一部 愁嘆
「おれさまはなぁ、勇者さまだっ、てんだ……」
周囲でまばらに笑いが起こった。
あざけりの笑いだ。
「なんだありゃ」
「汚らしい勇者様がいたもんだ」
口にしたつもりはなかった呟きが漏れていたらしい。
薄暗い店内の灯りは、開け放たれた窓から差し込む光だけだ。
ついでに入り込む砂埃を含んだ風が、嘲笑と共に酒で火照った顔をほどよく冷ました。
笑うやつらを揺れる頭をめぐらして見る。
こんな昼日中に、酒場に居ついている奴らが、俺を嘲笑えた義理かよ。
もちろん、ろくでなしは俺だけだと頭の片隅は伝えてくる。
灯かりの油をケチるほどの、しけた酒場だ。
昼間は休憩処として開けているに過ぎない。
他の奴らは午前中の仕事を終え、午後までの空き時間を、休憩がてら飯を食ったり喉を潤して過ごす。
この町は、国の中央から遠く離れた辺境で、未だ開拓中の殺風景な場所だ。
長いこと隣国との睨み合いが続いている。
痺れを切らした王様野郎は、先手を打って、拠点を幾つか設けることにしたらしい。
攻撃の矛先を逸らすためか、相手に脅威と思わせないためか?
それとも遠い外側から相手をじわじわと追い詰めていくためか……ともかく、候補の地を拓くだけ拓いて帰っていきやがった。
偉いやつらの考えることなんぞ分かりはしない。
後を任せられた担当官が、さらに集めた下働きども任せにしている。
とにかくここは、国の重要拠点からも戦場からも遠く離れた場所で、何もかもが歴史の中心から取り残された、白けた場所ってこった。
だから今働いている者のほとんどが、町の整備のために働いている。
家の仕事も学もないあぶれもんが、こぞって集まった吹き溜まりだ。
「俺は、違う……俺は望んで、やってきたんだ」
力の入らない手を持ち上げ、残っていた酒を流し込む。
安い酒だ。何杯飲めば酔えるんだか分からねぇ。水を混ぜてるのに違いない。
「糞が……糞しかねえ」
しけた酒場の店主も客も、国を操る奴らもだ。
たまたま権力を手にしただけの奴らが、戦争なんかしてる余力があんなら、民に飯でも配れや。
庶民の苦しみなんぞ知らず、好き勝手やって羨ましいこった。
あくせくと、町の造成に精を出す。
ある日、強襲されるかもしれない町を住めるように整えていく。
「んな、つまらん仕事なんぞ、まじめにやってられるか……」
酔えない。酔ってなんかいない。なのに頭が自然と落ちた。
俺が突っ伏しているところに、給仕の女が重い足音を立ててやってきて、席から空っぽになった食器を片付けはじめる。
「まだ、飲んでるだろうが」
やめさせようと手を伸ばすが、腕を叩き落される。愛想は微塵もなく、その目は塵を見るようだ。
この糞女が。手加減してやってるのにも気づかず、強いつもりか。
「もうずいぶん前に空っぽだよ。毎度毎度言ってるだろ。その頭も空っぽかい。うちは宿じゃなくて酒場だ。寝るなら帰んな」
そう言いながら、片付けるため手を動かす度に首筋で揺れるおくれ毛が、色気をにおわせる。
荒くれ者相手に働いてきた疲労のためか、眉間の皺は深いが、よく見れば食えないほどじゃない。
酔っちゃいないはずだが辺りは揺れる。揺れながらも、その首筋から腰へと視線を彷徨わせ、でっぷりとした尻で止め、掴んだ。
「触るんじゃないよ!」
「払いのけたって、ほんとうは寂しいんだろ。いつも俺の席にくるじゃねえか」
「片付けの邪魔なんだよ。薄汚いのはまだしも口ばっかでかい男なんか相手にしてられないね。何様だと思って、ああ、あんたは勇者様だっけねえ」
「んだとぶっさいくな面しやがっ……!」
文句を言い切る前に、盆が頭を打った。
同時に、床に散らばる食器の音がからからと響く。
「ぐ……盆で殴る女なんぞ願い下げだ」
頭頂部を抑えて苦々しく目を開けると、女は小汚い板切れにしか見えない盆を盾のように持ちなおして後ずさっていた。
そして脇に避けると、後ろへ目くばせした。
「お帰りだよ」
まずい。用心棒だ。
こいつらの世話になるのも何度目だろうか。半ばうんざりしながら近寄る野郎二人を睨む。
「離せっ客だぞゴラァ!」
野郎二人がかりで両側から肩を掴まれ、抗うも立たせられる。
いや、俺の足は店の床を擦っているだけだ。
飲み過ぎて、力が入らない。
「離せや、下郎が」
店の扉の外に出て足が地に着くと、無造作に腕を離される。
いつも、こうだ。このままで済ますかと、振り返りざま一人の鼻っ面を殴りつけた。
が、男が半歩上体を反らしただけで、拳は頬を掠ったにすぎない。
ぺちっと間抜けな音が鳴り、男たちの嘲笑を誘った。
「この白髪頭が。お前は、いつもいつも面倒をかけてくれる」
そうして俺は店から追い出されるだけでなく、髪を掴まれ店の裏手まで引きずられていく。
反撃する力もなく、体を庇うのに精一杯だ。
ほとんどの場合と同じく、俺は殴られるままにされているしかなかった。
「ちったぁ懲りろよ」
地面に貼りついた俺の背を、最後に一度蹴ると、二人は去っていった。
吐きながら路地裏でもんどりうっているのが、この勇者様々だ。
いや、勇者だなどと自称している愚か者だ。
自慢じゃないが故郷では、一番腕が立った。
未来は村を導く勇者にでもなれるかもだなんだのと囃し立てられてよ。
「任せとけよ! この俺、ソール・ノンビエゼにかかれば、村の名は大陸中に広まるぜ!」
そんなこと言ってな。いい気になって飛び出した。
山を下りて、広い大地に街並み、そして見たこともないほどの人の群れを目にした。
あの時に、ぶるっちまった。
今まで俺が居たのは、だぁれも知らない山奥の村だ。
「へえ、あの北の山脈に人が」
「雪ばかりと思ってたが、住めるもんなんだねぇ」
だとよ。
大陸中どころか、国の中ですら知られていなかった。麓に近い町の奴らでさえもだ。
本当に、ちっぽけな村だったんだ。
そんな場所しか知らなかった俺には、途方もないほどに大地は広大で。
一生かけたって覚えきれねえほどの、色んな奴がいて。
多くの人間に揉まれた。
腕っぷしの強いやつなんざそこら中に転がっている。
俺は、あまりに平凡だったってことを、身をもって知った。