二部 行き倒れ
静かになった路地裏に横たわったまま、あえぐように息を吸い、砂埃を吸い込んでむせる。
口の中には、歯を食いしばりそこねて切った傷から血の味が広がっていた。
吐き出す気力もなく、そのまま飲み下す。
もう、このまま野垂れ死にしようか――。
半ば店の奴らへの腹いせで、そんなことを考える。
腐乱死体が転がりゃ、さぞや店にケチが付くことだろう。いい気味だ。
俺の存在そのもので、他者へ影響を与えられる手なんて……死んだあとくらいのもんだろうからな。
もう虚しさすら感じることもない。
ただただ、胸の内は空っぽだ。
乱雑に置かれている板切れなどの廃材が、ぼんやりと歪んで見えた。
そのまま、本当に意識も遠のいていく。
暗闇に身を任せようとしたとき。
突如、背中に衝撃を受け息を大きく吸い込む。
気が緩んでいたため、もろに喰らっていた。
「なっ、この糞が、まだ殴り足りねえのか。どけ……うぉ!」
背中に乗った重さに踏まれてると思ったが、どうにか身を捩って見えたのは足ではなかった。
「なんだ、お前ぇ」
背に乗りかかるようにして、行き倒れがいやがった。
なんの気配もしなかったと思ったが、土の中から這いずり出た死霊のような姿をしてやがる。
体中を泥まみれにしたそいつは、今にも力尽きそうに震える腕をゆっくりと持ち上げると、俺の肩に手を乗せた。
本当に、死霊じゃないだろうな。
「なあ、兄ちゃん。なんでもいいから、飯、食わせてくれないか……たのむ」
息も絶え絶えの掠れた声から出た内容は、確かに生き汚い人間のものだ。
「知るかよボケが。重いわ、どけ!」
うわ、かてぇ。
肩を掴んだ腕を引っぺがそうと殴りつけたが、ガチガチの体してやがる。
よく見りゃ、全身は俺より一回りはでかそうだ。
どんなバケモンだってんだ。
こんな図体して空腹で行き倒れなんて説得力なしだ。
「たの、む。後生だから。なんでも、するからさ」
「おい、俺はどけと言ったんだ」
やたらとゴワゴワの毛皮が絡むと思ったら、長い髪だ。
触りたくねえが引っ掴んで頭を上げさせたら、身なり同様に顔も薄汚れている。
薄汚れているのはべた付いてるせいか。
「おいおい泣いてんのかよ。そこまでなら、その辺の草でも食ってりゃいいだろ」
「食ったよ。だけど、草じゃあ力が入んなくてさぁ」
泣いて掠れた声だが、違和感がある。
「おいまさか、てめぇ、女?」
「どっからどう見ても女だろ!」
行き倒れてるくせに、そこだけ気合い入れやがった。
「見えねえ。これっぽっちも」
クソッ、重すぎる。
どうにか這いずって、巨体の腕から抜け出すが、馬鹿力の手は離れやしねえ。
何度も蹴りを入れるが、俺だって酒で力は入っていない。
「いだっ、あたしのコワモテ美人顔に何すんのさ!」
「てめえでいうな、キモコワぶっさーだろっての」
「なんだよケチ。昼間っからのんだくれて、こんなところで寝転がって屁ぇこいてる金があるんならさ、少しだけでいいんだ。分けてよぉ」
「どこの女が屁ぇこくなんて言うんだ。アホが!」
「なななっ何言ってんの! 兄ちゃんの状況を正しく表現しただけじゃんさ」
「恥ずかしがるな。きもいんだよ。だいたいなぁ、そんだけ力が有り余ってんなら、働けってんだ、よっ!?」
急に足を掴んでいた手が離れ、俺は後ろに転げた。
廃材に頭を突っ込む。
絶対、頭皮を削ったぞ、このやろう。
「ってぇ……頭に、響く」
木切れを払って頭を起こすと、奴と目が合った。
「……する」
「は? なにぼけてん……」
「だからさ! なんでもするからって言ったじゃん? 仕事するよ。そしたら返せるだろ。でも、でもさ、今動けないんじゃ、明日こそ息絶えてるかもしんないじゃん?」
だから、知るかよボケナス……と、言おうとしたが。
「……明日、か」
俺だって、その日暮らしだ。
いや、その日暮らしどころか、飲みたくなったときだけちょろっと働く鼻つまみもんだ。
正直、すぐにでも、もうお前の手は必要ないと言われたっておかしくない。
俺を指さして嘲笑う噂から逃れるために、他の街へ移るにしろ距離がある。
街を出て荒野をさまよって、干からびるのがおちだ。
運よく次の町に着けたとしても、こいつみたいに行き倒れるだけだろう。
そこで、こいつのように物乞いしたとして、誰が俺に手を差し伸べてくれるよ。
いるはずがない。
分かってるさ。どうしようもない屑だってことはよ。
それが、糞みたいな俺の、人生だ。
舌打ちした。
なんで、そんな気になったのかと、ますます全てに嫌気が差す。
「面倒くせぇやつに絡まれちまったもんだ……いいぞ。今日のところはパンぐらいなら食わせてやる。だから」
「ま、まじで!」
「うるせえ、掴むな! 続きがあるってんだよ」
とにかく離れてほしくて適当にほざいたが、馬鹿正直に続きを待ってる顔を見ていたら、俺も馬鹿みたいなことを言いたくなった。
「だから約束しろ。どんなに腹が減っても、明日から仕事するってな」
「うん、する! あっごめん。続きはなに……」
騒ごうとするから睨むと、女は空気を読んで黙った。
約束。
俺が口にしたのを誰かに聞かれたら、なんて罵られることか。
そんなことを言う気になったのも、やけに素直な反応に、気が抜けるからだろうか。
「知り合いに口きいてやる。明日仕事できりゃ、その晩には腹いっぱい食えるはずだ。それだけだ、できるか」
「もちろん、やるよ。ありがとう! 小汚い兄ちゃんだけどあたしの英雄様、勇者様々だよ、あいだっ! なんで殴るのさ」
「そういった煽ては大嫌いなんだよ!」
思わず本気で怒鳴っていた。
急に吸い込んだ息が、殴られて痛む肺に刺さるようだ。
「わ、わかったよ。これ、たんこぶ出来てるよぜったい」
「そんだけ暴れられるんなら、立てるだろ」
「パンが食えるんなら、最後の力をふり絞るよ。次に倒れたら、もう動けない気がするんだ……」
女はしゅんとしてうつむいた。
まだうつ伏せのままだってのに器用な奴だ。背中の筋肉が盛り上がっている。
こいつ無駄に力使いすぎなだけだろ。
苛立ちを溜息と共に吐き出す。
英雄だなんだと、大げさに煽てやがってという文句。
八つ当たりだった。
だけど今の俺に、その言葉は、胸に刺さりすぎるんだ。