第二幕 第五場
日が暮れ始め、だんだんとあたりが薄暗くなる頃、眼鏡をかけた容姿端麗な男が小走りで町中を進んでいた。彼の名前は田中ユウキ。彼もまたノストラダムスの予言で人類が滅びると信じている人間で、そのため勤めていたホストクラブを半年前に辞めると、溜め込んでいた貯金で豪遊を始める。
だがしかし、どんなにド派手に遊んでいても田中の心が満たされることはなかった。なぜならまわりの人間は誰もノストラダムスの予言を信じておらず、彼をバカ者扱いにする。そのせいで彼は孤独を感じていた。もうすぐ人類は滅亡してしまうというのに、このまま誰にも理解されず、ひとりさみしく死んでいくのかと絶望していた。
そんな時、ある女性と出逢った。彼女もまた田中と同じでノストラダムスの予言を信じていた。
運命の出逢いだ、と田中は思った。自分の心を理解してくれる彼女にどっぷりはまり、恋に落ちるのは必然だった。彼は彼女のために高価な贈り物や高級レストランに連れて行ったりと、まるで女神のように大切に扱った。
そして今日もまたその女神に逢うために、彼女との待ち合わせ場所へと急いでいた。
田中は目的地であるカフェの入り口にたどり着くと彼女の姿を探した。
「ダーリン」
そう声をかけられ、田中の視線はテラスへと向けられる。そこには自分にとって女神である鈴木ヒメコの姿があった。彼女はウォークマンで曲を聴いていたらしく、自分が来たことでイヤホンを外そうとしていた。
「またせてごめん」
田中はすぐさまヒメコのもとに駆けつけると、人目をはばからず彼女にキスをする。それは十秒近く続いた。
「今日も綺麗だよヒメ」
「ありがとうダーリン」
田中はヒメコのすぐ隣の席に座ると、テーブルの上に置かれた『MDウォークマン』をに目を向ける。MDウォークマンはミニディスク、通称MDと呼ばれるデジタルオーディオの光学ディスクを用いたウォークマンである。MDは直系が六十四ミリと小型で、これはCDの大きさの約半分であり、そのため従来のCDウォークマンと比べて、MDウォークマンはそのサイズをコンパクトにまとめることができた。
「僕が買ってあげたMDウォークマン、使ってくれてるんだね」
「もちろんよ。だってこれCDウォークマンよりも小さくて持ち運びに便利だし、カセットウォークマンよりも音質がいいから重宝しちゃう」
「それでいったい何を聴いていたんだいヒメ?」
「『宇多田ヒカル』よ」
宇多田ヒカルか、と田中は思った。彼女は一九九九八年十二月にファーストトシングルである『Automatic』でデビューするやいなや時の人となり、三月に発売された初アルバム『First Love』の売り上げがすでに六百万枚を越えている怪物だ。
「宇多田ヒカルいいよね。彼女のアルバムってメチャクチャ売れているんだろ」
「そうなのよダーリン。彼女の歌ってとても魅了的だから、ものすごく売れちゃっているのよ。最近になってテレビの音楽番組にでるようになったんだけど、なんと宇多田ヒカルってまだ十六歳の女の子だったのよ。しかも自分で作詞作曲を手がけるなんて信じられない。まさに天才少女だわ」
「きっと彼女ならこの先もミリオンセラーを連発できるはずだ。だからこそ本当に残念でならない」
「……そうね。ノストラダムスの予言で人類は滅んでしまうんですもの。しかたがないわよね」
ふたりの間に流れる空気がしんみりとしたものに変わった。この先のことを思い、憂いている様子だ。
「嘆くのはやめよう」田中はヒメコの手を取ると、やさしく握りしめた。「最後くらい、明るく楽しく生きようじゃないか」
「あなたの言う通りだわ、ダーリン」ヒメコが微笑んだ。「残された時間くらい、楽しまなきゃ損よね」
「僕がヒメを楽しませてあげるよ」
「今日はどうやって私を楽しませてくれるのかしら?」
「そうだな。食事の前に映画でも見に行こうか」
「どんな映画を見るの。私『アルマゲドン』みたいなド派手なハリウッド映画がいいな」
彼女にアルマゲドンと言われ、田中は昨年の十二月に公開されたその映画について思い返す。巨大な小惑星が地球に衝突し地球が滅亡してしまう危機から、ブルース・ウィリスが演じるハリー・スタンパーらが率いるNASAの特殊チームが、シャトルに乗って宇宙に向かい、小惑星を核で破壊して軌道をそらすことで地球滅亡の危機を救うという物語だ。アルマゲドンは公開された約四ヶ月で、日本興行収入百四十億を突破する異例の大ヒットとなった。
「たしかにアルマゲドンは面白かった」田中は言った。「地球滅亡の危機を救うために活躍するブルース・ウィリスが格好良かった。評論家からはあの映画は陳腐だとか言われているけど、僕は好きだな」
「ねえダーリン。ノストラダムスの空から恐怖の大王が降ってくるって予言、もしかしてアルマゲドンの映画みたいに隕石かもしれないわ」
「人類が滅びてしまうんだから、その可能性はあり得るね」
「映画と違って現実は非常よね。隕石を破壊してくれるようなヒーローなんていない。誰も人類滅亡の運命から逃れないわ」
「しかたがないさ。しょせん映画なんてものは娯楽作品で、ご都合主義なんだから」
「それでダーリン、何の映画を見るの?」
「まだ決めていないよ」
「それだったら別のことしましょうよ」
「別のこと?」
ヒメコは口元に怪しい笑みを浮かべる。「レストランの予約は何時?」
「八時だけど」
「それなら予約の時間まで、運動でもしてお腹を減らしましょう」
「運動って何をするんだい?」
「何ってわかっているでしょう、ダーリン」
ヒメコが言わんとすることを田中は理解していた。だが彼はあえてそのことを知らないふりを続ける。
「わかんないなヒメ。いったい何をするんだい?」
「もうダーリンったら、わかってるくせに意地悪な人ね」
「本当にわからないんだよ。だからキミの口から僕に教えてくれるとありがたいんだけどな」
「しかたがないわね」ヒメコは田中にキスをすると、彼の耳元でささやく。「いつものホテルに行きましょう」
「わかった」にんまりと笑う。
ふたりが立ち上がり移動を開始しようとした時、田中がイスに残されたバッグを見つけ、それを手にする。
「ヒメ、忘れ物だよ」
「えっ? 私バッグなんて持ってきてないわよ」そこではっとした表情になる。「あっ、それ友達のバッグだわ。あの子ったら忘れ物しちゃったのね」
「これってヒメの友達の物?」
「そうなのよ。もうおっちょこちょいなんだから」
ヒメコはそういうと携帯電話を取り出し電話をかける。すると田中が手にしているバッグから着信音が聞こえてきた。
「あらやだ。アカネったら携帯もバッグに入れたまま忘れたのね。しょうがないな。私届けてくるわね」
ヒメコは田中からアカネのバッグを受け取ると、自分の荷物であるショルダーバッグを彼に渡した。
「いつものホテルのいつもの部屋で待っててダーリン。シャワー浴び終えるまでには戻ってこれるから」
「わかったよヒメ」
二人はキスを交わすと、カフェを出て別々に歩き出す。ヒメコは友達の家へ、田中はホテルを目指して。




