野木宮合戦
小山五郎宗政は嫌な汗を振り払うように、馬へ鞭あてた。
鎌倉から故郷の下野(栃木県)小山を目指す彼は、本拠を間近に野木宮の谷に差しかかっていた。
谷間に響き渡る喊声に心を焦らせながら、郎党を引き連れ、沢を登る。
兄の加勢に――
主君源頼朝の命により、宗政は急ぎ帰郷の途にあった。
だが、合戦はすでに始まっていた。
その彼の目前に、鹿毛の馬が現れた。
「白星の逸物! 兄貴のだ!」
だが、馬の背に兄の姿はなく。
寿永二年(一一八三)二月、穏やかな春の日差しとは裏腹に、下野小山にはただならぬ危機が迫っていた。
京の以仁王による平家追討の令旨が全国の反平家勢力へ発布されると、諸国の源氏が呼応した。
しかし、彼らは同じ平家打倒を標榜しながら、連携よりもむしろ敵対の様相を見せた。
常陸(茨城県)一帯に勢力を持つ信太荘の領主、志田義広。
この人は伊豆で挙兵した源頼朝の叔父にも係わらず、甥と張り合い、大軍をもって常陸を発した。
鎌倉攻撃のため、下野の豪族を収攬すべく、当地の名門小山氏へ使者を送りつけたのである。
同盟を迫られたのは、先祖代々、下野国衙を預かる、小山四郎朝政。
義広は承諾せねば攻撃すると脅しをかけ、隣国の上野(群馬県)に勢力を伸ばす木曽義仲と与同する気配もちらつかせている。
そうとなれば挟み撃ちである。
この危機に対処すべく、当年二十七歳の朝政は思案を巡らせた。
数日後、すでに大軍勢で下野へ向かっていた志田義広に書状が届く。
小山は貴下の軍門に下ると。
これを読んだ義広に満面の笑みが拡がった。
「軍勢を小山へ向かわせるに、そなたらも合流せよ。頼朝に一泡吹かせようではないか」
と返事を送る。
義広はすっかり油断した。もはや敵地との認識もなく下野に入り、小山氏の邸へ向かった。
このとき朝政は軍勢をもって邸を出、小山の南方、野木宮社の境内にて義広を待ちかまえていた。
すでに参拝は済ませている。
祈願必勝、敵は志田義広―――
義広軍へ降るなど、朝政にできるはずもなかった。
弟の五郎宗政、七郎朝光は、三兄弟の母が頼朝の乳母だった誼で、すでに彼の旗下へ参じていた。
小山一族は反平家にして紛うことなき頼朝方なのだ。
「降伏したと思わせて、隙をついて攻撃するのです」
合戦前に開いた群議で家臣の提案を容れ、朝政は周到に計画を練った。
義広の軍勢は小山の使者の案内で、思川東側の河原を北上した。
昨冬、北関東では降雪が少なかったため、雪解け水による増水もなく、川は広々とした河床をさらしていた。
――なるほど、大軍を移動させるには街道を行くより、捗がいく。
と感心させて、義広を野木宮裏の谷川に誘き寄せる。
彼らが進むごとに、川に向かって傾斜する両側の勾配は深くなり、木立も密になる。
そして、鬱蒼と木々が茂る谷津に差しかかった。
梢には、予め登らせておいた伏兵。
この機を待っていた朝政は、いっせいに鬨の声を上げさせた。
兵の声は谷中に響き渡り、義広は大軍の待ち伏せにあったかと狼狽える。
「よくも騙してくれおって」
先導役の使者たちは、怒り狂った彼らにその場で斬り殺された。
そこへ朝政率いる小山勢の本隊が襲いかかった。
踏み惑う義広軍は騎射で次々に射かけられ、沢へと追いつめられる。
矢を受けた人馬は水飛沫を上げて倒れ伏す。
射返そうにも谷の下からでは、全く不利、反撃にならなかった。
矢種が尽きた小山勢は、弓を太刀に持ち替え、谷を駆け下りた。
緋縅の鎧を着、鹿毛の名馬に乗った主将、朝政は、一際の武者振りを見せた。
縦横無尽に駆けめぐり、思うまま敵兵を屠る。
死地に追い込まれた義広は自ら弓をとり、己れを謀った朝政を狙って彼を射た。
矢は唸りを上げ、真っ直ぐに朝政の身体を貫いた。
「!・・・・・・」
朝政の身体は馬上から崩れ落ち、主を失った馬はいななきながら沢を駆け下った。
宗政は兄朝政が討たれたと思い、逆上した。
「おのれ、義広! 兄貴に替わって成敗してやるっ」
敬愛する兄の敵討ちとばかりに、馬腹を蹴って戦場へ急ぐ。
敵の顔など知らぬ。
――ならば、めぼしい兜首を片っ端から討ち取ってやる!
宗政は気負い込んで戦場へ参じると、鎧武者目がけ、立て続けに矢を射た。
敵方は思わぬ方向からの射撃に、次々に馬上から転がり落ちる。
「まだまだぁっ」
豪奢な大鎧が彼の目に入る。宗政は躊躇なく、その首目がけて矢壺を絞った。
この大鎧の男こそが志田義広だった。
義広に馬の首を巡らす間はなかった。
しかし、彼には忠実な家臣がいた。郎党は馬に鞭をあてると、主の前に自らの身体を盾にした。
家来の献身に、義広は振り向きもせずその場から逃げ去った。
「兄貴の弔い合戦は終わっちゃあいねぇ!」
戦場を駆けぬける宗政。
その彼の目が一点に惹きつけられ、思わず馬首を巡らし駆け寄った。
「兄貴!」
朝政は生きていた。
右肩に矢を受けながら、左手で太刀を振り回し、徒歩立ちで郎党らの指揮をとっていた。
「五郎か!」
顔をほころばせて、馬上の弟を見上げる。
宗政は夢中で馬から飛び降りると、長兄に抱きついた。
「痛っ・・・・・・ そう強く抱き締めるな。矢疵に触る」
顔をしかめる朝政にかまわず、
「良かったぁ! 生きていてくれて」
涙ながらに兄の無事を喜んだ。
宗政、この年二十二歳。
「わかった、わかった。だからもう泣くな。私はこうして生きてるのだから」
朝政は微苦笑を浮かべながら、弟の肩を叩いた。
辺りを見渡すと、すでに二人の周囲からは、勝敗が決したかのように敵兵の姿が消えていた。
「これで終いか。しかし義広はまだ生きていたはずだ・・・・・・」
警戒を解かない兄の視線に気付き、宗政はようやく身体を離した。
朝政を自分の馬に乗せたあと、己れは乗り替え馬を呼んで、それに跨った。
――まだ、勝負はついていない。
朝政は兵をまとめると、谷川の東側に陣を構えた。
一方、敵の義広も降伏するつもりはないらしい。
残存の兵を集め軍勢を立て直すと、谷の西側に陣を張った。
「――あと一戦ってとこだねぇ」
宗政は騒ぐ血を押さかねるように己が胸を抱いた。
先の戦いは兄の復讐戦だった。悲愴な覚悟をもって敵陣に斬り込んでいった。
だが、今度は違う。沸き立つ衝動に突き動かされ、それを押さえつけるのに必死だった。
両軍は睨み合ったまま動かない。
「動いたら負けだとでもいうのかい」
宗政は兄に聞こえるように呟いたが、肩の手当を済ませた朝政は黙って前を見据えている。
「いつでも出陣できるぜ」と目で訴えても、落ち着き払った兄は顔色一つ変えない。
宗政は小さく肩をすくめた。
しかし、朝政とて弟同様、戦いの本能に胸を焦がしていた。
――今すぐ打って出る!
逸る心を必死で堪えていた。
けれど、太刀の技と似て、突撃、反転、退却――動きを見せた瞬間に隙があらわれる。
だから、互いに動かない。動けない。
じりじりと背筋に焦りが這い登る。しかしその疼きに負けてはならないのだ。
朝政はぐっと目に力を入れて面前の敵を見据えた。
「――風でも吹けば、いいきっかけになるのになぁ」
「風?」
宗政はとうとう人為による出撃のきっかけをあきらめたようだ。
「俺たちの先祖は、あの藤原秀郷公だぞ。龍神の敵と戦ったとかで、俺たちには八大竜王の加護が付いてるんだ。天の気を統べる龍神ならば、俺たちに都合の良い風でも吹かしてほしいよ」
「何を馬鹿なことを・・・・・・」
先祖秀郷公の平将門退治を、後生の人間がおもしろおかしく脚色したことを真に受けて・・・・・・
もっとも、宗政も冗談を承知で言っているのだ。そうでもしなければ、この緊迫した空気に、限界を超えてしまいそうだったから。
「秀郷公が風を味方にして勝利を得たのは本当のことだろ。俺たちもあやかりたいねぇ。東南の風よ、吹けぇっ」
軍師諸葛亮を気取って、両腕を高らかに上げる。
「なんてね。本当は真東のほうが、まんま追い風になるからいいんだけど」
さすがにふざけすぎだと朝政が叱りつけようとしたとき、ふいに頬が空気のゆらめきを感じた。
木の葉がざわめく。
武者の母衣がなびく。
地面の塵が舞い上がる。
まさしく東南の風が吹き始めたのだ!
「うそぉっ! 俺って何者?」
むしろ本人が慌てふためく。
朝政は目をこらし、敵陣を見た。
吹き付ける風を浴び、驚いた馬がいなないて跳ねる。
降りかかる埃に将兵らも目をこすり、顔をそむける。
――動いたっ。
朝政は直ぐさま突撃の合図を告げた。
双方すでに矢種は尽いていた。小山勢は太刀を振りかざして敵陣へ驀進する。
風を味方につけ、顔を覆い右往左往する兵に、思う存分、太刀を下ろす。
もはや敵とも呼べなかった。
散々に斬り殺し、谷に無数の屍を並べて、戦いを終えた。
同二十七日、鎌倉では、源頼朝が若宮八幡宮に参拝し、戦勝を祈念していた。
彼のかたわらには小山三兄弟の末弟、朝光十七歳の姿があった。
朝光は頼朝を烏帽子親に元服し、近習として取り立てられていた。
「今日で七日目の満願だ。叔父上との戦いはもう決したころだろうか」
何気なく呟く主君へ、御剣役として供奉にあった朝光は、
「すでに兄らによって攻め落とされたものと思います」と答えた。
場所が場所だっただけに、頼朝はほうと感心してみせ、
「その詞、そちの心から発したものとせず、八幡大菩薩のご神託としたいものだな。もし、詞どおり我が軍が勝ったであれば、そちにも褒美をとらせよう」
にやりと笑う。
斯くして朝光の『予言』のとおりとなった。
大倉御所に還った頼朝のもとへ、同時、朝政の早馬が戦勝の報告を伝えた。
翌日には怪我を負った兄に代わり、宗政が捕虜を引き連れ鎌倉に参じた。
義広や彼に同心した武将の所領は没収され、小山兄弟に分け与えられる。
朝光にも恩賞が充てられたが、神託云々のというより合戦には彼の郎党も参加し、その活躍が認められてのことである。
後に宗政は長沼氏を、朝光は結城氏を名乗ることになるが、それはこのとき賜った下野長沼荘、下総(茨城県)結城郡を本拠にした所以である。
逃げ延びた義広は後日義仲と合流し、これにより頼朝と義仲の対立は決定的なものとなる。
さて、朝政の怪我が快癒し、その祝いも兼ねた戦勝祝賀の宴。
三兄弟は久しぶりに集まり、大いに睦んだ。
「それにしても我が弟たちはすごいものだな。一人は神風を呼び、一人は神託を告げるとは。我らが護法神八大竜王の御力を依り坐しでもしたのか」
朝政はかなり酔って上機嫌になり、そんな軽口を言った。
宗政と朝光は慌てて、
「風が吹いたのは偶然だって」
「神託と言っても私は思うところを述べただけです」
二人は身に覚えのないことを必死で弁解した。
「――いずれにせよ、合戦に勝つことができのだ。これ以上めでたいことはない」
朝政は朗らかに笑った。
武士がまだおバカ(褒め言葉)だったころのお話です。
物語はおおむね史実に忠実ですが、一部フィクションを交えています。
愛すべき彼らを、笑って、悼んで頂きましたら幸いです。