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奥州合戦(一)

 頼朝と義経兄弟の亀裂は深まるばかりだった。

 所領所識を奪われた義経は、京の法皇に庇護を乞おうとしたが、彼らの連携を恐れた頼朝は弟の暗殺を企て、失敗に終わる。

 ここに至り、義経も兄への未練を断ち、法皇に頼朝追討の院宣を発布させた。

「鎌倉殿に遺恨ある者は、俺に付いて来い!」

 しかし、関東の大武士団を抱える頼朝に反抗しようという者はない。

 義経は思い違いをしていた。自分は数万の兵を率いて勝利に導いた武将だと。

 けれど、その数万の兵は、全て頼朝から貸し与えられた軍勢であったのに。

 頼朝は義経征伐を命じ、鎌倉から大軍勢が京へ進行する。

 義経は押し出されるようにして都を離れた。

 彼と入れ替わるように鎌倉勢が入京すると、軍勢を統括していた頼朝の舅、北条時政は、義経追討の許しを法皇に迫る。そして、法皇もまた節操なく院宣を出すのだ。

 義経は少年時代を過ごした奥州の藤原秀衡を頼ったものの、秀衡は間もなく死に、頼朝を怖れた嫡子泰衡は、義経の館を急襲して、彼を自害させた。

 義経の首は鎌倉に送られたが、頼朝に奥州藤原氏への宥和はなかった。武家の棟梁として全国統一は間近、残るは奥州のみ――義経を匿ったことが叛逆に値するとして奥州討伐が決定された。


 文治五年(一一八九)七月十九日、奥州へ向け、追討軍が鎌倉を出発する。

 出陣に先立って『軍旗を新調するべし』と命が下り、材料の絹は朝政が献上することとなった。名誉ある任務に、朝政は喜んで上質の絹集めに奔走した。

 下野(栃木県)南部から下総西部にかけては絹の名産地であるが、彼が指名された理由はそれだけではない。

 兄の任務を聞きつけた宗政は、意味ありげに笑いながら言い寄った。

「秀郷公が龍王より賜った『絹の反物』があればいいのにねぇ」

 俵藤太の龍宮伝説――

 俵藤太こと三兄弟のご先祖、秀郷は、龍王の敵を倒した礼に、様々な宝物(ほうぶつ)を下賜され故郷に帰還した。

 甲冑一揃えの他に、食べても食べても尽きぬ米俵、切っても切っても尽きぬ絹布等々である。

「逆に、うちにそんな絹があったと思われて恃まれちゃったのかな。いや、冗談だけど」

 朝政は弟に『冗談ならもうちょっとましな冗談を用意してこい』という目で見つつ、

「やはり、我らが嚢祖、秀郷公が朝敵たる平将門を討ち果たしたことにちなんでのことだろう」

 と、相手になる。

「そういやぁ、平家討伐のとき、西国でいろんな武士と顔見知りになったけど、中でも秀郷公の子孫を名乗る輩の多かったこと。二十人はいたかなぁ。日本中に散らばっててさ。ご先祖さまは、なんと子沢山であったかってね」

「その者らにはしっかと言いおいたか、秀衡公の本流は我が小山だと」

 朝政のゆるぎない自負に、

「そうは言っても、その秀郷公の長男千()(はる)公が今度戦う奥州藤原氏の祖にあたるんだろ」

「秀郷公の本拠は下野だ。その下野で代々国司を任じられている我が一族が、誰が何と言おうと秀郷公の嫡流なのだ」

「でもおかしなものだねぇ、敵だって秀郷公の末裔なのに。縁起を担いで秀郷公を持ち出すなんて」

 彼らは奥州で繁栄し、先代秀衡は、秀郷流藤原氏で永らく途絶えていた鎮守府将軍に補されていた。

 朝政は、にやにや笑いの弟にもう一度念を押した。  

「だから、であろう。下野が本流、奥州は傍流。分家の過ちは本家が懲らしめるものなのだ」

「ふーん、段々わかってきたぞ」

 頼朝の再三の催促に係わらず、法皇は奥州征伐の院宣を出し渋った。何も泰衡を慮ってのことではない。自ら指揮する伊勢神宮や東大寺の普請に頼朝と泰衡の援助を欲したのだが、合戦となればそれが滞ってしまうと。この人はいつだって自分の都合しか考えない。

 そこで頼朝は詭弁を用いる。奥州藤原氏は頼朝の家来である。家来を成敗するに何の院宣が必要かと。

 法皇のぐずりを退けて奥州への出兵を強行するのだ。

「そこでうちのご先祖が利用されたわけだ」

 理屈は何にでもくっつくのである。嫡流小山氏が頼朝の御家人。ならば奥州藤原氏が家来でないはずがなかろうと。それを軍旗作りにあやかり見せつける。

「兄貴も隅に置けないよ」

 旗作り一つとっても様々な思惑が絡む。それを使命として黙々と遂行する長兄の胆力。

「お前とて隅に置けないではないか。最初から知っているくせに聞いてくるのだから」

「へへっ」

 見透かしてた?と肩をすくめる宗政だった。

 秀郷の末裔同士の戦いといっても、数百年前に枝分かれした血族、関東と奥州、時空の隔たりが彼らに何の感傷も与えさせなかった。


 文治五年(一一八九)七月十九日、奥州へ向け、追討軍が鎌倉を出発する。

 将兵らは血と欲に胸を(たぎ)らせ、奥州を目指した。

 頼朝は太平洋側の街道にも軍を向かわせる一方、内陸の奥大道(鎌倉街道中道)を自ら大軍勢を率いて北上した。前日に出立した北陸道勢と合わせれば総勢二十八万騎もの超大軍勢である。迎え撃つ奥州勢は十七万騎、日本史上空前の合戦が始まろうとしていた。


 三兄弟は頼朝率いる大手軍の中にあった。

 軍勢は途中、下野国を通過するが、兄弟にとっても久しぶりの故郷である。

 国一宮たる宇都宮へ、頼朝が戦勝祈願に立ち寄ることはあらかじめ申し伝えられていたため、国司である三兄弟の父政光が(うやうや)しく出迎える。政光自身は老齢のため追討軍に加わらないが、主君に近侍する息子らを誇らしげに見やりながら、ありあまる佳饌と美酒を用意し、頼朝一行を歓待した。

「妻女は息災か。せっかく下野に来たのだから、一言くらい声をかけてやりたかったが」

「数万の兵を率いる鎌倉殿に気後れして、この度は遠慮しました。また別の機会にでも連れてきましょう」

 三兄弟の母が頼朝の乳母といっても、主従は九歳の年の差である。当然授乳役などではなく、遊び相手として頼朝に仕えていた。肉親との縁薄い彼は、姉のように親しんだ乳母が不参と聞き、少し落胆したようすをみせる。

 そんな主君を慰めるように政光は酒を勧めていたが、ふと紺色の直垂を着た若武者に気付いた。

 同じ家格の者であれば、顔くらい知っているのだが、生憎と見覚えがない。政光は頼朝へ若者の素性を訪ねた。すると、主君曰く、

「紹介しよう。本朝無双の勇士、熊谷小次郎直家だ」

 これを聞いて政光の鼻息が荒くなった。

「何をもって無双と言われるのです?」

熊谷直(なお)(ざね)の一ノ谷戦の働きはそなたも聞いておろう。父親ともども私のために命を捨てて戦い、他にも多くの功績を挙げている」

 直家の父直実は、平家の公達、敦盛を討った有名な武蔵(埼玉県)の武将である。

 頼朝の言葉に、政光は声を立てて笑った。

「主君のために命を捨てるのは武人として当然のこと。直家に限りましょうか。それに直家程度の家格では郎等の数も知れたもの。自らもって奮戦し、名を挙げるしかないのです。その点、私ほどの者になりますと、一族の者や家来たちを遣わせて手柄を立てさせればよいと」

 政光に思うところがあったのだろうか。

「まぁ、息子らには今回の合戦で『無双』の御旨を賜れるよう、我が身を尽くせと申しておきましょう」

 と、大胆にも頼朝を前に言ってのける。

 そばにいた朝光ははらはらしながらこのようすを聞いていた。先の平家追討の戦いでは、直実親子の活躍に比べ、我々小山一族に戦功らしい戦功はない。政光に他意はなくとも、聞きようによっては、偏狭な人間だと思われるかもしれない。

――いい年した大人なのに。

 思ったことをそのまま口にしてしまう。

 朝光は不安げに頼朝の顔色を伺ったが、主は機嫌を損ねたようすもなく、政光の瓶子を受けている。朝光はほっと胸をなで下ろした。

 ――五郎の兄上の口の悪さは父上譲りなのかも。

 思えば、この主も放言や失言・悪口(あっこう)には定評がある。先の無断任官の件でもそうだが、つい最近も、朝令暮改で幕府を振り回す法皇へ「この日本(ひのもと)一の大天狗!」と書状にしたためて送りつけてしまった。もちろん仲介者へであるが、法皇の耳に入ることを知った上で、だ。権力者としての自信がそうさせたのかもしれないが、

――近習としては冷や汗ものですよ。

 斯様(かよう)に頼朝は人間臭い一面を見せる。かと思えば、計算ずくで冷酷なことをやってのける。その相手が幕府の功労者だろうと血の繋がった弟だろうと。

 いつもそばにいる朝光でさえも、時々頼朝という人間を見失いそうになる。

 東国武士団の首長としての御所殿、個としての御所殿。

 もう以前のように尊敬の念だけをもって仕えることはできなくなっていた。


 八月七日、頼朝の討伐軍は陸奥国伊達郡阿津賀(あつか)志山(しやま)の正面に着陣した。

 泰衡は国分原の(むち)(だて)に布陣していたが、当山へ二万の兵を派遣し、異母兄国衡(くにひら)を大将に、金剛別当秀綱を副え、敵の侵入を拒もうとしていた。

 鎌倉勢の目の前には、泰衡が築いた城砦がそびえ立ち、三重の土塁とその間に二重の堀が巡らせてあった。これを、先陣の大将、畠山次郎重忠は見越していたらしい。「翌朝(よくちょう)攻撃開始」との触れが出たころ、連れてきた匹夫(工夫)八十人に鋤鍬を持たせると、土塁を崩して堀を埋めるよう命じた。攻撃の障害を取り除いて進路を通した重忠を、「若いながら思慮深い」と、頼朝を始め皆しきりに褒めたたえた。


 真夜中を過ぎ、夜空に稲光が走ったと思うと、大音響とともに宿所に雷が落ちた。これから戦さが始まるというのに不吉なものだと皆が騒ぎ始める。

「奥州藤原氏の祖先秀郷公といえば、龍神の加護を得た方。何かの障りではないでしょうか?」

 妙なことを言い出す輩がいたため、頼朝は三兄弟を指さし、

「何の、我が軍勢には秀郷公の嫡流がおるではないか」

 と周囲の者を静めた。

「俺たちって使えるよな」

 宗政が小声で朝光に耳打ちした。

 その朝光であるが、此度の従軍は頼朝の近習として伺候していたため、自分の郎等は留守居番として鎌倉に残してきていた。しかし、早くも認められた多重忠の功に奮い立った。

 頼朝の許しを得て寝所から退出すると、長兄の郎従を借り、小山勢に混じった。

 重忠とは親しい仲である。

 年の近いせいもあるが、それともいうのも朝光が重忠の命を救ったことになっているからだ。

 二年前、梶原景時が重忠のことを、本拠武州で謀反を企んでいると讒言した。頼朝は朝光ら御家人数名を集めて意見を聞こうとしたが、誰もが冤罪だと思いながら、景時の権勢を怖れ、何も言い出そうとしない。

 そこで朝光は僭越ながらと口を開いた。

「重忠は天性廉直の士であり、道理をわきまえた男です。(はかりごと)をめぐらし、殿を患わせるような真似をするような人間ではありません。これは何かの間違いでございましょう。使者を遣わせて、彼の本意をお聞きください。これは私だけの意見ではなく、この場にいる皆の意見だと思います」

 もとより重忠のことは知らぬ仲ではない。義経のこともあって朝光は必死でかばった。

 彼の発言を端緒に、他の御家人も口々に思いの丈を述べ、頼朝はすっかり納得して景時の讒言を退けた。

 これを伝え聞いた重忠は直ちに領地から戻り頼朝への弁明を済ませると、朝光に会うなり、

「そなたは命の恩人だ」

 手をとって礼を述べた。

「そんな大げさですよ」

 照れる朝光だったが、重忠から真顔で、

「本拠に討っ手が差し向かれる直前だったんだ」

 と言われ、ぞっとした。何しろ景時には実績がある。

「それを七郎がひっくり返してくれたんだ。ありがとう。七郎」

 重忠は感謝の言葉を惜しまない。

「次郎殿をかばったのは私だけではありませんから」

 気恥ずかしくなって言いつくろうと、

「いや、そなたが最初に言い出してくれたからだと聞いている。皆、景時を恐れて何も言えなかったのを、場の流れを変えてくれたと。だから七郎は私の命の恩人だ」

 こうして二人の仲は知人から親友へと深まっていったのだった。

 この件で、幕府内での朝光への評判も高まった。

「『天性廉直、道理をわきまえて』とは、まさしく七郎にも当てはまりますな」

「そういえば、二人ともどこか似たところがある」

 重忠と自分が似ている? こんな噂を聞く(たび)に朝光は身の縮む思いがした。

 ――五郎の兄上に聞かれたら何と言われるか。

「お前がそんなにいい子ちゃんか? 周りの人間を上手くだまくらかして。だから腹黒いって言うんだよ」

 次兄の咎め声が聞こえてきそうである。

 それに、忠義はともかく武功では足元にも及ばない。重忠の初陣は十七歳。一族郎党を率いて、当初は叛徒(はんと)扱いだった頼朝方の軍勢と戦って勝ってしまう。ゆえに、彼の初陣を語ることは禁忌となっているが、許されて旗下にくだった後、重忠は頼朝のために数々の戦功を収めている。軍兵が動くときには必ず先陣の大将で、平家討伐でも三兄弟と同じ範頼の軍勢にありながら多くの活躍を見せた。

 重忠のことは同輩の武人として尊敬はしている。しかし、年が近い分だけ差をつけられたという思いがある。義経とは違い、追いつこうと思えば追いつけぬ相手ではない。せめて肩くらいは並べてみたい。そう張り合う気持ちがあった。

 

 翌朝の先陣には重忠の他に、朝光を含む小山勢が名を連ねていた。

 朝光は朝霧に湿った戦場の匂いを嗅ぎながら、阿津賀志山を前にした。

 敵の副将、金剛別当秀綱は、数千騎を率いて城柵より()で、山の麓に陣を揃える。

 卯の刻前、鎌倉勢も陣構えを終えた。

 並び立つ重忠と朝光の軍勢。すれ違いに重忠は笑いかけてくれたようだが、緊張していた朝光は前を向いたまま返礼することもできなかった。

 やがて矢合わせが始まり、互いの陣へ征箭が射込まれる。そして、矢の雨が降り止むと、鎌倉勢は多勢を恃みに敵陣へ襲いかかった。

 ――先駆けは誰にも譲らない!

 朝光は馬腹を蹴り、真っ先に敵中へ攻め入ろうとした。だが考えていることは誰しも同じだ。鎌倉勢は大海の怒濤となって別当軍へ殺到し、即ち混戦となった。

 朝光は手当たり次第に敵兵を斬り、打ち倒す。

 兜首も仕留めた。

 重忠の軍勢が一塊となって横切っていくのを目の端で見かけたが、気にも留めなかった。泥と返り血で誰とも見分けが付かぬほど全身を汚しながら、太刀を振るう。逃げる敵兵を追い回し思うまま斬る。

 ――これぞ自分の思い描いていた合戦だ!

 朝光の興奮が最高潮に達したとき、兄の郎従に腕を掴まれ、引き留められた。

「馬を替えてください。乗り潰すおつもりですか」

 まだ体中が昂ぶっていた。

 それを無理矢理押し戻され、朝光は腹を立てたが、戦場慣れした郎従の言い分を聞き、渋々引き返した。

 中断された血の火照りを惜しみながら。

 巳の刻(午前十時)、大勢(たいぜい)の波状攻撃に、別当勢は城柵の向こうへ退却していった。

「みごとな戦働きにございました。お父上や兄君もお褒めくださいますでしょう」

 郎従はそう言ってくれたが、冷静になった頭で今日の合戦を振り返ると、朝光は気が滅入った。自分は目の前の敵を討つことしか考えず、全体を見渡すことを忘れていた。重忠が戦域の端を巡って敵の退路を断とうしていたのに、自分が無闇に敵を追い回したせいで兵が逃げ散り、重忠の軍慮を無駄にしてしまったのだ。

 ――次郎殿は何も言ってはこないけれど。

 己れの未熟さに唇を噛む。

 翌日、阿津賀志山を登り城砦を包囲せよとの下知が()、この日は一日中、大軍の移動に潰れた。

 晩に、若い御家人たちが功に逸り、抜け駆けを企てた。幕府の重臣三浦義澄の息子義村らで、城戸口(城門)で小競り合いとなり、互いに死者を出したが、大勢に影響はなかったようだ。

 十日卯の刻(午前六時)、鎌倉勢は大手(正面)の城戸口に攻め寄せ、矢を放ったが、堅牢な城は落ちる気配がない。

 しかし、これを予見していた朝光は当地になかった。昨夜のうちに思うことあって宿所を抜け出していた。

 たった一人。

 頼朝の命令以外のことをしようとしていたため、朝政から郎従を取り上げられてしまったのだ。

 朝光は郎従を借りようと宗政の陣に向かったが、

「兄貴がだめだって言うのを、俺が許すわけにはいかないだろう」

 と断られた。

 ふだん憎まれ口ばかり叩くくせに、案外長兄に従順な次兄である。

 ――仕方がない。伯父上を頼ろう。

 母の兄にあたる宇都宮左衛門尉朝綱の帷幕を訪ねた。

 しかし、この伯父も良い顔しない。

 ――当然か。

 朝光は肩を落とした。が、そんな若い甥を見かね、伯父は身辺警護の名目で郎党七人を貸してくれた。

 七騎――ではなく、七人である。(通常合戦では騎馬武者一騎に対して十人前後の従者が付きそう)

 ――たった七人。これで何ができるか考えろ。次郎殿のように、いやさらにその先を考えるんだ。

 戦いは目先のことだけでは決せない。それを先の合戦が教えてくれた。



ようやく三兄弟が活躍する、日本史上最大級の合戦にたどり着けて、ほっとしています。

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