六部 光彩
どれだけ歩いただろうか。
日は暮れていたが殺風景な荒野に遮るものはなく、遠い空にはまだ焼けるような赤味が残されているのが見渡せる。
不意に我に返ったのは、不穏な気配を察知したからなのか。
地響きだ。
とっさに地面に頭をつき、音の元を辿る。
速い。
馬か?
道を走る動物なんざ他に知らないが、どうもおかしい。
なんの姿も見えないがと来た道を振り返ると、町のある辺りだろうか、わずかに遠くが霞んでいた。
土煙?
見間違いようもないが、信じたくはないほど猛烈な勢いで尾を引く土煙だ。
たとえば、軍が動いたときに見るような。
俺もさっき出てきたばかりでなければ、遠く町の上空が黄色く霞んだ空を見て、町が戦場になったのだと思ったろう。
だが、それはとんでもない勢いでこちらに迫っている。
一体なんだってんだ。
家畜が恐慌を起こしたところで、あんな速さは出ないはずだ。
焦っても、逃げ場なんぞありゃしないが。
どうも、見覚えがあるな……。
道の脇に避け、腹をくくって近付く地響きを待つ。
「……ぉおおおーいソルうぅ! やぁっと、見つけた!」
ら、ライ!?
認識したときには、うっすらと巨体を確認できていた。
その時点でデカブツは足を止めたが、そのままの勢いで滑り続け、俺の眼前でようやく止まった。
罵倒の一つでもくれてやりたかったが、開いた口はぱくつくだけだ。
一体どうしてと上から下まで見ると、ライが袋を腕に抱えているのに気付く。
まさか、付いてくるなんて言わねえだろうな。
「どう、やって、知った」
「においかな?」
「獣かてめえは!」
化け物じみたライだが、さすがに乱れていた息を何度か深呼吸して整えると、脇に抱えていたでかい袋から中身を取り出し、俺の眼前に突き出してきた。
「ほら見て!」
「その平べったいのはなんだ」
「えっ、丸いはず……あああっパンが! 掴んで走ったから、つい力が入っちゃって!」
パンなのかよ……あの踏んでも曲がらないほど硬いもんが。
「ま、まぁいっか。こんなんだけどさ、食えるって!」
「まさか、本気で返してくれる気があったとはな」
「当たり前じゃん! ちゃんと返すって約束したろ。はい、もらった分二つ!」
言葉が出なかった。
いつの頃からか、人を信じることはやめた。
思えば、村にいるときからだろうか。
それは俺が記憶の解釈を変えたためだ。
俺を強いと褒めてくれたのは、そう言って煽てておけば役に立ったからだと、そう思うようになったからだ。
時おり山を下りて商売する奴らも、村一番どころか町でも一番だと言って聞かせた。
現実を知っていたくせに。
そして俺は、調子に乗って出てきちまったんだ。
「ほら、一緒に食べよう!」
ライは満面の笑顔で、潰れたパンを俺の鼻先に差し出している。
その無邪気な笑顔は、いつもならぶん殴ってやりたいほど腹立たしい、底抜けに輝くものだ。
――よし晩飯だ! 家族揃って一緒に食えるのが、父ちゃんの幸せなんだ。
――うん、俺も楽しい!
そう、純粋に、なんの憂いもなく信じ切っている者の顔。
――父ちゃんは外で仕事してることが多いが、覚えておいてくれよソール。
ガキん頃に聞いた声が記憶から浮き上がり、生々しく耳に響いた。
苦さが胸の内を塗りつぶしていく。
記憶の光景を振り払い、差し出されたパンを掴んだ。
「……じゃあ、遠慮なくもらう。っても、もともと俺のもんだしな」
「うんうん、そうだよ。あ、だけどさ、本当なら二食分をあたしが食べちゃったじゃん? だから、もう二つ貰ってよ」
「そんなに食えるか」
いや日持ちはするからな。仕事を紹介してやった駄賃と思って受け取っておこうか。
早速ライは、その場で地べたに胡坐をかいて、パンをかみ砕き始めた。
俺も渋々と土よりはマシな草の上に座り込んで齧る。
「うまいね」
暢気に笑って食いやがって。
「あれ、泣いてるの? 腹でも下した? 痛っ! なんで殴るんだよぅ」
「飯食ってるときに言う言葉じゃねえだろうが。ちょっと穀物の欠片が、歯茎に刺さっただけだ……」
「軟弱だねぇ。もっと口内筋を鍛えようよ」
「口ん中が鍛えられるか!」
俺が必死に、その辺の石ころで砕いたパンを、水で柔らかくしながら一口ずつ食っている間に、ライは大袋のパンを食い終えやがった。
「こんなに食ったの何か月ぶりだろ。美味かったね!」
どんな胃袋してるんだ。見てるだけで吐き気がする。
俺もどうにか水で流し込んで口を拭うと、ライは立ちあがった。
「んで、今晩はどうすんの。こんなところで寝るの? 帰ろうよー」
帰るも何も家なんかないだろう。
もともと居場所はない。
それに。
「もう戻る場所なんざ……」
なんとなしで流れ着いた辺境の町だ。
都からも遠く離れた物寂しい町。
そんな町のおこぼれで、俺は生きていた。
「……そうだな。屋根がある方がマシか」
そうだ、もう少しだけ、踏ん張ってみたらどうだ。
「腹いっぱいで元気も出たし、明日はソルが食べれなかった分を稼ぐからさ」
「いらん。てめえの分だけ好きに食え」
ライは好きに食えという言葉に反応して笑顔を浮かべた。
「でもさ、やっぱり思ったんだよ。誰かと一緒に食べるのって、もっと美味くなるなって。なんだか、家族そろって食べてるみたいでさ」
胸が詰まった。
幸せだった言葉が、ある日から違う意味を持ち、また、その通りの意味を実感できたからだ。
「じゃあ、担ぐよ!」
「やめろ!」
俺がさんざん迷っている間にも、ライのような奴らは、さっさと決めて行動していく。
そんな奴らに巻き込まれる位置に居られることが、不思議と心地よかった。
……まったく。
ただでさえクソみたいな人生だってのに、最悪のクソを拾っちまった。




