私の恋
親指の爪を齧る癖はいつからついたのだろう。回りから子供っぽいと注意され続けているが、彼はそれが可愛いとニコニコしながら言っていた。
ある時彼は私のもとを去った。
しょうがなかった。
でも、あれは無いのではないのだろうか。
彼は一言、
『もう付き合えないから、別れよう』
それはあっさりとしたものだった。
こんなにあっさりとした言葉で、別れるなんて、考えられなかった。
彼と付き合ってどれくらいたっただろうか。
そう考えるだけで胸が苦しくなる。
私は彼が好きだった。彼だってそうだったと信じている。
彼の言葉を反芻し、心で消化不良に陥っている。金属でも、ビニールでも口にしたように、戻しては飲み込むその彼の言葉の異物感が一向に消えない。
私は、彼の事を忘れるために新たな恋を探すことに勤めた。
友達にも言われた。
それからずっと、私は付き合う相手を変えている。
男はできるのだ、お前だけの私ではない。
健全に何股とかしない。
けれど、二・三ヶ月すると私から別れをつい切り出してしまう。
誰も『彼』では無いのだからそれを求めてはならないことは分かっていたつもりだった。
どんなに信じ難くても、彼の口から出た言葉で間違えは無かった。
だから彼と私は別れたはずだった。
また夏が来た。
何年たっても夏になる前に必ず付き合っている男と別れてしまう。
そしていつもの場所に戻る。
まるで振り出しに戻されるように。
八月も中頃。
お盆になると墓参りに親とよく行く。
そして、私だけ一つ多くお参りにいく。
まだ新しいきれいな墓石のまえにいく。
彼の苗字が深く刻まれていた。後ろにはフルネームで刻まれている。
私がフラれてそんなに経っていない頃、彼のお母さんから連絡が来た。
声が震えているのか、その電話口から聞こえる聞き取りづらい声を聞いて、市民病院に来てほしいと言うことが聞き取れた。
何でそう思ったかわからない。でも、私はやり直せると思った。
また彼のとなりにいれると思ってしまった。
その時私は、何も聞いていなかった。
病院についたとき、彼の母親は彼の寝ている隣で顔面蒼白にしていた。彼のお父さんも居た気がする。
彼のお母さんは、二言三言、私に話してくれたが、もうその言葉に力は無かった。
酒気帯び運転の事故に巻き込まれたとのことだった。
遺書もなく自殺では無いそうだ。
自殺なんて信じない。
それは最大の逃げだし、そんな逃げ方許さない。
ベッドにある慣れ親しんだ彼の手を握った。
それは、確かに私の手が覚えている感触に近かったけれど、少し冷たく、力も無かった。私の頭の中が真っ白になるのがわかった。色々と身体から引いていくことが同時にわかっていった。
見た目は綺麗だったが、中身はボロボロだったそうだ。
バカ。
葬儀まではあっという間で、葬儀自体も、あっという間に終わってしまった。
事故を起こした犯人は、まだそこまで、法が厳しくなかった頃だったせいで、そんなに重い刑が言われてなかったと覚えている。
もう、そんな奴の事は気にしてない。
葬儀の最中は夢心地と言う感じだった。信じたくなかったのだ。何もかも夢でも見ているようだった。
「ただいま、また彼氏と別れちゃった。お前のせいだぞ」
墓石の前で、線香の煙が上がるなか、そう彼に愚痴った。
今私は、彼の身体の一部を身に付けている。
彼の家族のご厚意でお骨の粉を少し分けてもらったので、ペンダントにした。
「あんな別れ方しなくてもよかったじゃん。もう忘れられそうに無いよ」
まるで、男が出来ない。
「結婚できなかったらどうするんだよ」
子供だって欲しいんだぞ。
「全部、全部あんたのせいなんだから」
愚痴っても、彼からの言葉がない。
墓石の中の燃えた骨に言っても、何一つ帰ってこない。
別れた理由も、何でそんなに呆気なく私からこの世から離れてしまったのかも。
私が聞きたいことが一杯あるのに何ももう答えがない。
でもこう考えてみると良いかもしれない。
あいつは今、賽の河原で石を積んでいるのだと。
周りに子供だらけの中、親を残して死んでいった。あいつは石を積んでいるのだと……。
私を置いて逃げた罰を受けているのだと。…………。
ダメだ。少し助けたくなってきた。あんな奴、鬼に虐められて普通にいられると思えない。私がいないと。
「何で戻ってこないの……」
不意に目を瞑ると彼の顔や声が浮かんでくる。
駄目だぁ。寂しい。涙が出てくる。
あのバカ野郎は戻ってこない。他の男は、あのバカ野郎の代わりになってくれない。
もし同じようなことをしてしまうと私があのバカ野郎を、私はまた探しちゃう。私の親指の爪を齧るのを見てニコニコしていた君。可愛いと言った君。
私がそのボロボロの親指をした手で君の手を繋いだせいで君の手が大好きになっていた。君に触れるのが好きになった。
男と別れる度に、夢で私に次があると言ってニヤニヤ笑う君が、憎たらしい。
迎えに来てくれても良いのに。
日に日に、夢の中の君の顔が霞むようになった。
君だけボヤける。遠くにいってしまう。私を置いて、三度も私を置いてどこかにいってしまう。
ああ、随分長い間墓の前に居座っちゃった。
「じゃあね、また来年」
全部全部、お前のせいだ。
また来年も来てやる。お前のせいで、恋愛が出来ないと罵ってやる。
これを死んだってあんたは抱えないといけないんだ。私を置いて行っていった奴の罰だ。
ずっと、ずーっと。私がそっちに行って、一言二言言ってから平手で叩いてからこう言ってやる。
バカ野郎。