第一幕 第一場
佐藤コウジは友人である山本ヨウヘイの話を、うわの空で聞いていた。普段ならば友人とのバカ話で盛り上がるところだが、今回は適当に相づちを返すだけだった。
なぜこんなことになってしまったのか、と佐藤は思った。理由は簡単だ。すべてはノストラダムスのせいだ。あいつのせいで自分は苦しめられている。
佐藤は重いため息をつくと、うつむいてしまう。
「おい、コウジ」山本が怪訝そうな表情で言った。「お前、俺の話をちゃんと聞いているのか?」
佐藤は暗い顔を上げると、気を取り直すかのように笑みを繕う。
「すまないヨウヘイ。ちょっとぼーっとしていた」
「どうしたんだよ。いつものお前らしくない。もっと話にのってこいよ」
「悪かったよ。それでどんな話だっけ」
佐藤は詫びると、話に集中しようと気を引き締めた。小学校からの腐れ縁である友人の機嫌を損ねたくないからだ。
佐藤と山本の仲はよく、それは親友といっても過言ではない。その証拠に三十五歳になった今でも、こうして付き合いは続いている。
ふたりは佐藤家のリビングで、テーブルを挟んで向かい合いながらソファー座っていた。
「この世で一番怖いのは、死を恐れないバカなんだよ」
山本は自信満々にそう言うと、にやりと口元を歪める。その仕草は続きを催促しろよ、といういつもの合図だ。
「どうして死を恐れないバカが、この世で一番怖いんだ?」
「人間は必ず死ぬ。それはこの世に生まれ落ちた瞬間からはじまる、誰にも逃れられない運命だろ」
「たしかにそうだな。生き続ければ人はいずれ死ぬさ」
「だが多くの人間はその事実から目を背けている。その事実が怖いからだ。だがその事実を受け入れたとき、そいつはなんだってできる」
「どうしてだ?」
「よく言うだろ。死ぬ気になればなんだってできるって。もし刑が執行される寸前の死刑囚がいたとする。そいつはいま、絞首台でブランコするために、死の階段を一歩一歩のぼってる。そんな死を間近にしたヤツに、拳銃を渡してやったらどうなると思う?」
「そいつを使って逃げるに決まってるさ」
「まわりに拳銃を所持した、死刑執行人がわんさかいたとしてもか」
「無論だ。どのみち殺されるんなら、やるしかないだろ」
「その通り」山本は満足げにうなずいた。「刑が執行されて死ぬとわかっていたら、たとえ殺される可能性があっても逃亡する。死ぬ気になればなんだってできるからな」
「なるほどね」
「死ぬ事がわかっている人間は、どんな危険な事でもやってのける。思考が一般人のそれとはまったく違うからな」
山本はそこで言葉を切ると、口元をにやりと歪めた。佐藤はいつものように続きを促す。
「それで、その事とバカは何が関係しているんだ?」
「バカは怖い」山本は指を鳴らした。「そうだろ」
「なんでバカが怖いんだ?」
「だってバカは簡単な嘘にだまされたりするんだぜ。たとえば最近あった例の新興宗教の詐欺事件おぼえているか。あんなうさんくさい教祖を信じて、信者は金を貢ぐんだぜ。バカとしか思えない。しかも未だに自分がだまされていたと理解してないヤツまでいる始末。バカを通り越して恐怖するだろ」
「どうして?」
「おそらくあの洗脳された信者どもは、教祖がやれと言った事は何でもやるに違いない。もしかしたら犯罪だって犯したかもしれない。そう考えると簡単に洗脳されるバカは怖いだろ」
「まあ、たしかにそうだな」
「そしてそのバカ信者が、明日自分が死ぬとわかっていたなら、どうなると思う」山本の語る口調がヒートアップする。「きっとそのバカ信者は何だって恐れずにやるぜ。教祖のためなら平気で人を殺せる殺戮マシーンだ。自分が死ぬまで殺すのを止めない」
佐藤は思わず苦笑してしまう。さすがに話が飛躍しすぎている。
「いくらなんでも、それはないんじゃないか。それにそのバカ信者は、どうやって明日自分が死ぬなんてことを知るんだ。まさか占い師にでも占ってもらうつもりか」
「しまった!」山本はくやしげな表情を浮かべる。「完璧な理論だったと思ったのに、こうもあっさり崩されるとは」
「理論のつもりだったのかよ」
佐藤は笑い声を漏らしながら山本を見つめる。こんなバカ話をしてくれる彼の事を佐藤はおもしろいやつだと昔から思っていた。
「でもよ、コウジ」山本が言った。「もしも明日にでも死ぬとわかっているバカがいたとしたら、そいつを脅威に感じないか」
「たしかに脅威だな」そこで間を置く。「もしもそんなヤツがいたならばの話だがな」
「だろ」山本の眉毛が得意げに踊った。「きっとそいつらは、死を恐れないバカどもは、この世で一番恐ろしい怪物になる。誰にも予想できない行動をとるに違いない。血の雨が降るぜ」
山本のバカ話に一旦区切りがついて一息つくと、二人はテーブルに置いてあるアイスコーヒーを口にした。
佐藤はアイスコーヒーを飲み終えるとため息をつく。いま自分が抱えている問題が頭をもたげたからだ。
「どうしたんだよ」山本が言った。「ため息なんかついたりしてさ」
「悪い。ちょっと悩みを抱えていてな、その事を思い出しちまった」
「水臭いな。悩みがあるんだったら俺が聞くぜ」山本は心配するような口調だ。「小学校からの友達だろ。遠慮するなよ」
「ありがとう、ヨウヘイ」
山本の言葉は佐藤にとってうれしいものだった。昔からこうやって自分を励まし、悩みを聞いてくれる山本の存在は頼もしかった。だから今回も悩みを打ち明けようと、彼を自宅に招いていたのだった。
「じつは妻の事で悩んでいるんだ」
「あの女がどうかしたのか」
「アカネのやつ、俺の財産を勝手に使いまくっているんだよ。それも何百万という単位の金額で」
「なんだって!」山本は目を剥いた。「あのクソ女、好き勝手やりやがって。だから結婚する前に忠告しただろコウジ。あの女はお前の財産狙いだって」
「ああ、そうだな。あの時のお前の言葉をしっかりと聞いておくべきだったよ」
「十歳年下の女だからって——」
「十一歳だ」佐藤が訂正する。
「なに?」山本は顔をしかめた。
「十歳年下じゃなくて、十一歳年下だ」
「そんな細かい事どうでもいいんだよ! いいかよく聞けコウジ。十一歳年下の女からおだてられ、だまされて結婚したのはお前の落ち度だ。クソ女のクソみたいな臭いを嗅ぎ分ける事のできなかったお前のな」
「ああ、わかってるよ」
山本に指摘され、佐藤は弱ったていで頭を掻いた。若くて美人な女からチヤホヤされるのはうれしかった。そのせいで山本の忠告は耳には入らなかった。妻のアカネは結婚後しばらくは大人しかったが、ここ最近急変し、自分の貯金を使ったり、財産を金に換えて浪費している。
「それでどうするんだよ?」山本が訊いてきた。
「どうするって何が?」
「決まってるだろうがよ。そのクソ女といつまで一緒にいる気だ。とっとと別れちまえよ」
「そう言われてもな、世間体というものがあるし、離婚なんて無理だよ……」
「おいおい、そんな弱気な事を言わないでくれよ。自信家の佐藤コウジはどこにいったんだ。これを見てみろよ」
山本は立ち上がると広いリビングを手でぐるりと指し示す。広々としたリビングは二十畳ほどあり、高級な家具調度品が置かれている。
「都市郊外とはいえ、こんなでかい家をお前は手に入れることができた。それはなぜか。答えは簡単、お前が一流の大学に入って、一流の企業に入社したエリートだからだ。都内の狭いマンション暮らしの俺にはお前が憧れだ。だからそんな弱気な姿を俺に見せないでくれ。頼むからいつもみたいに自信家の佐藤コウジに戻ってくれよ」
「でも……」
「コウジ!」山本が叱咤するかのように叫んだ。「お前は死ぬまでそんなクソ女といるつもりなのかよ。お前の事を金づるとしてしか見てないようなクソ女なんて切り捨てろ。お前の残された人生、そのクソ女のせいで台無しにするつもりか。お前はそれでいいのかよ。もっと真剣に自分の残された人生を考えてみろ」
山本にそう言われ、佐藤は考える。妻のアカネは自分の財産を食いつぶす事しか考えていないクズだった。そんな女といつまでも一緒にいて、いいわけがない。
「ああ、そうだな」佐藤は拳を握った。「お前の言う通りだよ、ヨウヘイ。俺は妻のアカネと別れるよ」
「そうこなくっちゃ」山本は拍手を送る。「別れるなら早い方がいい。時間は限られているからな。今日にでも別れ話をしろよ」
「そうするよ」
佐藤は友人の助言に感謝しつつ、今の気持ちを整理する。自分は妻と別れたかったに違いない。だけどそれに踏み切れず、誰かに背中を押してもらいたかったのだ。だからこいつを家に招いたのだろう。こうなろうことを無意識に予想して。
「でも妻に別れ話を切り出して、向こうが拒否してきたらどうしよう」佐藤は不安を口にした。「あいつの事だから、すんなりうなづくとは思えないな」
「その時は、俺が殺してやろうか」
「えっ?」
山本の突拍子のない言葉に、佐藤は素っ頓狂な声をあげてしまった。こいつはいま、なんて言った? 俺が殺してやろうか? まさかな……。
不気味な沈黙が訪れた。二人は真顔でお互いを見つめ合っている。
先に沈黙を破ったのは山本だった。
「冗談だよ、冗談」笑いながらそう言う。「そんなびっくりしたような顔は止めてくれよ。いつものお前なら、笑い飛ばしてくれるはずだろ」
からかわれたことを知って、佐藤は緊張を解いた。
「脅かすなよヨウヘイ」
「それはこっちのセリフだ。そんな真顔で見つめられたら驚くだろ」
「悪かったよ。ちょっといろいろ根詰めてて、精神的に余裕がなかったみたいだ」
山本は自身の腕時計に目を落とす。「悪いコウジ、俺そろそろ行くわ」
「何か予定でもあるのか?」
「ちょっと銀行に寄らなくちゃならないんだ」
「そうか」
山本は着ているスーツを正すと、緩めていたネクタイをキツく締めた。そして手鏡を取り出すと、少しばかり乱れていた髪を後ろに撫で付ける。
「これでよし」
山本のその姿は完璧な営業マンだった。その口のうまさで訪問先に商品を売りつけるのが得意だと、耳にたこができるくらい自慢されている。
佐藤は山本を見送るため玄関へと移動する。
「今日は来てくれてうれしかったよ、ヨウヘイ」
「いいってことよ。それよりも離婚の話、うまくやりな。もしだめだったら俺が手伝ってやるよ」
「ありがとう。本当にお前は頼りになるよ」
「それじゃあコウジ」山本は明るい口調で言う。「陽気に生きよう、我々は必ず死ぬのだから」
そう言って山本は、佐藤宅から出て行った。