癌病棟、どんな話をしても、誰もが自分の家族のことで精一杯で、他人の電話など、いちいち気にとめる人などいないのだった。
「慌ただしい日」
心配顔のヒソヒソ話の家族達が、ひっきりなしに出入りする日、手術のあった日なのだ。
家族達の言葉の優しさが身にしむ。
「ハイ」「ハイ」「疲れない?」「大丈夫?」
一つ一つの言葉が、その人その人の最高の思いやりの言葉となって聞こえてくる。顔も皆美しい。家族を思いやる時の人の顔、最高の美しさ。
「ダンピング」
毎食後、五分から、十五分の間に発生。先ず、うっすらと汗が額に出てくる。次に、体中が熱くなり、幾分心臓が早くなる。しばらくすると、汗は脇の下にも滲み出てくる。額をぬぐうと、手にべっとりと付き、ティッシュでぬぐい直すことになる。上半身の倦怠、手足の脱力、特に頭が重くなる。両肘を支えにして頭を抱え、じっとしているが、座っているのが大変になる。体中が気持が悪くなる。嫌な匂い、嫌な物を見た時の気分と同じ、皮膚の隅々まで、何かが滲み出てくるような不快感、氷砂糖を口に含んでベッドに横になる。脚を抱えるようにして体を丸め、ひたすら耐える。この間、十分くらい。物音も不快で、蒲団を被って耳を押さえる。
不快が消え、汗が引いていく頃には眠くなる。吸い込まれるような眠りを眠る。
三月二十二日 雨
五十日振りの退院。
慌ただしく、強烈に、様々な思いを残して過ぎ去った。二ケ月近くが経っているというのに、一週間も経っていないような感じなのだ。日常性のない時間は、いくら経っても、記憶時間にはならないようなのだ。
宣告を受けた時の師走の街の記憶と、退院の時の桜の舞う季節、この二ツの風景ははっきりと僕の意識に映ってはいるのだが、奇妙なコントラスト。
確かに僕は胃を取られ、不自由な生活を強いられる事になったのだが、何だったのだろうこの四ケ月。何事が起きたのだろう僕の意識、不思議な、奇妙な時間の圧縮の感覚。
四ケ月間、僕は人や生活といったものを見てはいなかった。健康な時のあの自明なものとしての時間を送ってはいなかった。見ていたものはただの自分だった。病室を見ていて
も、見舞う友人と話しをしていても、見ているものはいつも一人の自分だった。
健康者的時間が四ケ月であっても、病者的時間は数日。時間というものが全く異なった世界で流れていたことを今思い出す。
了