第一幕 第五場
佐藤コウジが山方面へと車をしばらく走らせていると、急に道が渋滞しはじめてきた。
おかしいな、と佐藤は思った。町から離れていくのにどうして道が混むんだ。事故でもあったのだろうか。
混雑は三十メートル先の曲がり角まで続いており、その先はどれくらい渋滞しているのかは見当もつかない。だが少しずつ車が進んでいる事から事故ではないようだ。
やがて車が曲がり角に掛かった時、佐藤は驚愕してしまう。なぜならば曲がり角の先には、回転灯のついたパトカーが数台待機していたからだ。
「どうして警察がここに?」
佐藤は信じられない思いでその光景を見つめる。数人の警察官がここを通る車の運転手になにやら話しかけている。
「まずいぞ逃げるか」
佐藤はバックミラーをのぞき後方を確認する。後ろは詰まっており、Uターンするだけの車間はあいてない。
「くそ、これでは動けない」
どうしよう、と佐藤は思った。このままでは危険だ。だがしかし、このまま逃げ出せば怪しまれるのでは?
たしかにそうだ。今この場で逃げ出してしまえば、完全に不審車だ。絶対に警察が追ってくる。そして捕まってしまえば執拗に車は調べられ、トランクにあるスーツケースを見られてしまい、そして中を……。
「逃げたらダメだ。怪しまれる」
佐藤は心臓の鼓動が早まるのを感じながら車を進める。
「大丈夫だ。落ち着け俺」自分に言い聞かせる。「これはたぶん飲酒運転の検問に違いない。だったらどうどうとしてればいい。俺は酒なんて飲んでないし、何の問題もない。いいかコウジ、平常心だ平常心」
佐藤は強張った顔を揉みほぐしながら、警察の動きを見守った。警察官は運転手と言葉を交わし、そしてそのまま車を通している。やはりこれは飲酒運転の検問だ。ああやって酔ってそうな人間を見つけて検査するに違いない。
そう思うとだんだんと気持ちが落ち着いてきた。よし、このまま冷静にここを通過しよう。何の問題もないんだからな。
そして佐藤の番がやってきた。
「こんばんは」そう言って警察官が車の窓ガラスをノックする。
佐藤は窓ガラスを下ろすと、少しばかりぎこちない笑顔を作った。
「こんばんは、おまわりさん」
警察官は懐中電灯で車内を照らし、中の様子をうかがっている。予想外の展開に佐藤は顔色を変えてしまう。
「お、おまわりさん何してるんですか」できるだけ冷静さを装っていたが、その声には動揺がにじんでしまっている。「これは飲酒運転の検問でしょう。早く済ませちゃいましょうよ」
「いや、これは飲酒運転を取り締まるためのものじゃない」
「えっ、だったらこの検問はいったい」
「つい先ほど銀行強盗があってだな、この検問はそのためのものだ」
「そうだったんですか」
こんな時に銀行強盗をするなんてどこのバカの仕業だ、と佐藤は思った。おかげで自分が危うい目に遭っている。佐藤はその銀号強盗犯を呪った。さっさと捕まってしまえばいいんだ。
「荷物はこれだけ?」警察官が訊いてきた。
「はい、そうです」佐藤はなんとか笑顔を繕う。「もう行ってもいいですかね」
「まだだ」
「どうしてですか?」
「トランクの中を見せてくれ」
「えっ!」これには思わず声を裏返してしまう。
「聞こえただろ、トランクを開けてくれ」
最悪の事態だ。佐藤は目の前の景色が歪む思いだった。こんなの想定外だ。どう切り抜ければいいのかわからない。
「聞いているのか」警察官が言った。「早く、車のトランクを開けてくれ」
「どうして私の車だけ、そこまでしなくちゃならないんですか。他の車はそんなことしてなかったのに」
「目撃証言があってだな、逃げた銀行強盗犯は黒の乗用車で逃走したらしい」
佐藤はさらにその銀行強盗犯を呪った。そのバカのせいで俺は絶対絶命のピンチに追い込まれている。
「理由はわかったな」警察官が話を続ける。「さあ、君の黒い乗用車のトランクの中を見せてくれ」
どうにかトランクを開けずに、この場を切り抜けなければいけない。そうしなければ、自分は刑務所に入れられてしまう。そんなのごめんだ。
「別にトランクの中には何も入ってませんよ。見るだけ無駄ですよ、おまわりさん」
「無駄かどうかを決めるのは私だ。さあ、トランクを開けてくれ」
「だから何もないんですよ。無駄足ですよ」
「いいから開けろ」
「だから何もないって言ってるじゃないですか!」
意図せず大声が出てしまった。警察官の表情がみるみる険しくなっている。間違いなく怪しまれている、と佐藤は感じた。
「ちょっと君、免許書を見せなさい」警察官は高圧的な態度で言う。
「……わかりました」
佐藤はできるだけ時間を掛けてゆっくりと財布から免許書を取り出す。警察官は苛立った様子で、免許書を乱暴に取った。
「えーと、佐藤コウジさんで間違いないかな?」
警察官は嫌がらせのつもりか、懐中電灯で佐藤の顔をまぶしく照らと、免許書と彼を交互に見る。
「ええ、私は佐藤コウジで間違いありません」
「そのようだね」
警察官は納得したらしく、免許書を佐藤に返した。
「それじゃあ佐藤さん、車のエンジンを切って外に出てくるんだ」
「なぜです?」
「いいから車を降りろ」警察官は有無を言わせぬきびしい口調になった。「今すぐにだ」
「……わかりました」
佐藤はエンジンを切ると、ゆっくりと車から降りる。いつのまにか息が荒くなり、額には汗が浮き出ている。明らかに挙動不審だ。
異変に気づいたらしく、別の警察官がこちらを気にしている。
「単刀直入に訊きましょう佐藤さん」警察官が怖い顔で見つめる。「トランクに何を隠している」
「べ、別になにも隠してなんかいませんよ」
「嘘だな」
「嘘ではありませんよ」
「ならどうしてそんなに動揺している」
「だ、だっておまわりさんが怖い顔しているから、びっくりしちゃって……」
「そうか、そいつは悪かった」警察官はわざとらしい笑みを浮かべる。「佐藤さん、車のトランクに何があるんだ」
「な、何もありませんよ」
「だったらトランクの中を見せてくれ」
「あのですね、おまわりさん」佐藤は緊張のあまりそこでつばを飲んだ。「じつはトランクが壊れてて空かないんですよ。だから——」
「おい、何か問題でもあったのか」異変に気づいた別の警察官がこちらにやってきて、佐藤の言葉を遮った。
「この車のトランクが壊れてて空かないんだとさ」警察官はそう言うと、佐藤の車の中に手を伸ばし、刺さっていたキーを抜いた。
「ちょっと何するんですか、おまわりさん」
警察官は佐藤の言葉を無視し、別の警察官にキーを投げ渡す。
「本当かどうか確かめてくれ」
「わかりました」別の警察官が言った。
もうだめだ、と佐藤は思った。これで自分の人生は終わる。いや、まだだ。ここから走って逃げれば、まだチャンスがあるかもしれない。
「逃げても無駄だぞ」佐藤の気持ちを見通したのか、警察官が語気を鋭くさせて言う。
「に、逃げるなんてとんでもない」
「名前はわかっているんだ。どこに逃げようが無駄だぞ。逃亡罪がついて罪が重くなるだけだ」
そう言われ、佐藤は絶望する。たしかにもう逃げ道はない。八方ふさがりだ。
別の警察官がトランクの鍵穴にキーを差し込み回した。カチャという音とともにトランクが少しだけ空いた。
「なんだ佐藤さん、壊れてないじゃないか」警察官はすこぶる笑顔を見せると、別の警察官に顔を向けた。「中を確認してくれ」
「わかりました」別の警察官はそう言うとトランクを開いた。
その瞬間、佐藤の足下はふらつき今にも倒れてしまいそうになる。
「どうだ、何が入っている」警察官が訊いた。
「……何も入っていません」別の警察官が答えた。
「なんだって、そんなまさか!」警察官はトランクに歩み寄り中を覗き込むと、乱暴にその中を調べ始めた。「何かあるはずだ」
その様子を佐藤は呆然としたまなざしで見つめた。なにもない? そんははずはない。自分は確かに妻の死体が入ったスーツケースを載せたはずだ。なにがどうなっている?
警察官は舌打ちすると、乱暴にトランクを閉めた。そして怒りの表情で佐藤のもとに詰め寄ってくる。
「佐藤さん、トランクには何もなかったぞ!」
「……ええ」佐藤は困惑しつつも何とか言葉を紡ぐ。「だから何もないと言ったじゃないですか」
「だったら最初っから大人しく見せろ!」警察官は鍵を握った拳で佐藤の胸を小突くと、手を開いて鍵を差し出す。「ほれ」
「あっ……どーも」佐藤は鍵を受け取った。
「いいかよく聞くんだ佐藤さん。これからは警察官の指示には大人しく従え。こっちだって人間だ。バカにされたと感じたら不機嫌にもなるぞ。今度同じようなことをしてみろ。捜査妨害でしょっぴくからな」
「はい、わかりました。以後気をつけます」
「もう行け」警察官は佐藤の車をあごでしゃくった。「検問の邪魔だ」
「失礼します」
佐藤は車に乗り込むとエンジンを掛けた。この車のトランクにはなにもない、そう言われても納得がいかない。この目で確かめるまでは信じられない。自分は確かにトランクに妻の死体が入ったスーツケースを載せたはずだ。
佐藤はアクセルを踏むと、どこか人目のない場所を求めて車をさまよい走らせる。