第一幕 第三場
佐藤家の窓の全てにはカーテンがかけられ、外から中の様子が覗けないようにされていた。そのため家の中は薄暗く、陰気な雰囲気を醸し出している。
佐藤コウジは階段に腰掛けながら、頭を抱えていた。妻のアカネは死んでしまった。どうしてこんなことになった。自分が殺してしまったのか? いや、違う。あれは事故だ。だから自分は悪くない。
佐藤は壁にかけられていた時計に目をやる。時刻は午後六時三十分。妻が死んでから、もう十五分も経っている。
「どうしよう……」
次に自分がどうすればいいのかわからない。ただイタズラに時間をつぶしているだけで、何の問題解決策も思い浮かばない。
「警察に通報すればいいのか? でも待て、そしたらどうなる?」佐藤はこめかみを撫でさする。「俺は捕まるのか、例え事故だったとしても……。いや、警察はあらゆる可能性を考えて俺を疑うに決まっている。妻との不和のせいで俺が殺したと決めつけるに違いない。そうだ、そうに違いない!」
佐藤は興奮気味にそう捲し立てると、乾いた笑い声を漏らした。
あんな女のせいで警察に捕まるのは嫌だ!
「死体を……捨てるしかない」
今からあの女の死体をスーツケースにつめて山に埋めに行け、と佐藤は自分に言い聞かせた。そして妻は失踪した事にするんだ。ノストラダムスの予言を信じて奇行に走っていた妻なら、人類の滅亡に絶望し、ふらりとどこかえ消えてしまった。それならまわりの人間を納得させ、だませるはずだ。いや、だますしかない。もうその手しか残されていないんだからな。
佐藤は立ち上がると二階の部屋にある押し入れからスーツケースを引っ張りだし、それを持って一階のリビングへと向かう。
「急げ、急げ」
リビングにつくとスーツケースを開き、その中に妻の死体を入れはじめる。妻の手足を折り曲げながらなんとかスーツケースに収めた。死後硬直が始まる前に決断できたのはよかった。もし何時間もぐずぐずと押し問答を続けていたら、大変なことになっていた。その時は手足を切断しなければいけないという、恐ろしい作業が待ち構えていたことになる。想像するだけで身の毛もよだつ光景だ。
佐藤は再び二階の部屋へ向かうと、クローゼットからジャージを取り出しそれに着替えはじめた。本か何かで読んだ記憶では、死体を埋めるには相当深く穴を掘らなければ、野良犬などに掘り起こされてしまうと書かれていた。となるとその作業は重労働になる。動きやすい格好でなければならない。
着替え終えた佐藤は洗面所へ行き、顔を洗った。興奮する気持ちを落ち着かせようと、冷たい冷水で何度も顔を洗う。幾分か気持ちが和らぎ、少しは気分が落ち着いたのを感じた。
「落ち着くんだコウジ」洗面台の鏡に映る自分と向き合う。「お前は今から車のトランクにスーツケースを入れる。そして車を運転し、山へと向かう。着いたらそこに穴を掘り、死体を埋める。簡単な事だろ。だから興奮したり、あせったりして車を事故らせたらダメだ。もちろん警察の目に留まらないよう安全運転を心がけるんだ。いいな」
佐藤は気合いを入れるべく、両手で頬を叩くとタオルで顔を拭いた。拭き終えると新しいタオルを手に取り、それを首に巻いた。これからの重労働を考えれば、タオルは間違いなく必要になると知っていたからだ。
キッチンに移動し冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターのペットボトルを手に取り、それを一気に飲み干した。空っぽだった胃が冷たい水で満たされるのを感じる。極度の緊張で大量の汗をかき、水分が不足していたのが解消された。
これで今のところは準備は万端だ、と佐藤は思った。後は誰にも気づかれずに家を出るだけだ。
佐藤はカーテンの隙間から外をのぞいた。日は沈みかけ、夜の帳が下りはじめている。あたりは薄暗く、事を起こすには好都合だな、と思った。自分がいま住んでいる場所は、都市郊外の高級住宅が建ち並ぶ場所で、互いにプライバシーには積極的に関わり合おうとはしない人種が住む所だ。その理由は様々だが、医者に芸能人、その他にも各分野での有名人が集うところで、彼らは世間に下手に名前が知れてる分、面倒ごとを嫌う。だから車のトランクに重そうなスーツケースを載せようとしているところを目撃されても、気にしないはずだ。お互いのプライバシーにはお互いに踏み込んではいけない領域だと、暗黙の了解で承知しているからだ。
佐藤は妻の死体入りスーツケースをゆっくりと引きずりながら玄関にたどり着くと、呼吸を整えドアを開いた。警戒するようにあたりを見回す。誰にも見ていない事が確認できると、急いで車庫へと向かった。
車庫にある黒の乗用車のトランクを開けると、そこにスーツケースを詰め込んだ。
「これでよし」
佐藤は満足げにそう言うとトランクを閉め、車の運転席へと腰を下ろした。後はこの死体を埋めるだけだ。何の問題も起こさずに。
何度かの深呼吸の後、佐藤はキーを回しエンジンを掛けた。冷静に、冷静に運転するんだ、と自分に言い聞かせてアクセルを踏む。
車はゆっくりとした動きで走り始めた。
佐藤はこれで全てがうまくいくはずだ、と思っていた。だがしかし、これから彼を待ち受ける運命の事を知っていれば、きっとひどく混乱するはずだ。なぜならば今は一九九九年七月なのだから。