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第二幕 第九場

 田中ユウキがホテルに向かって夜の町を歩いていると、携帯電話が鳴りだした。白黒の画面に表示される相手の名前を見て、ヒメがいない時でよかった、と彼は思った。


「あっ、もしもし」


「ちょっとユウキ」女の声だ。「いつまで待たせるのかしら。貸したお金を返してほしいんだけど」


「わかってる。ちゃんと返すから心配しないで」


「本気で返す気あるの?」疑うような口調だった。


「もちろんさ」田中はわざとらしく明るく言う。「ちゃんとキミから借りたお金は必ず返す。だから来月まで待ってくれよ」


「その言葉、信用していいの?」


「僕を信じてくれ。約束するからさ」


「……わかった。約束だからね。絶対に返してよ」


「絶対に返すよ。来月を楽しみに待ってて」


 電話を切ると、田中はふんっと鼻を鳴らした。ノストラダムスの予言を信じないバカ女め。お前は利用されていればいいんだよ。


「来月には人類は滅びているんだ。金なんて返せるわけないだろバカ女」


 ノストラダムスの予言通り人類が滅亡すると考えている田中は、ホストを辞め溜め込んでいた貯金で豪遊生活を送っていたが、やがてそれが尽きると、ホスト時代に知り合った客からお金を次々と借りるようになっていた。無論、返すあてもなく、最初から踏み倒すつもりでの行動であった。


「さてとホテルに急がなくっちゃ」眼鏡の縁をくいっと持ち上げる。


 田中はこれからの楽しいひとときの事を思い描き、心が躍りだす。そのためか、まわりの目を気にせずスキップしながら鼻歌を口ずさむ。彼に羞恥心などもはやなく、どんなに恥をかいても、どうせすぐに人類は滅亡するから関係ないと考えていた。


 車の往来が少なかったため、田中は赤信号を渡り始める。走っていた車が急ブレーキを踏み、クラクションを鳴らした。


「バカやろう!」車のドライバーが怒鳴った。「信号も見えないのか」


「歩行者様優先だ。キミが僕にあわせろ」田中は彼に顔をあわせようともせず、信号を渡り続ける。


「何ふざけたこと言っている。死にたいのか」


「死ぬことなんて怖くないさ。どうせ人類は滅亡する」


 田中はハイになっていた。いまの自分に怖いものなどない。だから僕は最強だ。誰にも自分を止められる人間などいない。



 一方その頃、銀行支店から野口ツバサと今井カイセイが飛び出してきた。二人は路肩に停めておいた黒の乗用車に乗ると、戦利品が詰まったカバンを後部座席に投げた。


「うまくいったな」助手席に乗る野口が興奮気味に言った。


「ああ、あとはずらかるだけだ」


 今井はエンジンをかけると、急いで車を走らせた。ある程度進んだところで、二人はフェイスマスクを脱ぐ。


「それにしても、ちょろいもんだったな野口」今井が言った。


「そうだな。こんなにも簡単にいくとは思わなかった」野口はそう言いながら猟銃を毛布で包むと、後部座席に置く。「抵抗されると予想していたのに、言われるがままに金を用意してくれた」


「脅しが効いたんだろうな」


「やっぱ有無を言わさず、時間制限付きの要求にしたのは正解だった」


「下手に相手に考える余地を与えない、その考えを実行したお前の計画は天才的だよ。早く祝杯をあげたいぜ」


「浴びるほど飲もうぜ」


 最高の気分だ、と野口は思った。あまりにも順調に行き過ぎて怖いくらいだ。あとは車の通行量が少ない道を選んでホームセンターへと向かい、車を乗り換えるだけだ。そうすれば後はもう、警察に見つかる可能性はほぼないだろう。そして車の不法投棄場に金を隠し、東京に帰る。簡単な作業だ。


「ヒメも喜ぶぞ」今井がうれしそうに言った。


「さっそく電話してやれよ。大金が手に入ったって」


「いや、それがダメなんだ」


「どうして?」


「なんでも彼女、今日は友達と映画館巡りするから電話はしてこないでって言われているんだ」


「たしかに映画館で映画を観ている時に、携帯に電話がかかってきて着信音を鳴り響かせたら迷惑だもんな」


 携帯電話が普及するに連れて、こういった問題が生じている。いずれ上映前に携帯電話の電源を切るように、とアナウンスがされる日が来るかもしれない。だがその考えを野口はすぐさま打ち消す。ノストラダムスの予言通り人類は滅亡するんだ。そんな日が来ることはないな。


「あっ、そうだ野口。今夜、祝杯をあげる金が必要になるだろから、金を隠す前に百万ぐらい取っておこうぜ。そのぐらいなら例え警察に見つかっても、どうにでも言い訳がつくだろ」


「それもそうだな」


 野口が後部座席のカバンに手を伸ばそうと後ろを振り向いた瞬間、車が急ブレーキし、その後、大きな衝撃で車体が揺れ動いた。


「何してんだよバカ!」野口は怒鳴った。「ちゃんと運転してろよ」


「俺にバカって言うな!」今井も怒鳴り返した。「それを言うなら信号無視してきた、あのバカに言ってやれよ」


 今井にそう言われて、野口は前を向いた。そこには女物のショルダーバッグを手にした男が頭から血を流し倒れていた。男は身動きする様子はなく、嫌な考えが脳裏を過った。


 野口はあんぐりと口を開ける。「……今井、お前まさか人を轢き殺したのか?」


「轢き殺したかどうかは、確かめないとわからないだろ」落ち着いた口調で言う。「だからお前の質問に対する答えは、わからない、だ」


「そういうことじゃねえよ!」


「じゃあどういうことだよ?」


「もういい」そこで野口は頭を抱える。「まずいことになったぞこれは……」


 野口は車を降りると、あたりを見回し目撃者がいないかどうか確かめる。不幸中の幸いというべきなのか、なるべく車の往来が少ない道を選んで走っていたので、目撃者はいなかった。だが衝突の際の音を聞かれ、誰かがやってくるかもしれない。そしたらどうなるかは、想像もしたくなかった。


「今井、あの男を隠すぞ」


 今井も車を降りる。「隠すってどこに?」


「車のトランクにだ。急げ」


 野口は男に駆け寄るとその顔を見る。頭から流れている血は顔の半分を覆い、掛けている眼鏡にはヒビが入っていた。おそらく死んだか、かろうじて生きていたとしても、そのうち死ぬだろう。


「こいつが持っているバッグ……」今井が不思議そうに男を見下ろす。


 野口は男の腕をつかみあげ、無理矢理立たせる。「何ぼさっとしてんだ、さっさと手伝えよ」


「こいつが肩からぶら下げているバッグが、彼女にプレゼントしたやつにそっくりなんだよな。こいつ男のくせに、なんで彼女と同じ女物のショルダーバッグを持っているんだ。もしかしてオカマなのか」


「そんなことどうだっていいだろ!」野口は思わず大声になる。「誰かに見られて通報されたら面倒なことになる!」


「だったらそう大声をだすな。気をつけろよ」


「よけいなお世話だ! 早く手伝え!」


「わかったよ」


 二人は男を担ぐと、車のトランクの中に彼を押し込んだ。

 野口は再びあたりを見回し、目撃者がいなかったかどうか確かめる。自分が確認できる範囲ではいなかったが、もし見られていたとしたらまずいな。早くこの場を立ち去らないといけない。


「急いでずらかるぞ」そう言うと、野口は車に乗り込んだ。


 今井も車に乗り込むと車を走らせ、事故現場を後にする。

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