第二幕 第二十七場
銀行強盗犯である野口ツバサと今井カイセイはパトカーから逃げようと、必死のカーチェイスを続けていた。
「だからさっき言った住所に向かってくれよ、野口」
「お前は正気か!」野口は怒鳴る。「パトカーを引き連れて女に逢いに行くのか。そして女の前で逮捕される瞬間を見せてあげるんだな。とんだサプライズだよ。さぞかし彼女も驚くだろうな」
「落ち着けよ。こういう時にこそ冷静になるべきなんだよ。俺も警察に見つかった時は焦ったが、いまはこうして落ち着く事ができた。だからお前も落ち着けるはずだ」
「できるわけないだろ!」野口は再び怒鳴る。「未だに警察に追われているんだぞ」
「大丈夫だって。お前にならあのパトカーを振り切れる」
「人ごとみたいに言いやがって」
能天気な今井に対して、野口は苛立ちをおぼえた。どうしてこいつは平然としていられるんだ。捕まってしまえばお終いなんだぞ。それがわかっているのか。いや、わかってない。
「ちくしょう、もうダメだ」野口は涙ぐんでしまう。「俺たちはきっと捕まってしまうんだ。せっかく金も手に入れて、残された人生をド派手に生きられると思っていたのに……」
「お前の口からそんな泣き言は聞きたくない」今井が嘆かわしげに首を横に振った。
「この状況では、泣き言も言いたくなるさ」
「どうしてお前は、もっとどっしりと構えていられないんだ」今井がいつになく真剣な口調になる。「俺が知っている野口ツバサは常に冷静で頭が良く、そして何事にも揺るがない心を持っていたはずだ。なのに今のお前ときたら、パトカーに追われているぐらいで、あたふたしていやがる。たしかに逃走中に人を轢いてしまい、警察に見つかるのは計画外の事だ。だがなパトカーに追われるのは、計画の想定内のできごとだったはずだ」
今井にそう言われ、野口ははっとする。たしかにこいつの言う通りだ。銀行からの逃走に手間取り、警察のパトカーに追われるのは計画の想定内だ。
「野口、お前のドライバーテクニックならパトカーの追跡も振り切れるはずだ。そうだろ?」
パトカーに追われた時の対処法はいくつも考えていたはずだ、と野口は思った。猟銃をぶっ放す、迷路のような路地裏に逃走する。いろいろ対策はあったがいまは猟銃もなく、町から離れすぎたため路地裏も使えない。ならどうする?
「たしかに対処法は考えていた」野口は苦虫をかみつぶしたような顔つきになる。「だが今の状況で使えそうなものがないんだよ」
「ひとつだけあったはずだ。最終プランが」
最終プランと聞いて野口は戦慄する。それを実行するにはあまりにも危険極まりない。運が悪ければ死んでしまう。
「……今井、最終プランは危険が大きすぎる」
「それがどうした。そんなこと最初から承知のはずじゃなかったのか。それともお前の中では最終プランはお飾りで、最初っから実行するつもりはなかったのか」
「俺が立てた計画だ。そんなはずないだろ」
「だったらいまが実行するべき時だろ」
今井に背中を押されたが、野口はそれを実行する踏ん切りがつかなかった。たしかに最終プランを実行すれば逃げられるかもしれない。だが同時に事故で死んでしまう可能性が高い。
「今さら命がおしいのか?」今井が訊いてきた。「どうせもうすぐ人類は滅びるんだぞ」
「……そのくらいわかっているよ」
「いいや、今のお前はわかっていない。思い出せ」今井は声を強めた。「お前が俺に銀行強盗の計画を持ちかけたとき、お前は俺に訊いたよな、駆けつけた警官に撃ち殺されるかもしれないがそれでもいいのか、と。俺は死ぬのは怖くないと答えたはずだ。そしてお前にも問いただした、死ぬのが怖いか、と。そしたらお前は怖くない、と高らかに宣言したはずだ」
たしかにそうだった、と野口は思った。あの時の自分は死なんてこれっぽっちも恐れてなかったはずだ。なのに今の自分は死を恐れている。どうしてだ?
「銀行強盗に成功し、大金を手にしたせいでお前は臆病になってしまった」今井が話を続ける。「惜しくなったんだろ、残された人生の豪遊生活が。だがな警察に捕まってしまえば、それも水の泡となるんだぞ」
「そんなの嫌だ!」
「だったらお前が成すべき事はなんだ。よく考えろ野口」
「俺が成すべき事、それはいったい……」
「お前は死を恐れない戦士だったはずだ。そんなお前を止められる人間はいない。今こそ本当の自分に立ち返るべきなんだよ」
今井の激励を聞いた野口が不適な笑みを浮かべた。そうだ、自分は死を恐れない戦士だったはずだ。たとえどんな相手でも戦う覚悟があった。それなのにその気概を忘れてしまっている。こんなにも恥ずかしい事はない。
「……すまなかったな今井」野口は不気味に笑い出す。「やっと目が覚めたよ」
「ようやく本当の自分に戻れたか」今井はしたり顔になる。
「ああ、今までの泣き言を口にしていた自分をぶん殴ってやりたい気分だぜ。思い返すとなさけなくて嫌になってくる」
「気にするな。本当のお前を見せてくれれば、俺はそんなことすぐに忘れてしまう」
「そうか。ならやるしかないな。死ぬかもしれないが覚悟はいいか今井?」野口は挑発するような口調で言った。
「どうせノストラダムスの予言が的中して人類は滅びるんだ! 今さら死ぬなんて、そんなの怖くねえよ! まさか野口、お前怖いのか?」
「ふざけたこと言ってるんじゃねえよ! 俺が怖がるだと? バカも休み休みに言いやがれ!」
二人は大声で笑い始めた。
「野口、お前ならやれると俺は信じている」今井が野口の肩を叩いた。「後はお前に任せた」
「任せておきな」
そういうと野口はハンドルを切り、反対車線へと侵入する。するとそこを走っていた車が慌てて野口たちが乗った車を避けてガードレールへと突っ込んだ。
「飛ばすぞ今井。しっかりと掴まってな」
「了解」
野口たちが乗った車が逆走を始めた。そこを走っている車はわずかだったが、こちらに向かってくる速度は驚異的だ。一歩間違えれば死へと直結する危険極まりない行為だったが、野口は華麗なハンドルさばきでこれを避けていく。
「すげえぞ野口!」今井が興奮したように捲し立てる。「やっぱりお前は天才だ。お前ならこのまま警察をまいて走りきれる。このままアクセル全開で突き進んでくれ。誰もお前を止められる人間はいないぞ」
「楽しくなってきた!」
野口達が逆走するのをパトカーは反対車線へ踏み込まず並走して追っていたが、その先にある道が分かれていることに気づいたのか、とうとう彼らと同じ反対車線へと突入してきた。
「おい、ヤツらもこっちに来たぞ」今井がうれしそうに言った。
「おもしろい。どっちが先に事故るか根比べだ」
「ヘマするなよ野口」
「わかってる。無事お前を女の元へ届けてやるよ」
「頼もしい言葉だ。期待しているぜ」
アドレナリンが分泌して気分が高揚してくるのを野口は感じた。いままさに自分は無敵だ。集中力は研ぎすまされ、こちらに向かってくる車がまるでスローモーションのように感じられた。対向車にぶつかって事故る気がまったくしない。いまの自分ならF1レーサーにだって負けやしない。
「最高だ。最高に盛り上がってきた」野口は舌なめずりする。「もう誰にも俺は止められない」
「ああ、その通りだ野口!」今井が激励する。「お前は無敵だ!」
いまの自分ならなんだってできる、と野口は思った。警察のパトカーをまくなんて朝飯前だ。そろそろ目障りになってきたから、ここらで決着を付けてやる。次の曲がり角を越えたら一気に引き離してやる。
野口らを乗せた車が曲がり角に突入しようとしたその時、その先から黒い乗用車が姿を現した。驚異的な集中力状態の野口はすぐさま反応しハンドルを切ったが、車がそれについてこれず、黒い乗用車を躱しきれずに正面衝突してしまい、彼らの人生はそこで幕を下ろすことになった。




