光と影
建久元年(一一九○)十一月七日、ついに源頼朝入洛の日と相成った。
入洛にあたっては、先年より法皇から水を向けられていたものの、義仲や義経の例がある。
彼らの轍は踏むまいと、頼朝、満を持しての入京である。
その日は朝から降っていた雨も午後には止み、ただ風だけが強く吹いていた。
頼朝の行列を見ようと、河原には見物の牛車が犇めくようにして立ち並んでいた。
法皇もお微行で車を仕立てたくらいである。京の人々は頼朝を特段の関心をもって迎えようとしていた。
申の刻(午後四時)、行列の先頭が花の洛中に入る。三条の端を西へ、河原を南行し、六波羅に向かう。
かつて平家の拠点として、数千の眷属が居住していた当地も、源平合戦終結後に没収され、その一画は頼朝邸として建て替えられていた。
先陣には黒糸威しの鎧を具した畠山重忠が颯爽と行進する。落ち着いた色味の戦装束は彼らしく。一族郎党十人を率い、武州の大兵団を率いる名族としての貫禄を見せる。
彼の後には、煌びやかに着飾った数多の将士が続いた。
行列の中央には、総大将の源頼朝。
黒毛の龍蹄に跨り、紺青丹の水干袴に紅衣を装し。
彼の前陣後陣をつとめる御家人は三百騎余り。
それぞれに弓持ちの騎馬武者、征箭を負う小舎人童を従える。
京の人々はあまりの雄壮さに息を呑んだ。これが東国武士の頂点に立つ頼朝の軍団かと。多少の蔑みをもって迎え入れようとした彼らは言葉を失い、続々と連なる華やかな武者行列に心奪われた。
夕刻、己れらの威光を存分に見せつけ、行列は広大な敷地を誇る六波羅の新邸へ到着した。
あらかじめ邸に待機していた小山朝光は、彼らを出迎える支度を終えていた。
最初に到着した重忠へ、
「御役目、大儀にございました」
敬意をもって頭を下げる。
重忠はにっこりと笑って、目の前を通り過ぎていった。
重忠との距離。
平和が訪れ、合戦などない世の中になれば、これを挽回する機会などなくなるだろう。
――でも、それでいい。
もう嫉妬めいたものに身をやつすこともないのだ。
心残りがないといえば嘘になる。
けれど、朝光は清々しい眼差しで重忠の背中を見送ることができた。
二日後、頼朝は法皇の御所に参内した。先陣には朝政がおり、頼朝の牛車の脇には宗政が徒歩で従う。
朝光も十一日、石清水八幡宮の参詣に後陣として行列に加わった。
この間、頼朝は後白河法皇から権大納言に任じられ、さらに同月、右近衛大将に補された。
朝廷から拝賀の日取りが申し伝えられ、頼朝の近臣らは随兵の選抜を進めた。
随兵に選ばれることは御家人としての名誉である。誰もが己れの名を呼ばれるのを待ったが、近臣の一人、北条四郎義時がこっそり朝政へ使いを寄越した。
聞けば、彼は随兵の任に内定されたが、対になる相手は決まっておらず、当日出発の前に選定されるという。
「私は『自分と同色の鎧と直垂(衣服)を着た者を望みます』と申し上げました。いかがでしょう。赤革威しの鎧に青筋懸丁の直垂です。今から用意できますか?」
義時は朝政より年下だが、頼朝の義理の弟として近習の筆頭にある。父親の時政は頼朝の旗揚げ当時からの重臣、また、両親を欠いた婿の親代わりも務めた。一族の地位は他の御家人たちと一線を画し、その義時から『一緒に御所殿の左右に並び立ちたい』と言われたのだ。朝政は喜んで鎧と直垂の準備をした。
これに弟たちは、
「江間殿(義時)と四郎の兄上って随分とお親しい仲なんですね」
「四郎同士で気が合うのかな。」
「そういえば、入洛の際も殿の直近でお二人並んでいましたし」
「第一、赤の鎧に青の直垂って、兄貴の一番のお気に入りじゃないか。用意するってほどのもんじゃないだろ。って、ちょっと待て! この派手好み、きっと服の趣味が同じだから仲良しなんだ!」
またも好き放題言い合うのであった。
翌日、頼朝は法皇への拝賀を済ませ、小山朝政も衛門府の尉(三等官)に任挙された。
全てが一段落し、頼朝一行は関東へ帰還した。
数年来の国乱も集結し、これからは太平の世がやってくる。誰もがそう思っていた。
大きな手柄を立てる機会はなくなったが、その分自領の開拓や経営に力を入れよう。
平和と安寧。それがなりよりだと。
翌、建久二年(一一九一)正月三日、朝政は頼朝に埦飯を献じた。
埦飯とは、もとは殿上した貴族への供膳のことで、『大盤振る舞い』の語源である。鎌倉での年頭の埦飯は、御家人が頼朝へ祝膳や貢物を奉じ、主従関係の深化を図る儀式となっている。御家人側に負担は大きいが、主君との紐帯を周囲に示す意味合いも含まれ、正月一日の埦飯役は下総の豪族千葉氏、二日は相模の名門三浦氏と、幕府内の錚々たる顔ぶれが任じられている。
弟たちも兄を手伝い、宗政は弓箭を、朝光は行縢(狩猟や遠行の際、両足に着用する毛皮の覆い)と沓を頼朝に進呈した。
八月、御所内に厩が新しく建てられ、御家人たちはそれぞれ名馬を献上した。宗政・朝光は鹿毛を奉じたが、朝政の馬はひばり毛であった。
黒や青、鹿毛の落ち着いた色味の馬たちの中で彼の貢馬だけがよく目立つ。
「何だか兄貴の馬だけ浮いているなぁ」
『人を見る目』があるかどうかは別として『馬を見る目』に定評があり、後に下野の御厩別当に任じられる宗政は、一言申さずにはいられなかった。
「こういうとき、自分の趣味を出すのってどうなんでしょうね」
弟たちのひそひそ話。
自分の趣味丸出しで、朝政の派手好みはすでに衆人の知るところである。
建久三年(一一九二)七月、源頼朝は征夷大将軍に任命され、名実ともに武家の頂点に立つ。
喜びに沸きたつ鎌倉に、さらに慶事は続いた。
八月、頼朝に次男の千幡(のちの実朝)誕生。
朝政が、七夜の祝いを取り仕切る。十年前、父の名代で若君(のちの頼家)の三夜の祝いを任された彼にあって、心得たものだ。いつものように弟たちも手伝う。
小山一族と将軍家の関係は良好で、三兄弟は幕府内で重きを為していく。
時に、朝政は、車大路の自邸に頼朝を招き、宴に白拍子を呼んで主君を楽しませた。
「兄貴が白拍子? 気が利くことをするなぁ」
「私だって木石ではないからな」
にやりと笑う朝政。
木石でない彼には妻子がおり、嫡男はもう元服間近である。宗政にも待望の男子が産まれ、家庭人としての落ち着いた生活に満足している。朝光は頼朝の薦める御家人の娘を妻にし、一家の主としての風格が出てきた。
東国の日々は、穏やかに過ぎていくかにみえた。
建久四年(一一九三)五月、富士の裾野では大規模な夏狩りが催されていた。
頼朝は狩りを好み、四月にも那須野で行ったばかりだが、その際、朝政は千人の勢子を献じた。
今回の狩りも三兄弟は当然のように頼朝に従い、彼らを含め御家人四十四人が参加しているが、各々の射手や勢子を入れると、集まった群衆は数万とも言われた。狩りは合戦の演習も兼ね、関東中の軍勢が一堂に会したかのような壮大な巻狩りである。八日から始まった狩りは一月近くに及ぼうとしていた。
事件は、二十八日の深夜に起きた。
雷雨の激しい晩であったが、日中野山を駆け回り、疲れきった御家人らの多くは、宿所で熟睡していた。
かたわらに遊女を寄せ、いぎたなく雑魚寝する彼らの耳に、突然、悲鳴と怒号が響いた。
寝ぼけ眼でうろたえる人々を尻目に、朝政と宗政は素早く太刀を掴むと、宿所の外へ跳び出した。
打ち付ける雨滴、目の前は真っ暗闇。
轟く雷鳴の合間に、甲高い馬の嘶きや男たちの鋭い声が響く。
一瞬の稲光が周囲を照らす程度で、状況を把握できる者はおらず。
ただ、凶徒が紛れ込んだことだけは知れた。
「どっちへ逃げた」
「大変だ! 鎌倉殿の寝所へ向かったぞ!」
緊迫する空気。
凶徒は頼朝の寝所の周囲に巡らせた帷幕を切り裂き、中へと乱入した。
だがすでに、朝光らが万全の守りを固めていた将軍の寝所では、凶徒は簡単に取り押さえられた。
男の顔を、朝光は見た。
意外に若い。男は後ろ手に縛られると、北条氏の郎党に囲まれた。
雨脚が次第に弱まるなか、被害の状況は順次頼朝のもとへ報告される。多数の者が命を落とし、大怪我を負ったという。しかし、夜は遅い。怪我人を手当し、十分に休養をとるよう命じられる。
一帯は、北条氏と彼らに連なる御家人たちにより厳戒態勢が敷かれた。夜明けまで富士の裾野には篝火が赤々と点り、合戦前夜のごとく殺気をまとった人馬が往来する。
眠る者など誰一人なかった。
裁きは翌日辰の刻(午前八時ごろ)、頼朝の陣所で行われた。
階の下の石畳には、幕府の重臣らがずらりと並ぶ。左右にそれぞれ十人余り。一方には、北条時政を筆頭に、義時、重忠、三浦の惣領ら。もう一方には、小山朝政、宗政らが顔を揃える。
両座の中央に和田義盛、梶原景時。
頼朝のそば近くには朝光が侍していた。
罪人の名は、伊豆出身の曽我五郎時致、二十歳。北条時政が烏帽子親を務めた姻戚の者で、その一字を与えられている。当の時政は烏帽子子と目を合わせるのを避けるように顔を逸らしていた。
ともに討ち入った兄は、すでに斬られて死んだという。
詮議の合間、時致は何も語ろうとしなかった。ただ一言、頼朝を睨みつけて言った言葉は、
「父の仇を討とうと思ったのです」
相手は同郷の武将で頼朝の信任厚く、幕府内でも一目置かれていた人物。
程なく、時致へ死罪が言い渡される。
将軍家の陣所を離れ、宗政は、兄と二人きりになると言った。
「なんか、おかしくねぇ? 大勢の人死にが出たってのに正確な数は公表されなかったし、第一、たった二人の兄弟で、あれほどの騒ぎを起こせるのかって、ねぇ?」
「……」
朝政は何も語ろうとはしない。
「俺、世の中が落ち着いたら、殺し合いなんてなくなると思っていたけどな。でも何だろうだねぇ、俺たちはさ、戦場でもないところを戦場にしてしまうのかねぇ」
白衣を脱いだ富士の稜線を眺めながら、朝政は弟の肩に手を置いた。
もう、それ以上は言うなと。
事件の動揺は、次なる事件を引き起こした。
冨士野の襲撃は、頼朝討たれるとして鎌倉に誤報された。これを聞いた頼朝の妻女は気絶しかけたが、留守を預かっていた範頼が「心配召されるな。ここに私がおりますゆえ」となぐさめた。しかし、この発言が将軍職への野心と見なされ、問題となる。範頼は詫び状を書き送ったものの、頼朝の勘気は鎮まらない。人々が息を詰めて状況を見守るなか、騒動が起きた。
ある晩、頼朝は寝所の床下に人の気配を感じ、すぐさま寝所番を呼んだ。その夜の当直は小山朝光。大して格闘することなく不審者の男を捕らえたが、男の顔に見覚えがあった。
範頼の家人だった。
「ちっ、違います。これにはわけがあるのです――」
憔悴した主の姿を見かねて、何か情報を得ようと頼朝の寝所の床下に忍び込んだという。
必死に弁解する男を見て、朝光は言いようのない息苦しさを覚えた。
男の言い分の真偽はすでに問題ではない。
頼朝の寝所に不審な男が潜り込んだ。それが範頼の家人だった、という事実。
――蒲殿も終わった。
朝光は目を閉じた。
かつて大将として仰ぎ、ともに戦場にあった人。
その範頼も義経と同じ運命をたどるのだ。
頼朝兄弟が決裂する場面に遭遇するのは、二度目だった。
朝光は己れが不思議でならない。なぜいつも自分はその場にいるのだろう。主の冷徹な判断を下すところなど見たくもないのに。
範頼は伊豆修善寺に流される。
日を置かず、範頼の家人らが意趣返しを企んでいる、との報を受け、頼朝は朝光に討伐を命じた。義経のころとは違い、幾分年を重ねた彼は、それを粛々と遂行した。
数日後にも、曽我時致の異父弟がこの騒動に関係したとして処分された。
範頼はその年のうちに死んだ。死因について訪ねる者はない。