五部 憐憫
食いもんは、その辺でくすねて回るつもりだった。
どうせ、俺はこの掃きだめの中でさえ厄介者なんだ。出て行きゃあ清々するだろう。このくらいは、酒の肴に俺を罵るネタ代として頂戴してやるさ。
その腹積もりだったが、さっきの胸糞悪い気分が邪魔をした。
俺自身が、できることをする気になったのはどういうわけなんだ。
俺自身でやれる、俺がやらなきゃならない、今しかできないこと。
それは、つまらない行動だった。
行きつけの酒場に来た俺は、店の裏手へ回り、勝手口に立っている。
そして、給仕の女に頭を下げていた。
「もう、迷惑をかけることもありません。だから……食いもんを恵んでください」
「へーえ……まさかあんたが、頭を下げにくるとはねぇ」
頭を上げると、腕を組んで意地の悪い笑顔を浮かべている女と目が合う。
そのまま、しばらく無言で待つが、答えは返ってきそうにない。
分かっていたことだ。
馬鹿にするなとの罵声や、物が投げつけられないだけマシだろう。
だが、このまま立ち尽くしていれば、すぐさまそうなりそうだ。
別に赦しが欲しかったわけじゃねえ。
粘って顰め面を見続ける理由はない。
黙ったまま、踵を返した。
「待ちな。出て行くってんなら、餞別くらいくれてやるよ」
困惑して振り返り、厨房へと入っていく女の背を見送る。
本当に恵んでくれるとは思っちゃいない。
気まぐれで挨拶がてら謝っておきたくなったはいいが、いきなりでは薄気味悪いよなと、食い物をせびるついでってのが本音だ。
残飯でも投げ付けるつもりなんだろう。
そう思っても、まごついている内に女は戻ってきた。
「ほら、中を確かめな」
野菜を詰めるのに使う丈夫な袋を投げるように押し付けられ、避けようもなく受け取った。
腐った臭いはない。
中を見れば、パンだけでなく干し肉や干し野菜まで詰められていた。
「こんなに……でも俺は」
俺を盗人の現行犯で捕まえるつもりかと、戸惑いに女の顔色を窺う。
「迷惑だったさ。だけど、一度も勘定をツケにしたことはなかったろ。ツケようたって許さなかったけどね」
それしか施してやる理由はないと付け加えると、女は仕込みへと戻っていった。
食糧の詰まった袋をしっかりと体に括りつけると、閉められた扉に、もう一度深く頭を下げた。
胸の内に広がる困惑から逃げるように踵を返すと、街外れへと急いだ。
次は、ほとんどの晩を寝床に借りていた、畜舎周辺の主のもとへと足は向いていた。
母屋の外で休憩中の主を訪れ、街を出ると挨拶し、今までの感謝をぎこちなく伝える。
愛想のない主からは嫌味すら出なかった。
だが去ろうとすると、主はぼそりと呟いた。
「無料のつもりはなかった。宿賃代わりに、番してもらってただけだ」
そう言われて、俺は混乱してきた。
初めて忍び込んだとき、寝ているところを農具で殴られて叩きだされたのは気のせいじゃない。夜盗と誤解されたんだから仕方のないことだったが。
その後、何やら言われたが、全部文句だと思っていた。
寝るならあっちにしろと飼料置場を示され、お前はそこで十分だという意味だと思った。
そう言えば出て行くと思ったんだろ、その言葉後悔すんなよと、買い言葉で寝床を拝借していた。
いつもいつも、惨めったらしい俺を、蔑むような目で見ていた。
そうだろ?
蔑みではなく、憐れみだったのか。
幾つかの場所に顔を出し、頭を下げて、それぞれの場所から、逃げるように出てきたはいいが。
「まずったな」
街を出た頃には既に日は傾いていた。
これでは出てすぐに野営だ。馬鹿馬鹿しい。
無理をして暗い中を歩くことはない。
「……いや、今、踏ん切り付けねぇと。また明日にゃ忘れてる」
野垂れ死ぬのが今晩か明日かの違いだ。
いつも仕事へ向かう時と同じく、ふらふらとした足取りで、町の南側入り口から外へと歩み出た。
街の出入り口とは呼んでいるが、町の境界を示す壁どころか未だに柵もない。適当に石ころを並べて、舗装もされていない道の隅に、町の名を刻んだ杭がぽつんと刺してあるだけだ。
その線を踏み越えただけだ。
目に見えない線だが、心の中の何かを、越えられた気がした。
大して離れることはできないが、出来る限り離れてみようか。
山も遠い草原を突っ切る道だ。歩きやすくはない。
無理に拓いた町が近いためか、ざらつく風が吹き渡る。
しかし一歩、また一歩と歩幅を広げていくと、足取りに力がこもる。
不摂生で、すっかり弱っていたはずの体が、その一瞬、村を出てきたときと同じ熱さを思い出していた。
若さや体力は失われたが、充足感からだろうか。
そんなはずはない。もう、勘違いはしない。
記憶の残照に過ぎないんだ。
明日もまた目覚めたくないという気持ちに変化はない。
「歩けるだけ歩いて、疲れたらその辺で休む。それだけだ」
畜舎の主が火打石を押し付けてきた。
すり減らないよう、火を起こすこともなるべく控えたい。
「どうして、あんな行動しちまったのやら」
己の行動を、呆れながらも思い起こす。
すぐに忘れてしまうなら、心に刻むためにも記憶を整理しておく方がいい。
胸が痛むことばかりだが、体を痛めつけたいのなら、ちょうどいいじゃないか。
だけど実際は、こっちが戸惑うようなことばかりが起こった。
あれだけ散々に扱き下ろしておいて、最後に憐れみか。
思い出したところで碌な記憶はないはずだったが、すぐに多くの事柄で頭の中は埋め尽くされていく。
ほんの短い間、世話になっただけの町だというのに、あいつがどうだった、あそこの店主がどうのと、幾らでも下らない事件が浮かんでくる。
下らなくも、それは確かに、人が生きている証だった。
その中には、もちろん俺も含まれてしまう。
「こんなんでも、思い出なんて呼べるのかね」
流れていく記憶に身を委ねたまま、ただ歩き続けた。




